第9話 キャンプ



春休みになって、僕もアルバイトに勤しんだ。

「昼間は暇だから、来なくていいよ」と言う

店長さんのお言葉により。


収入は増えず。


でも、昼間、ちょっと店の前を通ると

ひろーい駐車場の、隅に


GT-Rがあったりした。


「いいなぁ、GT-R」と、言って、僕が近づくと

店長さんが、なんだかエアクリーナを外したりしていて


「おお、乗るか?」と言って

試運転に連れて行ってくれたりして。


2ドアハードトップで、綺麗なGTRはあんまりなくて。

結構な高値が付いていたりした。



国道に出ると、アクセルを全開。


とてもいい音と、豪快な加速。


偶々、兄がセリカGTVで走っていて。


「あれ、兄です」と、僕が言うと


「よし!」と、店長さんは


シフト・ダウン。


フル加速で一気に追い抜いて。


その時、僕は窓から兄貴に手を振った。


兄貴のGTVも、あちこち改造してあったので

結構いい加速だったと思う。


(ラリー用カム、エアクリーナ解放、トランジスタ点火。

1750cc。8000rpmまで回った。

兄は、トヨタのメカニックで、全部自分で改造した。)



この時は、ついて来なかった。


「どうだ」と店長さんが言うので


「すごいですね。いい音」と僕が言うと



「ああ、音もいいな。これは」と、店長さん。



なんでも、工事中のバイパス道路で


店員さんのサバンナRX-7と、ゼロヨンをやっているとの事だった(笑)



「でも、勝てない。これで勝てるだろう」と

エアクリーナを外したGT-Rで。街を一回りした。





クルマもいいなぁ、なんて思ったりもした。



このお店には、クルマ、バイク好きが集まってくるようになった。

その頃の若者の楽しみは、だいたいそれだった。


僕は、いつも徒歩なので、改造GRに乗っているのを知る者は少ない。


別棟に更衣室と休憩所があり、畳敷きの12畳くらいの部屋には

クルマやバイク雑誌、漫画が転がっていたり。




そこで、いろんなバイクの話を聴いたけど


SR400の事は話題に上る事は無かった。


早い、大きい、カッコイイ。

そういうのが流行りだったのもある。


4気筒が、なぜか無かったので

古いCB400Fが、中古で高値を呼んでいたりした。





4月。


二年生になった。


あまり、代わり映えもしない。


クラスの顔ぶれはそんなに変わらなかったし、

担任もピュンピュン丸のままだった(笑)

ただ、教室が二階になって

少し、風通しが良くなった。そのくらいの変化。



二年から、進学組、就職組の選択授業になったが

これは、成績で決められる。


本人は希望出来ない制度で、進学をしたくても

無理、と

その時点で決まってしまっているようなものだった

(が、入試は出来る)。



僕は、なぜか進学組に入れられて

数学、英語、理科系は全部進学組だった。


それなので、クラス、と言っても

ホームルームが一緒なだけで

授業はほとんど、別のクラスと一緒だった。


「大学なんて行く気はないけど・・・。」もとより、行けると思っていなかった。


お金の問題で。




バイトしながら学校に行くのは、もう沢山、と言う

そんな感じだったし


父の病気が良くなる見込みは無かった。




それに、国鉄に入りたかったのもあった。

中卒で入って置きたかったのだけど

職員の、叔父が「高校くらいは出てからの方がいい」と。


それで、渋々(笑)。

そういう理由もあった。



ともあれ、花の高2である。


もう少し、遊べるときは遊びたい。



24HRでも、ノリちゃんはクラスメートだった。

僕が、なにか歌を歌ってると

「すぐ歌うね」と、笑われた。


「えへ」と、僕も笑う。

歌うのがふつう、だったりもして。


五木ひろしの物真似をすると、正光くん(あの、大親分の甥)とか

喜んで聴いていた。


新しくクラスメートになった、チョボもそのひとり。

おちょぼ口で、大柄、優しい性格なので

そう呼ばれていた。


彼も、免許隠匿(笑)。

DT125Mに乗っていた。



アイパーくん、と言う小柄でかわいい男の子も居て


髪の毛がアイパー、みたいな天然だから

そういう仇名になった(笑)。




1年の時、少林寺拳法の使い手にいたずらした

清も、同じクラスになった。


相変わらず、茶髪の短髪、ウェットヘアだったが

タマーに頭髪検査がある時だけ

黒いチックを塗って、誤魔化していた。



それを、いたずらで点々に塗られて


「黒点」なんて言われて。


それから、清の仇名は「黒点」になった(笑)。








このチョボくんは、優しいので

僕は、よく一緒に遊んだ。


いつだったか、DT125Mと僕のGRとで

ミニツーリングに行った事があった。


北高のあたりは、丘陵地なので

小さな山が幾つもある。


そのひとつを、ぐるっと回ってくる林道があって、車はほとんど居ないから

そこを、ちょっと。


2時間くらいの軽いコースなので、ちょうどいい。


ツーリング、と言っても


朝からしっかり、なんていうのではなくて

道で会ったから「ちょっと行こうよ」と言う感じ。


ランアバウト、だろうか。そういう気楽さが良かった。


50ccはヘルメットが努力義務なので、山の中で、外して走っていたら


なぜか、いつもは来るはずのないパトカーとすれ違う(笑)。


僕は、素早くヘルメットを被った(笑)。



お巡りさんは、降りてきて「だめだよー、持ってたら被りなさい」と。笑っていた。


「125ccと一緒に走るのは、スピードが違うでしょう。原付は30km/hだから。」

とは言った。


すれ違いなので、計測していた訳でもないから、捕まる事もなかったが


冷や汗もんだった。



どういう訳か、交通違反をすると

学校がそれを知るので。


そうすると、免許を学校に預けないで乗ってたら

謹慎くらいにはなる。


どうも、警察の交通課に

風紀の先生が行って、違反者リストを閲覧していたらしい。


その当時は、そんな違法(笑)な事がまかり通っていた。


まだまだ戦後、と言う感じだったのだろう。







小中学校でも、体罰なんて普通だった。



僕が小学1年に上がったばかりの頃、担任の教師は

女なのに眉間に皺のある、天地茂(笑)みたいな女で


意地が悪かった。



小学校だから、ずっと担任の授業なんだけど

その、2時間目だったか。


その天地茂(笑)が言った言葉を、聞き逃した僕。



「すみません、聞き逃しました。」と言うと



「先生は二度といいません!ずっと立っていなさい!」と。


給食も食えなかった。



いまなら懲戒免職ものだろうけど、そんな事が多かった。



放課後まで立たされたが、僕は悪い事をしたと思っていない。



教師が戻ってきたのが、15時頃だったろうか。


小1だったから、クラスのみんなは13時頃下校である。



「反省しましたか?」と、女天地茂は言うので


僕は「いえ、聞き逃しは誰にでもあるでしょうから

反省する必要はないです」と、きっぱり言うと



女天地茂は「今、何て言ったの?!」と言うので


僕は「ほら、先生だって聞き逃すでしょう。反省するんですか、いちいち。」

と言ったら、女天地茂は怒った怒った。


ひっぱたかれた(笑)。



「父兄を呼びます!」と言うから

僕は、どうぞ、と笑った。


思う壺である(笑)。





父は当時は元気、羽振りも良く


クラウン・スーパーサルーンで、校庭に乗りつけた(笑)。




父、教師、僕。面談。



父は「息子は悪くない。反省の必要もない。教頭を呼びなさい!」



女、天地茂は顔面蒼白(笑)。



この女のお父さんが、5年の学年主任をしており


教頭とふたりで謝りに来た。


「全く、申し訳ありません。」

と、頭を下げたのは、教頭とその5年の学年主任だけだった。



女は謝らないので、父、怒る(笑)


「あなたの態度は問題だ。教育委員会に報告しますよ。

人権侵害だろう、職権乱用だ。体罰を与えたから

暴行罪でもありますね。」



教頭、慌てる。「杉山くん(この女天地茂の苗字)謝罪しなさい。」



渋々、謝る(笑)


父は、それだけで納まらず、詫び状を書け、と言った(笑)。



そんなものがあったら、違法行為の証拠になってしまうので

「まあ、お父様。どうか、ここは、私に免じて・・・。もう、絶対にさせません。」と


校長まで出てきて(笑)。



それで僕は、クラウンに乗って帰った。



人権を守る、そんな事ですら大変な時代であった(これは、67年のお話だが)。


ただ、教師にも正義があったようだった。


この件の翌年、この女天地茂(笑)は


その小学校には居なかった。


噂では、依願退職にさせられた、との事だった。



その街の教育委員会には正義があった、と言う事だろう。








ノリちゃんは、ホーク2の初期型が好きで

中古で、いいのを探していた。

やかんタンク、と揶揄されたそれを

ふつうに選ぶ。

その感じが好きだった。


「俺が好きだから、いいんだ。」


そういう、ストレートな奴。


別段、つっぱりではないのだけど

若者らしかった。



中型免許が取れ、上野のバイク街まで

中古車を探しに行って。


工場の「お兄ちゃん」が

工場のトラックを運転してくれて、上野から持ってきた。

20万くらいだったと思う。走行が5000kmくらいで

綺麗なバイクだった。


「いいなぁ」と、僕は思い


この頃、発売が予定されていたCM400T、それでもいいかな、なんて思った。



アメリカンバイクが、ちょっとブームになっていた時期で

ヤマハが「スペシャル」、カワサキが「LTD」、スズキは・・・「L」かな。

それぞれに、普通のロードスポーツをアップハンドルにして

シートを三段シート(笑)にしたような。


・・・・暴走族のバイクにちょっと似てるけど(笑)。


暴走族のバイクって、三段シート、絞りハンドル、旗棒、布垂れ風防を前に倒す、

三連ラッパ、なんてのが多かった。



それっぽい感じもしたけど、僕は割りと好きだった。


けど、CM400Tも31万円で

SRと同じ。


それに何故か発売が遅れた。






「メンテ、メンテ」と、持ってきたホーク2のメンテに

僕も付き合った。


「まずはオイル交換だなー。」


中古だから、オイルは変えてないだろうと思うけど


5000kmくらいなら・・・平気かと思った。


でもまあ、変えてみる。


ノリちゃん家の前に、バイクを出して

メインスタンドを掛けて。


少し、アイドリングで暖めて。



オイルフィルターも買ってあった、用意のいいノリちゃん。


オイルは、ホンダ純正ウルトラ、と言う

なんか、スペシウム光線が出そうなオイル(笑)。


それを買ってあった。




メインスタンドを掛けて、オイル受け、これもプラスチックのカッコイイもの。



僕のは、というと

オイルの4L缶を切って、受け皿っぽく加工したものだが(笑)


それはそれで好きだった。

工夫して作ったんだもの。





「オイル、全部抜けるかな」と、ノリちゃん。


「全部は無理じゃない?」と、僕。


4サイクルは乗ったことないから分からない(笑)。




「セル回したら出るかな。」と、ノリちゃん。



「出ると思うけど、エンジン掛けないようにね。」と、僕。



なるほど、と、ノリちゃんは、キルスイッチを切っておいて


セルを回した。



でも、オイルフィラーキャップが開いていた。



オイルの飛沫。ノリちゃんの顔面直撃(笑)。



偶々、そこに顔が出ていたせいで。



メガネから顔まで、オイルまみれで。


なんか、おかしくて、ふたりで笑った。





4サイクルって面倒だなぁ、と

僕は思ったりもした。





2サイクルだと、オイルって燃やしちゃうから。


変える事は無いもの。




このホーク2は、おとなしいバイクで、でも早くて

面白いバイクだった。


後々、ヨーロッパ風のホーク3、スーパーホーク3も

出たりする。


ホーク3は、ちゃんこ鍋屋さんのバイトが、ひとり乗っていた。


私立の、日大だったか東海大だったか、あのへんの付属高校の

生徒だったっけ。


結構かっこいいので、バイト先の女の子にもモテていた。








5月だったかな、遠足があって

鎌倉、だった。


電車に乗って、向こうでは自由行動。

各々、適当なグループで好きな所を回る、と言う

大人っぽいものだった。


そういう自由さも北高らしかった。




僕は、この時は別のクラスになっていた上杉くんとかと

数人で、名所は適当に回って。

ほとんど、喫茶店で寝ていたりした(笑)。



NHK-FMの掛かっている純喫茶で

江ノ電が見える、雰囲気の好い喫茶店。

上品なマダムが、にこにこと

僕らが制服で行ったのに、別の街の高校生だからか

咎めもせず。


ふつうに珈琲を淹れてくれて。


なんか、お菓子もくれたりした。



時折、江ノ電が、がたごと、がたごと。



レールを軋ませながら、走っていく。


いいなぁ、鎌倉。



後々、江ノ島・鎌倉もツーリングで来るけど。



この頃、外国TVで「白バイ野郎ジョン&パンチ」と言う番組があって

ノリちゃんは、好みなのか

よく見ていて。


ホーク2に、エンジンガードを付けて

そこに、フォグ・ドライビングランプを付けたり。


「ふたりで、白バイごっこしようよ」と。


そのうち、西湘バイパスで

ふたり並んで走ろうよ、なんて・・・・。



楽しい夢を見ていた。



「早くバイク買わなくちゃなぁ」と、思ったりしたけど


2サイクルの250だと、ちょっと白バイには見えないから

やっぱり4サイクルかなぁ、なんて思う。



ノリちゃんは「北海道ツーリングを目指そう」なんて

途方もない夢を見ていた。



これは、未だに実現していない。



4サイクルの400は、結構中古も人気があり

20万円以上はするので・・・。

それだと、もうちょっと我慢して新車、と

僕は考えた。








そうそう、4月になって

祥子ちゃんは中学に入って。

可愛らしい制服のイラストが送られてきて。なーんとなく微笑んだっけ。


冬休みにも遊びに行けなかったけど、新聞配達をしている事を知っているので

「頑張ってください、寒いのでお体にお気をつけて。」と

12歳の子にしては、とても大人びた文章を書く子だ。と思った。



「お姉さんの方がわがままみたい」なんて思ったりもするけど


それは、そういうものらしい。



お姉さん、と言う役割がない所だと、普段、お姉さんだから、と

我慢してる分の反動が来るのだろう。




ノリちゃん、ひとりっ子だから自由で。


ストレスもないみたい。






学校では、ノリちゃんがホーク2を持ってる事は伏せてある。


なぜかと言うと「乗せろ」コールが多いから。



貸して、事故起こされたら堪らない。ほんと。



「後ろに乗せろ」コールも来る。


乗せたりすると噂になって、先生にバレたら停学だし。




そんな訳で、バイクの話は専ら「架空の」と言う前提で

学校ではしていた(笑)。



なので、おおっぴらに話が出来るのは

放課後とか、休日。

僕らはバイト先が一緒だから、そこが多かった。


だいたい、5時か6時にバイトに入るんだけど


この時間は、外国のTVが面白くて

いつも6時になってた(笑)


謎の円盤UFO、原子力潜水艦シービュー号とか

ちょっと昔の外国TV。


ハワイ5-0とか。



そういうのを見てから、駆け出して行けば6時に間に合う(笑)。




ロッカーで、板前さんルックに着替える。

これが結構「気分」で、料理人になった気がした。



そこで、皿洗いから入るのだけど


機械洗いだから、エレベータで下りてきた大量の食器を

機械に掛けるだけ。


流れ作業。お湯と洗剤で30秒くらいで洗うと、もう乾いて出てくるので

それを分類して、食器棚に入れる。

和食は食器が多いので、結構、この分類が面倒だった。



そこで、ノリちゃんとたまたま同じ掛かりになると


バイクの話しになる。



「SR400がいいかと思うけど、車検がなー」と言うと


ノリちゃんは「車検は2年後だから、卒業してるよ、もう」




なるほど・・・・。


まあ、高卒で働けるかどうかも分からないが(笑)。



1978年頃は、車検の時に部品を沢山変えていたから

ブレーキ関係とか。


結構お金が掛かっていた。

ブレーキホースとかは4年、だったか。


実際はもっと持つので、結構勿体無かった。


それで、僕は後々自分で車検に持っていくようになったけど

それは、卒業の後。

まだ、ユーザー車検がない時代は結構面倒だった。



「ノリちゃんは、卒業したら働く?」




「いや、たぶん専門学校」




「じゃ、車検大変じゃん」


と、僕が言うと



「その頃は750だよ」





なーるほど。そういう考えもあるね。



高校に居る間に、750の免許を取ろう。


それは僕らの目標でもあった。


750の免許は、教習所で取れなかったから

試験場に、最低2回通う必要があった。



それに、試験が難しくて

ひとによっては、10回受けてもダメ、なんて・・。




就職してからはちょっと無理だろう、と言う



当時は、あんまり休みを取る習慣がなくて

有給、なんてあっても使わないのが普通。

そんな時代でもあったから。






僕は進学コースだったので、ノリちゃんたちと

授業はほとんど違う。

それが、ちょっと変わった感じだった。


数学はⅡA、だったかな。

ノリちゃんはBコース。英語とかもそうだったと思う。


ただ、音楽とはは同じだったので

そこは、のんびりできて良かった。


音楽の持田先生は、前述の通りDT250を持っていて

通勤にはTY50に乗ってくる、長閑なひと。


長い髪のストレートで、銀縁メガネの長身。

でも、愛想のいい笑顔で、みんなに好かれていた。


フルトヴェングラーの事を「振ると面食らう」ほど、早い、とか

面白い喩えで、和ませてくれたりした。


時々、鑑賞の授業でポピュラーを掛けたりして



「聴きたいレコード持ってきたら、掛けてあげる」と言うと


アニメソングとか、そんなのを持ってくるんだけど、男子は大抵(笑)。



僕は、ジョージ・ベンソンの「ブリージン」とか、

ラロ・シフリン「ブラック・ウィドウ」を持ってくるので


先生と、なんとなく気があった「通だねぇ。」と、言われて。


僕も、いい気持だった。





音楽室は、南校舎の4階で、見晴らしがいい。


新幹線の高架と、遠くに山が見えたりして。




時折、柔道場の二階で、柔道の先生がタバコを吸ってたりするのが見えて。


僕が「美味しそうですねー」と、大きな声で言うと、みんな笑った。


もちろん、僕はタバコは吸った事はあったけど、常用はしていなかった。

そんなに美味しいとも思わなかったし。



軽音楽部の連中は、なんかロックの難しそうなレコード、とか

そういうのを持ってきていたりしたけど



智治くんは「がきデカ」のレコードを持ってきて

笑いを取っていた。


先生も冗談で少し掛けて、笑っていた。



この智治くん、笑われるのが好きらしく


髪の毛も、なんかざんばら風のロングヘアーで


ロッド・スチュワートみたいな感じにしていて



小学生が持ってくる手提げ、黄色い、横断バッグと言うものを

持って学校に来ていた。





時折バイク通学をしているようで、青いKH250B-3が

新幹線の高架下に止まっているのを見た事があった。




その、黄色いバッグには「学童」と書いてあるのだけど


そこに僕がボールペンで 貞、と書いた。


学童 貞 (笑)


彼は童貞では無かったらしいけど(笑)


それを見て智治くん、怒った。


「誰だー、ボールペンで書きやがって」と。


・・・笑いを取るんじゃないんかいな(笑)。



KH250は、結構人気だった。


4気筒が無かったから、3気筒だったのかもしれないけど


これ、ステップが固定式だから。

あんまりバイクを寝かすと、すってんころりん、と

転んでしまう。


クランクケースが出っ張っているので、あんまり寝かせられない。





なので、よく暴走族が駅前ロータリーを

ぐるぐる回ってエンジンを吹かしたりしていたが


(駅いち、と言う隠語だった)。



そこで、調子に乗ると、すってんころりん(笑)


文字通り、笑いを取っていた。



KHライダーは多かったけど、概ね暴走族っぽいタイプだった。


あの謙二くんも、どこからか拾ってきたらしいKH250に乗っていた。


僕がメカに詳しいのを知って「KH400のシリンダーが付かないかな」と

言ってきたので、構造を見ると、全く付かないようになっているので「無理」。と

返事した、けど「フレームは一緒だから、丸ごと乗せればOK」と

返事。


すると・・・「やってよ」と言うので



ちょっとヤバイな、と僕は思って

丁重に断った。




そのエンジンをどこから持ってきたのか? (笑)。




謙二くんは、自分で乗せたのか、誰かに頼んだのか


KH250-400に乗っていたが。


ある時、ちょっとした違反(ヘルメットをかぶっていなかったとか、そんなの)

で、捕まった。




その時、偶々お巡りさんがKH400のエンジンだと気づき。


エンジンナンバーと、フレームナンバーから

何れも盗難車だと判る。



謙二くんは乗っていただけで、盗んだと言う証拠はないので

窃盗については無罪だったが・・・・。



停学。



改造を手伝った人は、警察に捕まって取調べを受けていた。


盗んだ連中の中に、北高生が居たようで



彼らも停学になったから、判った。


もし、改造を引き受けていたら、僕も犯人一味にされていたところだった。



KHは盗みやすいのか、よく、こういう事件があり



バイト先のちゃんこ鍋屋さんにも、時々そういうバイクに

乗ってくる人が居たりした。




僕やノリちゃんとは違うタイプの、ライダー、だった。









この智治くんは、案外ドジなところがあり・・・。


ある日の事。


僕が下校しようとしたら「おー、乗せてって」。

自転車の後ろに乗ってきた。


こういう事はよくある。



しばらくは車道を走っていたけれど、市立高校の前で

なぜか、僕は歩道の方へ入った。



ちょっと狭い。





僕の自転車、ブリジストン・アスモは24インチで

荷台も低い。


智治くんは結構大柄、僕と同じくらいで

膝が出っ張る。



僕が、歩道橋とガード・レールの間を通ろうとしたら・・・・


智治くんが何か叫んで。


飛び降りた。



ガードレールの裏側のボルトに、膝を引っ掛けたのだった。



あーあ。




ぶつかる前に飛び降りればいいのなぁ(笑)。



こういうドジぶりは、他にもあって

KH250のキャブレターを分解した、はいいが

前後逆さに付けて「調子悪い」と  



(エンジン回るんですね。)



そういう、のどかなところがあって

割と、僕は智治くんと仲良くしていた。



僕の持ってるジャズ・クロスオーバーのLPを

貸してあげたり。


彼のレコード借りたり。



音楽仲間、バイク仲間かな。




彼の家は元々農家なので

畑も幾つかあって。



夏になると、西瓜がなって。

時々、学校帰りに西瓜を取って


持って帰っていた。



ある時、間違えて

人の畑の西瓜を取ってしまい・・・・。


それから、畑に「西瓜どろぼうパトロール中」なんて

看板が立ったりしていた。




KHにも、少し乗せて貰った。

音が良かった。


「走るステレオ」だなぁと思った。


独特のサウンドで、楽しい。


「これは人気が出るわけだ」と思ったり。



400と同じ車体だから、ちょっと重いけど。



このKHは、シートが横開きで

トランクのようになっていた。


で・・・・。


閉じるときは鍵が要らないので。



これも、智治くんのドジで


鍵を中に置いて、シートを閉じてしまう(笑)。



仕方なく、シートのヒンジを分解して

外そうとしていたら・・・・。



お巡りさん(笑)。


「もしもし、何をしている?」



「俺のバイクだってば」と言っても

信じてもらえない(笑)


まあ、ロッド・スチュワートヘアーじゃあねぇ(笑)

田舎町だと

いかにもヘンな人。


パトカーに連れて行かれて、盗難車照会をするまで

解放されなかった、とか。


見た目って結構大事なのだ。






進学コースの学生は、知的な人が多くて

ジャズの話も結構合った。


「ジャコ・パストリアスいいよね」とか言うのは

正志くんで


ちょっと小柄で浅黒い。


吹奏楽部だった。


僕は「そうそう。バードランドのね、あのベース。

前奏の低音は、シンセでジョー・ザビヌルが弾いてて」


とか言うと


「なんで分かるの?」と言う。


「だって、音がシンセ」と言うと


「そんな事気づかなかったよー。」と、黒ブチメガネの奥で

笑う。



この頃は、よくFMで洋楽が掛かっていたので

結構、洋楽ファンの高校生は多かった。


クイーンが来日したのもこの頃で

名古屋公演を見にいった写真部の子が、なぜか

ドラムセットを裏側から、つまり、舞台側から撮った写真が

写真部に飾られていたり(どうやって撮ったんだろ?)



僕は、クイーンの「バイシクル・レース」を

歌ったりして、クラスで笑いを取っていたりした。



「I want to ride my ちゃーりんこぉー」と、フレディー・マーキュリーの

真似して歌うと、みんなで笑ってくれるんで

僕も楽しかった。



ジョージ・ベンソンのnature boyの真似をして


自然児、と歌うと


英語が進学コースのマリ子が「え、修善寺?」と聞き返したので

僕らも笑った。


マリ子は、小柄で丸顔、髪の毛まっすぐ、おかっぱ風の

可愛い子で


結構、仲良く音楽の話なんかをした。


クラスは5組だったか。




・・・こんなふうに、自然に

近くにいる人を想うようになるのかな・・・。


なんて、ちら、と思わない事もなかった。




実際、陽子さんとの手紙のやりとりは

そんなに多くなくなっていた。



祥子ちゃんは、相変わらずきちんと手紙をくれていて


「姉は、学校と仕事で忙しいようです」と。


それはよく分かる。僕がだいたいそうなのだ。





「都会が楽しくなって、過去を忘れる・・んじゃ

ホントに『木綿のハンカチーフ』だよな。はは。あ、逆か」と


僕はひとり笑い。


都会が楽しいかどうかは知らないけど(笑)


陽子さんは、なんとなく、ルックスも(かなり長身だけど)

話し方も太田裕美さん、みたいな所があったから


僕はそんな風にも思った。


でも、あんまり切ないとは思っていなかった。



そういう所が「女の子っぽい」と言われる理由なんだろな、と

ひとり合点。



いつも音楽を聴いてたから、と言うのもあって。


いい気分だから、別に

女の子が離れて行っても、いいか、みたいな

そういうところもあった。




時折、GR50にレーシングチャンバーをつけて

走ったりする事もあった。




まあ、遊びだ。



エンジンは一発、と言うか

2~3発で掛かる。


レーシングエンジンだから、そうなので

低速だと吸気が筒抜けっぽい。


なので、ガソリンを吸わせて。

プラグかぶりに気をつけて。


プラグは、#9が付いているから

低速ではかぶりやすい。


で・・・。


キック、2回、3回。


火がついたら、チョークを半分くらい引いたり、

一杯ひいたり。

これは燃え具合を見て。



ぱらん、ぱぱぱぱ・・・。と燃え始めたら

気温が低かったら、ちょこ、とチョークを引いて

かぶる前に、戻す。


ばらばら、ぱぱぱぱぱ・・・。


アクセルを呷りながら、回転を徐々に上げていけば

もう止まらない。


うぉ、ぐぉ、ばばばば・・・ヴァーン、バーン、ヴァーン。


ぱらぱらぱら。ヴァーン、ぱぱぱぱぱ。


白い排気が、歯切れ良くチャンバーから出て行く。


そうなると、エンジンが温まって。

もう、大丈夫。



なので、誰かが「乗せてくれ」と言っても

エンジンが温まった状態でないと、乗せられなかった。



エンジンを掛けられないからだ。




エンジン回転が下がったところで、クラッチを切って

すこしまって、1速に入れる。



クラッチが張り付いていると、ドグ・クラッチが壊れるから。



さあ、スタート。



ぱらぱらぱら、ぱぱぱぱーん・・・。と

低速がないので、6000rpmまではまるでゆっくり。


それでも70kgしかないバイクだから、なんとか走る。


ぐぉー、と言う吸気音が大きい。



6000rpmから、だんだん、いい音になる。




ぱーーーーん。ぱぱぱぱ。




8000rpmからは、すごいトルクで


かーん、と言う突き抜けるような音で

一気にタコメータを振り切ろうとする。


12000rpm。


あまり回すと壊れる(笑)ので

適当に止めておいて、シフトアップ。





5速だと、どこまで回るか確かめたことはないが

スピードも100のメーターを振り切り、120くらいだったし

タコも14000くらい。まだ回りそうだった。


そのまま回すとおそらく壊れる(笑)。



「あんまり高回転すぎるな」と、兄も言っていた。

それで、ストリートはノーマルマフラを改造したもので乗っていた。


それだと、普通に3000rpmくらいからトルクが出るけど

上は10000rpmくらいまで。


でも、十分だった。



これで、トンネルの中を走ると楽しかった。

いい音で。


かーーーーーん。ぱぱぱ。かーーーーーん。かーーーーーん。


快音だ。



音も、バイクには大事だなあと思う。



いつだったか、駅前をこれで走っているときに


中学の頃の音楽仲間、朋ちゃんが

クラスメートらしいボーイフレンドと歩いていて。


僕に手を振った。


僕も左手を上げながら、右にリーン。



かーーーーん。かかかか・・・。




「ああ、良かったなぁ。」


30男ではなく、お似合いの男子と付き合えて。


僕は、そういう感覚だった。



その子が幸せなら、それでよかった。



ただ、30男では・・・とは思う。







調子に乗って、母のチャピィもこの手で改造した。


元々は、マフラーがオイルで詰まり

加速が悪くなったのがキッカケで。



マフラーの裏側を高速カッターで切り、中のサイレンサを取ってしまって

太鼓状のチャンバーにした。

でも、出口が細いからそんなに派手な音はしない。

ノーマルのキャブレターだから、空気もそんなに入らない。



シリンダを外し、吸排気ポートを磨いて、少し横に広げた。

トルクを増やす為だ。


シリンダーヘッドも外し、例の手で削り、圧縮を高める。


メイン・ジェットを少し大きくした。


キャブレターのセッティング。

エアクリーナがノーマルだから、大した事ないだろうと思ったら。



音もよくなった。



ぱらん、ぱらぱらぱら、わーん、わーん。



「おお、いいぞ」と、兄と僕はにかっ、と笑う。



これ、オートマチック2段変速なので(笑)


シフトを入れ、走る。


Lレンジだと、ウィリーしそうな勢い(笑)


Dレンジ。



結構な勢いで進み、そのままスピードメータを振り切る(笑)。

(80km/hしかないが)。




ただ、放熱が間に合わずに白煙が出る。



「すごいなぁ、これ」



母も大満足で「さっぱりする。これに乗ると」と

お気に入りのスペシャルマシンになった(笑)。




そんなに音が大きくはならないから、まあ、いいかな、なんて思う。



こういうものを作ってると、いろいろ、ご近所さんとか

友達とかに「あれ作って」「直して」と

話が来るようになったり。



ちょっとした、町工場だった(笑)。




アパートの隣の隣にいた、土居さんが

看板屋さんで成功し、家を建てたので

そこが空き、入ってきた菊池さん、その旦那さんが


「バイクで通勤したいけど、なにがいいかな」と、僕に聞くので


「おとなしく走るなら、カブとか、シャリィがいいと思います」


と言うと、どこかで白いシャリィを買ってきて。



ただ、「エンジンの掛かりが悪い」と言うので

掛け方を見ていると・・・。


キックがゆっくりすぎて、火が飛ばない(笑)。



「もっと勢いよく踏まないと」と、僕が見本を見せると


「はい。豪快なんですね」と。

そのくらいおとなしい人だった。


ゆーっくり、踏んでも。


確か、フライホイールマグネット点火だったので

電気が起きないのだった(笑)。




50ccにセルモータが無かった頃だし

6vバッテリの時代のお話。










オートバイとか、音楽って

現実を忘れさせてくれるからいいのかな、なんて

思ったりもした。


僕は楽器も吹いたりするけど、吹奏楽器は特に

そういう感じがした。

他の事はなにもできない、音に集中しないと

いい音が出ない。


トランペットなんかも、唇の使い方で音が変わる。

フルートなんか、それでオクターブ上に飛んだりできるし。

サックスもそうだった。


そういうものを趣味に持ってる人は、趣味で遊んでいるぶん

年を取らないのかなぁ、なんて思うくらい

若々しい人が多かった。



この頃、田舎町にもライブ演奏が来たりして

リチャード・クレイダーマンとか、渡辺貞夫、ドン・グルーシン、ラルフ・マクドナルド。

いい演奏を目の前で見聞き出来たりして。


みんな、いい年なのに、若々しかった。



「いいなぁ、ライブって」とか、思ったり。




後々、スタジオ・ミュージシャンになる上杉くん曰く「ギターへた」の

ラリー・カールトンも僕は好きだった。



ルーム335、の入っているLPは

西武だったかな、中古レコード市で安く買ったものだったけど

よく聞いた。


夜の彷徨、と言う邦題もお洒落で良かった。


それを聴くと、SR400で夜、ひとりで走る事を空想して

楽しくなった。


いつ、乗れるのかな。SR。





そんなある日の事、SR400の試乗会があって。


兄のセリカGTvに乗って、僕は出掛けた。


この時は、ナンバーの付いていない試乗車だったので

僕が習った教習所での開催だった。


黒いSR400が、一台。

他にもGXがあったと思うけど、記憶が薄い。

それほどSRは個性的だった。


ロードスポーツにしては、背が高くて幅が狭い。

オフロードでもない。


でも、ブロックパターンのタイヤは太く、アルミリムにスポークホイール。

ガソリンタンクの塗装は、一見、ただの黒だが

そうではなく、ブラック・クリアーで

金粉のようなメタリック塗装が下地に塗られていて

光が当たると、その金色がきらきら光る、と言う凝ったものだった。


「ピアノを作ってるヤマハ、だもんなぁ」と、僕は思う。


メッキの仕上げもよく、あちこちの部品も

プレスで打ち抜きっぱなしではなく、表面処理がなされているので

上質感があって、整備しても手が切れそうな事はなかった。



これは、ヤマハの特徴だった。


50ccでもそうだったから、結構気を使っていたのだろうと思う。



元々がエンデューロのXT500だから、そうなのだけど

ステアリング・トップブリッヂが高い。そこに、低めのハンドルがついていても

座る位置がまた低いので、楽な位置にハンドルが来る。



ヘッドライトはメッキの丸で、綺麗なメッキだった。

スピード・タコメータは独立した丸いメッキのケースに入っている。

このあたりも伝統的な感じで好きだった。


流行では、一体のプラスチックのケースに収まっているものが多かったけど

それは、なんとなく安っぽく見えて、好きではなかった。



メインスタンドは軽く、降ろすとパタン、と

ばねが軽快に跳ね上がる。

サイドスタンドも、結構な角度が付いていて

強風の日でも倒れそうも無かった。




キーを捻ると、緑のニュートラルランプがメーターの中で光り。


キック・スタート。


最初は、慣れないのでメインスタンドを掛けて行ったが

慣れるとシートに座った位置で、左足を付いて行える。


シート高が結構高いのだった。初期型は特にそうで、確か815mmで

当時の750ccくらいだったけれど、幅が狭いので

両足はしっかり着地できた。



キックペダルを踏んで、圧縮上死点にピストンを持っていく。


親切に、キック・インジケータと言うものがあり

硝子の窓に、メッキの表示が現れると

その位置。

カムシャフトのところについていた。



エンジンが温まっているときは、アクセルを少し開いておくと

かかりやすいので


キャブレターのところに、押しボタンがついていて

そこを押すと、少しだけアクセルが開くような仕掛けもあった。




さて、始動。



キックをすっ、と踏むと

静かにエンジンが掛かる。


それほど「蹴飛ばす」と言う感じでもなく、掛かる。


圧縮比がそんなに高くないみたいだし、87×67.5と言う

ショートストロークのおかげで、始動は楽だった。


このあたりは500とだいぶ違って、後に乗った500は

結構、キックが重かった。


そちらは87×84だ。



エンジンは、ぽんぽんぽん、と、長閑に回っている。



綺麗に磨かれ、クリアーペイントが施されているクランクケース。

ミッションから直接出ているシフト・ペダルにも、綺麗なメッキ処理がされていて

高級感がある。



そのペダルを静かに踏むと、かちゃ、と

ギアが1速に入る。


アイドリング近くで、ぱっ、とクラッチをつなぐと、止まりそうになるけれど


止まらずにエンジンは回る。


ととととと・・・と、2000回転くらいでシフト・アップして


2速、3速、4速、5速。


1500rpmくらい。


たたたたた・・・・と、軽快にビートを刻むシングル・シリンダーは

スティーブ・ガッドのドラムのようだ、と思った。



そのあたりで走ると、40km/hくらい。


そこが、一番楽しい。





独特の、SRだけの乗り味。


他のどのバイクとも違う。




そのあたりの回転から、アクセルを大きく開こうとすると

息付きをするのは、キャブレターの流速が下がるからで


4輪でもそうだった。


キャブレター仕様のエンジンは、いきなり低回転でアクセルを全開には

出来ない。


なんて事は、当時は常識だった。



なので、エンジンの反応を見ながらアクセルを開くと

とととと、が


だだだだ、と。力強くなり


そのまま加速する。


このあたりの力強さは、4気筒以上だった。



「これは面白い」と、僕は思う。



免許がないので試乗できない兄が見ているストレートで

僕は兄に左手をあげてVサイン。


当時、流行っていて

ツーリングしながら、バイクとすれ違うと

そうする風習があった。




2周ある試乗回なので、二周めは

結構飛ばして、奥の小さなコーナーを回ると

軽快。だけれども結構バイクは起き上がりたがるタイプで

19インチの前輪らしい。(これも初期型で、後に18になったと思う)。


ただ、結構深く寝かしてもどこも接地せず

ラバー・マウントのステップは低い位置(初期型だけ)だけれども

折りたたみ式なので、別に怖い事もない。


アクセルを大きく開けると、後輪が力強く路面を蹴る。



それも、5速のままで大丈夫。


これは、面白い。



「これにしよう」と、思った。



出発点に戻って、兄が来て

「楽しそうだった。これにしろよ。ローンは俺の名前で通せばいいから。

免許取って俺も乗ろうかな」



・・・・そう言うだろうと思った(笑)。



GX400も乗ったけど、SRほどの個性は無かったけど

2気筒、180度クランクのエンジンらしいバイクだった。


それまでの四角い、RDみたいな、と言うか

レーサー風のGX400ではなく、SRや、XS750のような

涙滴のような、綺麗な形のタンク。


ただ、塗装はSRのような特殊なものではなく、普通の塗装だった。

(これは、後にXS400スペシャルとして、特殊塗装の仕様が出るが

アメリカンバイクだった)。


つまり、ロードスポーツのヨーロッパタイプで

特殊塗装仕上げはSRだけだった。


で、値段はホーク2などと同じ31万円だったから


これは、お買い得な感じがした。




「いいなぁ、SR」




・・・・と、思ったのは少数らしく(笑)


当時は人気がないバイクだった。


馬力、速度、大きい、豪華。


そういうものが人気の要因だった、らしい。



SRが人気バイクになるのは、90年頃の話で

それまではずーっと不人気車だったが


僕は却って、それも良かった。


あんまり人が乗ってないバイクだし。






さて・・・・ローンで買うのはちょっと、金利が勿体無いなと

言うのはあった。


「できれば即金で」と言うのが理想。


それだと、31万円+登録費用=38万~40万。

それだけのお金を稼ぐのは大変だ。


これは、サラリーマンでもそうだと思う。

お小遣い程度を貯めて40万円を、一年で作るのは

難しい。



「父が健康で、会社員ならなぁ」と思ったりもした。


会社員で病気になれば、保険でお金が出るし


休職、と言う事にもなったと思う。


なまじ、独立などすると怖い。

この時、僕は思った。




でもまあ、現実的に考えて・・・・。父を見捨てる訳にもいかない。

素直な病人ならまだいいが。

元々、独立を目指すくらいの人だから。結構、体の不自由が元で

困ったちゃんになっていたりする事もあった。


スポーツ万能だった人ほど、そうだろうと思う。




そんな父でも、僕がオートバイをほしがっている事は

容認していた。


それだけは救いだった。






さて、それで僕はアルバイトに精を出すことになる。


この、ちゃんこ鍋屋さんには、ひとり厄介なバイトが居て・・・。


中学の時の級友、ヤマコーだ。


ちょっと、いじけた性格で、あんまり僕は好きではなかったが

なぜか、結構趣味が合ったので

一緒に下校していたりした。


ヤマコーは、中二の時、僕に「水泳部の桂子が好き」と打ち明けた。



桂子は、お母さんタイプだが豪傑。

よく太ってて、元気。



僕は、それを別に隠すことはないと思った。「言えばいいじゃない。好きだって」



ヤマコーは言えない、と言うから


僕が代わりに桂子に「ヤマコーが好きだって」と。言ってやったら


桂子は即座に「いやだあんないじいじしたの。大嫌い」と。


桂子はそれを、他の人に喋ったので・・・・。


クラス中の笑い話になった。


別にいいじゃないかと僕は思ったけど。


他の子にすればいいじゃない。



と。


その日、ヤマコーはクラスから無断早退したので

かえって、その話が学年中、いや、学校中の噂になってしまった(笑)。


・・・それから、ヤマコーは僕を嫌っていた。





小学校の時から同じ学校の、守が

親分肌で。


このお店にバイトに来ていて。


僕とヤマコーを、バイトの始まる前に呼び出して。



「お前らが何かあったのは俺も知っている。だけど

ここは仕事場だ。昔のことは忘れろ。ヤマコーも

いつまで根に持つな。町野も謝れ。」


僕は、謝るほどのことはしていないと思ったが・・・・



「すまん。忘れてくれ。」



ヤマコーも、なんとなく。諦めたようだった。


ぎこちなくだけれども、友達のように会話が出来るようになっていって。



時々、お料理を失敗した時など「食べなよ」と、持ってきてくれたりした。




よくある。



えびの塩焼きが、頭が取れちゃった。

鳥のから揚げが、すこし焦げた。



お刺身が、ちょっと余った。オーダーミスとか。



そういう時、捨てちゃわないで食べても

まあ、この店はOKだった。





そういう形の親切を、ヤマコーは見せてくれた。



彼は彼なりの、表現だったのだろう。







面白いもので、こういういじけた(笑失礼)ヤマコーの方が


好みだ、と言う女の子がいたりするから不思議だ。





あの、謙二くん。


相思相愛の彼女が居たのだが、なぜか、別れた。

謙二くんは、けっこう酷い目にあったらしい。


この当時は、結婚しないつもりなら

女の子と付き合うな、くらいの感じだった。


だから。


松原みきの「真夜中のドア」や。

松田聖子の「青い珊瑚礁」のような

歌詞に出てくるくらいの関係になったら、結婚。

そういうコースだった。


そうでないと、恋愛は許さない。



そういう時代だった。


から。


謙二君は酷い目にあった。



けど、また、恋愛をして・・・。



それが、偶々。



バイト先(謙二君も、その頃このお店に来ていた)。の

女の子で。



ちょっと不思議ちゃんだったので

「妖怪人間ベラ」と言う仇名の。



その子に恋して、告白した。


バイトが終わった後の河原で。




謙二君は結構、いい男であるし

KH400を、なぜかまた乗っていた(笑)。



(どうも、前回の事件は、悪い先輩から買った、と言うか

押し付けられたらしかった)。



しかし。


「お友達でいましょう。」

と、そのベラちゃんは言って。


なぜか、ヤマコーと付き合ってしまうのだった。



女の子の趣味は分からん(笑)。



まあ、ヤマコーも色白だし、おとなしいから

謙二くんはちょっと、族っぽい、おしゃべり、軽い。


そういう好みもあったのかもしれない。




・・・・謙二くん、可哀相。


だと、僕は思った。




「他にいいのが一杯いるじゃん。」


とは思ったけど。








このベラちゃんは、不思議ちゃんだけど

面白い子で、僕が「スリーサイズ当てクイズ」をやっても

嫌がらずに「こんなにないよー」と、笑っているような

そういう子だった。


謙二くんは、割とテレちゃうほうで

そういう話は出来なかったりするのか・・・それとも

本気でベラちゃんが好きだったのか。


よくわからない。


ヤマコーは、上がお姉さんだから

元々、あんまり女の子に幻想をもたないタイプみたい。


こういう話も平気。



智治くんもそうで、上がお姉さん3人だった。



彼らふたりは、結構Hなことも共通していたから・・・。


「孝くんも、モテモテ高校生になるんだろな」なんて思っていた。


そういえば、そんなことも言っていたっけ。


「もうすぐ一年になるのか・・・・。」と、僕は思い出していたり。






ヤマコーは昔からHで、朋ちゃんと僕が親しくなるキッカケになったのは

ヤマコーのヘンな妄想のせいだった。



中二の夏。ヤマコーが理科の授業中に「ねえ、夏休みに女の子と

キャンプしない?」



・・・そんなの来るワケないよ。と僕は言いそうになったが

黙って聴いていると。


そこで「水泳部の桂子を誘いたい」と。


どうも、グラマーさんが好きらしい(笑)



僕は「僕だけひとりじゃねぇ。」と言うと


「あいつでどう?」と、指差したのは朋ちゃんだった。


フォーク仲間で、音楽仲間。ブラスバンドの。


それまでも、僕はブラスバンドの連中と輪になって遊んでいて


男女同数。だから、グル-プ交際みたいに見えたんだろうか。



ヤマコーも仲間になりたかったのかも。




朋ちゃんは不思議そうに、「何?何?」と、聴いてくる。


僕は「なんでもないよ。」


と言うと「おしえてよー。いやらしー。」(いやらしいのが好きらしい。笑)



と。



後で修学旅行の時に知るけど、朋ちゃんはクラスで人気No1か、2くらいだったそう。


なので、僕は結構妬まれてたみたい。





その、朋ちゃんは結構翳りのある子で。

フランス人みたいな顔立ちで、すらりと長身、色白。

でも、話すと甘ったるい、ふんわり。


そこが人気だったらしい。



結構僕らは、その音楽好きグループの中でも

フォークデュオ、だったから

すこしだけ、カップルっぽかったのかもしれない。



放課後になると、吹奏楽の練習がないとき

ギター持ってきて「教えて」と、来るのだった。


だーれもいない教室だったけど、ひょっとすると

みんな、遠慮してたのかな。



進路決定の時も「お金稼ぎたい」と言う彼女に


「ナースとかは?」と言ったのは僕だった。


で。彼女は看護科のある市立高校に行ったのだった。


秀才だったから、狙えば大学も行けそうだったのだけれども

僕と似た理由で、そういう気分ではなかったのだろう。



(他にもあったのだが、それは何れ分かる)。



野球部の男の子に片思いして、僕に打ち明けて。


僕らは、取り持ってやろうと苦心したけど、結局ダメで。



スケート実習の時、「(彼が)一緒に滑ってくれない」と、僕に泣きついてきて。


そればっかりはしょうがないよね。ホント。




そんなこともあった。



だから、そんな朋ちゃんが30男とつきあってるという話、やつれちゃった姿を見たとき

なんか、堕ちちゃったなぁ、と思ったけど。


それが高1の時で、


高2になって、お似合いのボーイフレンドと歩いているのを見かけたときは

ほんとに良かった、と思った。



僕はそういうタイプだった。






この朋ちゃんとは、高校を卒業して少し経ってから

ちょっと、ふたりだけで映画見に行ったりしたことはあったけど


既に、堕ちた天使、と言う感じだったから

その間に何かがあったのだろうとは思う。


でも、それに関わるつもりも無かった。



どの女の子も、そういう感じがして。


なんとなく「いいなぁ」と、思っている間は楽しいけど


実際にそばに行くと、なんとなく  ?  と言う感じで。



sweet-soul を聴いていた方が楽しいかも、なんて言う印象だった。





わざわざ関わる程のものでもないかな、と・・・。








6月。雨の季節だと、登校が億劫になる。

自転車通学だと、雨合羽を着て、傘さして・・・なんてのが。

一年の時は、新聞配達をしていたから、尚更、だった。


年間で25日休む、と言う記録が残ったくらい。


駅からはバスで行けたが、駅と学校と僕の家は

ちょうど、三角形の頂点ABC、と言う感じで(笑)。

駅に行くと遠回り。


その上、お金も掛かるとなると・・・。

苦学生には無理だった。



それで、体育の磯谷先生(さきの、柔道場の二階で煙草吸ってて。

「美味しそうですねー。」と言ったら、笑って煙草のケースを差し出した

と言う、ユニークな人)。


が、「あ、雨だから町野は休みだな」と言って

みんなを笑わせたりしていた。



この磯谷先生は、本当に型破りで。


パチンコ屋で生徒に会ったりすると、玉を分けてあげたり(笑)

「きょうは来ないぞ、風紀」などと、ユニークな人だった。


柔道は結構な腕前らしく、特徴のない北高の中でも

柔道とレスリングは、割と成績が良かったりした。



レスリングは、なぜか、僕の学年に得意な生徒が居たから、らしい。


普くん、と言う人で。小柄で筋肉質、敏捷だけれども

のーんびりしている、面白い人だった。


彼も、バイクには割と興味があるようで、僕の持ってくるバイク雑誌。

ヤングマシンが多かったかな。


それに乗っている写真を見て「いいねえW1って。」なんて

結構通な事を言う人だった。



当時のヤングマシンは、割とナンパな雑誌で

表紙は大体アイドルの女の子、それが良くて

兄が買っていたりした。



TY50も、小林麻美ちゃん(当時17くらいだったか)が

跨っていたので、それで兄が買った、と言う感じもあった。


内容は真面目で、1000kmテスト、と言って

試乗車を、編集部員が1000km、本当に乗って

一緒に生活する。そういうテストがあったりして

これは結構為になった。



その記事にSR400が出ていて。


あの、独特の乗り味の事が書かれていた。


「昔のビッグシングルとは違う、新時代のビッグシングル。

軽快で扱い易く、高回転もよく回る、ツーリング向けのバイク」だと

書かれていた。


まあ、そうかなー。


高回転はあんまり使う気が無かったりしたけど。





僕も18歳になったので、クルマの免許を取れる年齢だったが

そんな余裕もない。


クルマは、あんまり好きではなかった。


自分から遠いところに、4つの車輪があって

その場所を考えながら走るのが、まどろっこしかった。


後ろのタイアが、ひっかかりそうで角は怖かった。

特に左の後ろ。


バイクだと、そういう事はないから

バイクがいいなぁ、と・・・・。






学校にいると、少しは気楽になれた。


ふつうの学生気分でいられるから、と言う事もあって。



南校舎との連絡通路の二階、ちょっとした休憩所になっていて

自動販売機があったり。


そこから、中庭を眺めたりしていると


時々、誰かに会う。



ノリちゃんが「キャンプしようよ」なんて、言って来たり。



近くの沢で、キャンプできそうな場所があるから

50ccでみんなで行こう、とか。




「バイトは?」と言うと


「一日くらい休めるよ」と。


お店は、定休日が無かったけど

交替で休み。


僕らはアルバイトだし、割と自由が利いた。



「そうだね。夏休みが来れば・・・その前に期末テストがあるけど」と言うと


ノリちゃんは「タマは頭がいいからなぁ。」と言うけど


僕は「同じだよ。北高だもん」と言って笑った。



そうだな、と、ノリちゃんも笑う・・・。




実際、高校受験の時に

後で楽なように、「誰も落ちない」と言われていた

北高を選んだ。(実際は、数人落ちたらしい)。


それで、入試の時はトップ50以内だった順位が

卒業の時は、ワースト100以内だった(笑)

まあ、300人居ないので、そんなに変わらない事になるけれど。


卒業近くなると、みんな懸命に勉強するからだ。







「キャンプ、か・・・。」


それも、行った事はなかった。


誰もいない山中で泊まるのも、ちょっと怖いような気もするが・・・。


(実際、猪が出るらしい)。


まあ、なんとかなるだろう。みんな一緒なら。




この、ノリちゃんと智治くんは、なぜかあんまり相性が良くなかった。


智治くんは、ちょっとアクが強いとこがあって。

割と、虚言癖があるので、ノリちゃんの趣味ではなかったらしい。





のーんびり。が、いいらしい。

誠実なノリちゃんである。






雨のバイク乗りは、結構怖い。


GR50はノーマルタイアで、この頃は

耐久性重視のタイアばかりだったから、雨の日に

道路のペイントに乗るだけで、よく滑った。

転びはしなかったが。


今みたいな、減ってもいいようなゴムを使う考え方がなくて

硬いゴムに、模様を付けて

それで、滑り止めにしていたような。


そのうちに、ダンロップのTT100、と言う

ちょっと、ハイグリップふうのタイヤが流行って。


KHなんかによく、付けていた。



すこし、柔らかめのゴムで。

消しゴムくらいの感じだったけど

これでも、結構雨の日は滑った。



でもまあ、僕はTY50でオフロードを走っていたから

滑るのはそんなに、気にしていなかったけど。








でも。

あの、人のいいチョボちゃんは、ちょっと違っていて

女の子を、空想ではない存在として、見ていた。


だから。


やさしいチョボちゃん、ボーイフレンドにはなれるけど

第一種接近遭遇(笑)をしたがるので


そこで嫌われる(笑)


ひっぱたかれたり。「そんなことばかり考えてるんでしょう。」と言われて

噂になっちゃったり。




僕は、なーんとなく分からなかったけど


それが「女の子みたい」と言われる理由なんだろうかな、なんて

思ったりもした。



別に、生物として機能不全な訳ではなくて

それなりに動作する。


でも、それとこれは違うんじゃないかな・・・。なんて思ったのは

陽子さんと付き合ってからだった。



愛しい空想として見ていた陽子さんと親しくなれて


現実化してくると。


空想とは違う、別の陽子さんだな、と

感じるようになっていて。



それはまた、別の愛しさだった。



慈しむ愛、とでも言おうかな。



過ぎ去った想い出は、美しく

もう戻らない瞬間だけど


その時、一緒に居た人を

慈しもう。そんな感じだった。



自分で改造したオートバイを整備するような感じ、と言うと

陽子さんは怒るだろうか(笑)。



陽子さんもまた、絵、と言う

どちらかと言うと空想的な世界が好きな人だから

なんとなく分かってくれるのかな、なんて思ったりもした。






いろいろな人がいるんだなぁ、なんて思う。



それぞれに、しあわせってちがう。


そうなんだろう。




少なくとも、誰でもいいから

接近遭遇したいとは思わない(笑)。



のが僕だった。



ノリちゃんが、智治くんと

ちょっと合わないのは、その辺りもそうで


ノリちゃんは、僕に似ているタイプで

智治くんは、チョボちゃんタイプ。


そういう差もあったみたい。




でもまあ、みんな友達だ。




7月、期末テスト。


一番前の席のやつは、黒板のしたに公式を書いて

それで切り抜けようとしたら・・・・


たまたま休みの人が居て、席を変えられたり(笑)


それで、別の奴がいい点を取れたり。


後ろに偶々秀才が来ると

先生が通った瞬間に、「後方確認」(笑)して

上手くやる奴もいた。


それで、まあ、告げ口する人もいなかった。


みんな友達だもの。





僕は、普通に赤点ラインはすり抜けたが・・・。





ノリちゃんや、他数名の友達は

追試。


ああ、無情。






赤点だから、夏休み補習!なんて言う事はなく。

そこは県立高校である。ちゃんと民主的に行う。


だいたい、先生も公務員だから休まないとならない(笑)。


ノリちゃんたちは追試。

二回くらいあったらしいけど、最後は先生が

予想問題を提示して「これ、出るぞ」(笑)


先生も休みたいのである。



僕は、そのようなこともなく。


まあ、暗記問題は苦手なので

日本史にしたから、まあ、なんとかなる。

日本だけだし。



理系はまあまあ、なんとかなる。



夏、と言うと


バリー・ホワイトの「my sweet summer suites」を思い出す。


邦題は「白銀のテーマ」と言って

なぜか、スキーの新雪滑降のジャケットだったけど。


どうしてか、と言うと

小学生の頃は、夏休みになると青森に行っていたから

国鉄職員の叔父が、最初はグレーのシャツで

腕章も「steward 乗客案内」だったけど


そのうちに、真っ白なスーツを着て

「専務車掌 conductor」になって。


誇らしげな笑顔を思い出す。


元々、祖父が同じく上野ー青森の特急列車の車掌で

同じスーツを着ていたが

後継が叔父だった。


叔父には男の子がいなかったので、僕が

後継になろうと思っていた。


なによりも信頼が大切な国鉄職員である。


素性の知れている人のほうが、雇い易い。


それに、裏の事情もよく伝わる。


有給があっても、無闇に使わず

列車運行が第一、とか。


そういう裏事情である。




それに、国鉄の職員は、少年の僕を皆、温かく見守ってくれて


「国鉄に来いよ」と、口々にそういうのだった。


鉄道、と言う仕事への使命感に満ちた、いい笑顔。


特に、運転系の人はそういう感じだった。


凛々しかった。憧れた。




そんな、漠然とした理由だったりする。なりたい職業って。



でもまあ、高校生の頃は忙しすぎて

ちょっと、自棄になっていた。






音楽の話に戻ろう。



バリー・ホワイトの演奏は、ダイナミックで大好きだったが

レコードは持っていなくて、FM放送の録音、

エアチェックをして聴いていた。



中学の頃、それを沢山持っていたので

近所に住む、親友、諭によく、音楽の話で

質問を受けた。



「こんな曲しらない?」とか言うのが多くて。



カセットテープを聞かせて「あ、これこれ!」とか。


調べるのも容易ではなかった。



新聞かFM雑誌。だった。


いつ放送したか分かっていれば。


その諭が探していた曲が、バリー・ホワイトの「愛のテーマ」だった。


僕もテープは持っていなかった。


それで、たまたまNHK-FMの

リクエストアワー、と言う番組があり

それで偶然聴いた曲を、僕が途中から録音した。


諭がそれを聴き「これ!これこれ!」と。


諭は、剣道少年。

あんまり音楽に親しんでいるタイプでもないけど

でも、彼の心を打ったサウンドだった。



で、僕も

そのリクエストアワーに、はがきを書いてリクエストした。


後で考えると、レコード屋さんに行って

シングル盤を買っても良かったと思う(笑)


何度もはがきを書くならば。



まあ、そこは中学生である。




何度目かのリクエストで、「愛のテーマ」が掛かり

ドキドキして録音した。



そのテープを、諭に聞かせた。


「いい曲だー」と、ふたりでうっとりと聴いた。


僕の作った、バックロード・ホーン・スピーカーに

ラジカセをつないで。


音楽って、そんな思い出にもつながっている。



諭は、そう、丁度陽子さんの住んでいる辺りの生まれで

お父さんの転勤で、この大岡山に越してきた。


どことなく、長閑な感じは似ているかもしれない。




それが、高校に入る時に

隣町にお父さんが家を建て、越していった。




陽子さんに知り合った頃・・・。

僕はひとりが淋しくて、でも

親に詮索されたくなくて。


アルバイトが休みの日、諭の家まで

自転車で行った事があった。



隣町までは10km以上あるのだが

15歳の少年である。



元気があった。



諭は驚いたが、暖かく迎えてくれて

一緒にそうめんを食べ、音楽の話をしたり

剣道ではなく、弓道をしている話とか。


友達っていいなぁ。


そう思った瞬間だった・・・・。






僕が修理が出来る事は、学校中に広まってしまって(笑)

先生までが、ワイアレスマイクとか、プロジェクタとかが上手く扱えないと


「ああ、町野、ちょっと」と、呼ばれる(笑)。


激しい例だと、先生の乗ってくる車のアイドリングが変だ、とか言われて

「ちょっと見てくれ」(笑)。


それはスカイラインの1800Tiだったけど、単にアイドリングが低いだけだったから


調節ネジを回して、空気の量を増やしてあげた。


燃料噴射なので、スロットルの開度ではなくて

アイドリングの時に、空気通路が別にあり

そこを通る空気の量を調節している。


コンピュータも勿論、それを電磁弁で調節してはいるが

全自動ではなくて、機械ネジと併用しているあたりが面白いところ。




「できました」と言うと


その先生は、あの怖い生徒指導の小早川先生で


竹刀を持ってひっぱたく人だけど


「ありがとう」と言ってにこにこ。


笑顔も見せるんだなぁ、と僕も思った。



「町野は機械が直せるけど、バイクとか車は乗ってないよな」と


乗っているのが分かっていても小早川先生は言う(笑)。



公務員らしい裏・表の顔だ(笑)。


事故を起こしたり、違反をするなよ、と言う

メッセージなのだろう。




「先生も、人の子なんだなぁ」なんて思ったりもした。





相変わらず、ピュンピュン丸先生とは相性が悪かったが(笑)。


学級日誌、と言うものがあって

交替で一日ずつ書くのだけど、僕は

「担任が2年で変わらず、がっかり」と言う本音を書いたのだが(笑)。


別に悪意はなく、「代わり映えしない」と言う事を書いたのに

ピュンピュン丸はその返信に

「俺もだ。@お@互@い@に@我慢しよう 」と、感情的なことを書いてきた(笑)


クラス全員が見るのに(笑)。



「こういう所が、なんていうか・・・。」

手紙って、難しいなぁと思うところだったりする。



まあ、言葉でもそうだけど。



祥子ちゃんはおとなしいから、手紙で気になるような事は無かったけど


陽子さんは、あんまり手紙が来なくなって

僕もそんなに書かなくなった。


で・・・時々手紙が来ると

「祥子にはよく書くのに、私には・・・。私は、それでもいいと思います。

あなたの姉でいられるなら」なんて意味の手紙が来るから



「祥子ちゃんは筆まめだから、お返ししないといけないと思って書いてただけです。」と


返すと


「はい。わかりました。私は筆不精なのね。」と言うようなお返事(笑)



文通夫婦喧嘩みたい(笑)。



でもまあ、この「筆不精」と言う言い方がヒネて言っているのか

ホントにそう思っているのかは、わからないから


あまり気にしないほうがいいかな、とは思うけど。



でもまあ、淋しいんだろうな。それは。



携帯電話とか、メールがある現代なら

いつでもつながっている感はあるから

そんなに気にしなくていいんだけどね。


まだまだ、携帯電話って無かったようで

最初は自動車電話や、列車の無線電話だった。



新幹線とか、夜行の寝台特急、それとか

山の上にある公衆電話が無線で


最初はアナログだったから、受信機で聞けたりして(笑)


僕は、無線をしていたし、ラジオくらいは作れたから

そういう知識はあった。



コードレス電話もそうだったし、携帯電話もそうだったから

あんまり、聴かれたくない話はしたくなかったりする。






「なんで、直せるの?」とか

学校でもよく聞かれたけど。



「なんとなく・・・。」兄や父が出来るし、みんな出来るものだと思っていた。


ノリちゃんや、智治くんも出来るし。


そういうものだと思っていたけど

そうでもないらしい。




バイト先でも、時々


守くんの乗ってくるシャリィのキャブ調整とか、やってあげたりした。



店長は、自分で出来るので、そういう僕をにんまり、と

笑ってみていた。


自分で、スカイラインGT-Rの整備は、出来る人だった。

元々はガソリンスタンドボーイで、暴走族だったらしい。



そういう雰囲気があったけど、きちんと折り目正しい人で

不良、ではなくて義賊、の雰囲気がある人だった。



当時はそういう人が多かった。




その店長と、アルバイトの三太郎さんの乗るサバンナRX-7(ターボではない12A)の

ゼロヨンをちょっと見た。


まあ、ロータリーにはちょっと、加速じゃ敵わない。

それはレースでもそうだったから、そうなんだけど。



でも、GT-Rもいい勝負だったし、車の良さは速さだけじゃないと

僕は思っていた。




「ああ、早くSR買わなくちゃなぁ・・・。」


高校3年までには買いたいなぁ。

そんな風に思ったけど、家に借金もあった。


父に起因するものだった。


父が事業を起こしたが、会社を乗っ取られてしまい

特許を侵害されて。


父は無一文になって。別の事業を起こしたが

これも、経営仲間に騙された。


心痛で、病床に倒れる。


・・・まあ、悪い事もいろいろしていた訳で


(どこかに、子供がいるとか笑)。

羽振りのいい時は、会社名義でクラウンを三台も買ったり

(一台117クーペにしようと僕は思ったが、営業用だったらしい)。


一概に、同情はできないが(笑)。



・・・まあ、そんな理由で

オートバイばかりにお金を掛ける訳にも行かなかったし


陽子さんや、祥子ちゃんに会いに行きたくても

稼がなくてはならなかった。




このことは、誰にも話してはいない。







この守くんとは、小学校から一緒だったから

もう、気心は知れている。


いい奴だ。


小学校の頃はヘンな奴で、当時から女の子にはモテていて

学校でお医者さんごっこをしたりして(笑)

型破りな奴だった。


授業中に、隣の席の女の子のパンツを脱がして

そこを眺めたりとか(笑)


中学くらいからかな、しっかりした少年になって。


そういう変態っぽい(笑)事はしなくなって。


正義感を持った。



当時の少年はそうで、例えばバイク漫画を見ても

「750ライダー」の主人公は、頼まれもしないのに

ライダーに嫌がらせをする暴走族をやっつけたり

不良グループから抜けようとする女の子を助けて

ヤクザと喧嘩したり。



「マジンガーZ」の主人公は

地球を守らなくてもいいのに、その為に戦ったり。


「仮面ライダー」もそうだった。

悪の組織に居れば、自分は安泰なのに

敢えて敵対する。



正義。


それがあった時代だったからか


守くんも、きっちりした人になった。



お父さんが職人、と言うのもあったのかもしれない。



仕事をきっちりしないと、お金が貰えない。

信頼を得れば、仕事が来る。




そういう。




で・・・。高1の時、この守くんと

ちょっと言い争いになった事がある。



夏休みに、野球部の応援に

予選大会に来い、と言う事で


守くんは、なぜか僕に言ってきた。


守君と僕は、クラスが違っていたけど


廊下で偶々あって。



僕はまあ、陽子さんの事でなんか、心がふんわりしていて

そんなことはどうでもよくて(笑)


ひとりで居たかった、幻想に耽りたかった。


で「いけるかどうかわからない。アルバイトがあるし」と言うと


守君、怒る。「一日くらい休めないか」



僕はまあ、ふんわりとした気分を妨げられて

「できないよ。金が減るもの。」と。



守くんは、でも「野球部は頑張ってるんだぞ」



僕は、どうでも良くて、そんなの。


「野球部が僕のバイト料払ってくれないだろ」



守君は更に怒り「金、金って。何の為に。」



僕は「月謝だよ。それと家計。」と言うと


守君は、父が病気だと言う事を思い出したらしく



「そうか、悪かった、済まん、許してくれ。お前の事情を忘れていた。」


と、笑顔。



そういう、さっぱりとしたいい男だったから



高校に入って、すぐ、恋人が出来て

相思相愛。


アルバイトにも一緒に来ていた。



後々、結婚する事になるのだけど


そういう、いい奴だ。




時折、僕が自転車で走ってると

シャリィで走ってて、手を挙げてにっこりしたり。

後ろから走ってきて、僕のお尻を叩いていったり(笑)


KH400も持っていたが、普段はシャリィだった。










さて・・・・とりあえず、7月25日である。

夏休みに入るので。


ノリちゃんが「沢でキャンプ、しよう。」と。


24HRの、僕の席は相変わらず窓際、後ろから2番目だったけど

真後ろは、あの大親分の甥、正光くん。

仇名はグシャ。なんでグシャかと言うと

笑顔がくちゃくちゃでかわいいから、なので(笑)。


別名「ザ・ヤクザ」(と言う映画が当時あった)。


本人はヤクザではなく、番長グループでもない。

真面目なバスケ少年。


このグシャと僕は気があった。

まあ、おじさんのご近所というのもある。


グシャの親友が、僕の小学生からの友達の誠君。

小柄で色白、可愛いネコっケで

僕らはもっちゃん、と呼んでいた。


そのもっちゃんは、優しい性格でみんなに好かれていて


ノリちゃんとも仲がいい。



ノリちゃんも優しいから。


それで、キャンプの話をするとき「もっちゃんも行く?」と。ノリちゃん。


「うん、いくいく」と。


もっちゃんは、白いパッソルを持っていたけど

どうも、お母さんのらしい。


小柄だから、ちょうどいいのかな。



こういう話だといろんな奴が乗るけど


智治君、ホーク2(新型)に乗ってる塚ちゃん。

かに栗(本名不明。笑)。サルかに合戦から来た仇名らしい。


で。


ノリちゃん「テント2つないとダメだな」と言う事で

塚ちゃんが持ってくる事に。



灯油のランタン、バーナーは僕が持ってくる。

ガス・バーナーと、ランタンはノリちゃん。


テーブルは智治くん。


ボンピラフを持ってくるとか。


ボンカレーの姉妹品で、当時人気だった。

ご飯に混ぜるだけ。




その他。



「おコメは?」と聴くと


「各自持ち寄り」と、ノリちゃん。


ああ、高原教室の感じね、と

僕は納得。


中学の時、高原にある学校に泊まりに行くという企画があって。


授業なの。


その予行演習を、大岡山中学でやった事があって。


校庭に穴掘って、火を起こしたり、炊事したり。


面白い一日だった。


教室の床に寝るのは、なんか汚い感じがして嫌だったので

僕は机の上に寝たりして。





「よーし、じゃ、いつ?」と、各自スケジュール・・・。


僕とノリちゃんは、バイトの都合。

ノリちゃんは、テニス部の都合もあった。


「じゃ、すぐがいいかな。今度の金曜とか」と、ノリちゃん。


「準備間に合うかなぁ」と。僕は思うけど


まあ、なんとかなるだろう。

まだ火曜だ。





ところが・・・・。


週間天気予報を見ると、どうも怪しい。

その辺りで大雨が降る予想。




その日の夜、バイトしながらノリちゃんと「どうする?」



ノリちゃんは「まあ、雨が酷くなったら帰ればいいよ」




なるほど・・・・。




寝袋、飯盒、グランドシート。

いろいろ探して。



「あ、そうだ」

夏休みに入るけど、陽子さんはどうするのかな、と思い

手紙を出した。


家に戻ってくるのかどうか?とか。



来年は、孝くんも高校(に入ると思うが)だし。


そうなると、来年、沢口家はお母さんと祥子ちゃんふたり。


ちょっと、お母さんがいない時は、淋しいかな。なんて思う。


その一年で、おそらく陽子さんは戻ってくる筈だけど。




陽子さんの収入も減っただろうから、結構

仕送りして生活して。大変だと思う。


「あんまり、里帰りってムードじゃないかな・・・。」なんて。



そこまでして、なぜ学校に行きたいのかな?なんて

ちょっと思わないでもなかったけど


そういうのって理屈じゃないんだろう。






さて、当日。



午後2時に、ノリちゃん家集合。


もっちゃん、パッソル。

塚ちゃんホーク2、黒。

智治くん、青のKH250.

かに栗、バイアルス50。


僕はGR。後ろに寝袋とか、積んで。


「さ、行こうか」と。

近所だから気楽。


ノリちゃん先頭。

僕が、最後尾。



このパターンがいいみたい。



間は適当。


ノリちゃんは、この日はJT1だった。




沢は、山の途中まで登って

そこから下る。




途中で砂利道になり・・・結構な急坂。


もっちゃんパッソル、登るのが大変。

そのくらいの坂。



ホーク2とKHは、砂利道に難儀。


転びそうで怖い、とか。


でもまあ、塚ちゃんは180cmの体格なので

べったり足が付く。

支えながら。


砂利道をじゃりじゃり・・・・。





結構、鬱蒼とした森の中で、人の気配も何も無い。



「結構、夜は怖そうだな・・・。」と、思った。


まあ、でも友達が居れば。



なんとかなるだろうと、沢へ下っていった。









「あ」

結構な急坂だから、砂利が付かないで

地面が出ているところ。


タイヤが滑る滑る。


かに栗は、タイアを取られて転ぶ。


KHはホーク2は、重たいので

そのままずるずる滑る。


直線だからいいけど、カーブだったら

がけ下へ・・・である。



僕はGRなので、足をべたべたついて

転ばずに。


ノリちゃんも。


もっちゃんパッソル、なんとか。


「大丈夫?」と、

僕らはかに栗のバイクを起こしてあげたいけど・・・。

自分のバイクが転んでしまう。


ちょっと先の傾斜が緩いところまで、僕は降りていって。

GRは軽いから、ギアを1速に入れて止めておけば進まない。



それで、足で登る・・けど。

滑る滑る。


「これ、帰りに登れるかなぁ」と、ノリちゃんも降りてきて。


塚ちゃんは「登るぶんには大丈夫だと思うよ、転ばなければ」

と、ホーク2に跨ったまま。


・・・なるほど。



トライアルでもそうだもんね。




重いから、危ないので

下まで降りてもらうことにした。


智治くんは、モトクロスをやっていたので

大丈夫。









かに栗に怪我はなく、バイクも無傷だった。

下が土なので。


「うまい転び方だなぁ」と、僕らは笑顔。


かに栗も「えへへ」。





下、沢のあたりは

すこし広い。


駐車場っぽい・・・けど。



よく見ると、裏から登ってこれる道がある(笑)



林道ではあるけど。


「なーんだ。こっちから来れば良かった」と。


一同、笑う。




沢の音だけが響く。



沢の向こうとこっちに、分けてテントを張って


ご飯はこっちで食べようか、と。


みんなで考える。



「よし、水は?」


と、塚ちゃん。


「そこにあるじゃん」と、智治くん。




「大丈夫かなぁ、上流で誰か、おしっことかしてたら・・。」と

かに栗。



「誰もいないって。いてもイノシシくらい」と、ノリちゃん。



「イノシシ出るの?」と、僕が聞くと



時々、出るらしい。


この山は、ずーっと山岳につながっているから


熊も、ひょっとしたらいるかもしれない、との事で(笑)。




ちょっと、怖い(笑)。




沢の水は冷たくて、よく見ると

水源、泉がすぐそばだった。


斜面から湧いている。



「きれいな水だ」と、ノリちゃん。




「さ、日が暮れないうちに」と、僕らはご飯を炊く。



焚き火でなく、バーナーだと楽だ。


僕のは灯油だけど、ノリちゃんのはガス。

ボンベをさして、直ぐ炊ける。


僕のは、灯油を入れて、少し受け皿に垂らして

それから、ポンプを押して加圧する。


灯油が、噴射される前に

受け皿の灯油に火を付けて。


気化器を暖める。


あったまった頃、バルブを開くと・・・。


灯油が気化して、青い炎になる。



ガス化ファンヒータと同じだ。


だけれども、温まらないうちに点火すると


火炎放射器になってしまうので、屋内では使えない。



この日も一回失敗して、バルブを閉じた(笑)。




ご飯が炊ける間に、お湯を沸かして。



ボンピラフを温めて。


ボンカレーもある。


カップ焼きそばも持ってきて。

ラーメン。



「お湯があると便利だね。」



割と、簡単にご飯は終わり。





夕方になり、辺りが薄暗くなると


ちょっと不気味。


先に、テントを張っておいたので


ランタンを点けた。



智治くんがもってきたラジオ、スカイセンサー5800で

FMを聴いた。


ちょうど「軽音楽をあなたに」の頃だから

まだ6時前らしい。


その割に暗いなぁ・・・。




「ちょっと不気味だね」と、ノリちゃん。



「俺もそう思ってた」と、塚ちゃん。



「でかい塚ちゃんがそう思う?」と、かに栗。




辺りに、人の気配もない。

灯りもない。



確かに・・・・。


こういう経験は、ない。





珈琲を飲んだり。


ちょっと、ブランデーを垂らしたり(笑)。



愛煙家の智治くんは、ちょっとふかしたり。


よくない事もした。



8時くらいに、「じゃ、寝ちゃおうか」と、

僕らは二手に分かれて寝た。


ノリちゃん、僕、もっちゃん。


かに栗、塚ちゃん、智治くん。



なんとなくそうなった。



沢の向こうへは、石づたいに行ける。


大きな石の間を、水が流れているからだった。



「じゃ、おやすみー。」と、僕らは。

なんとなく寝た。




でも・・・・。




暗くなると怖いので(笑)

ランタンを付けていた。


ちょっと明るいと、なんとなく寝にくい。



それで、話をしたりする。




「北海道行きたいな」と、ノリちゃん。



もっちゃんは「バイクで?」と、ちょっと驚く。



僕は「夢だけどね。北海道まではフェリーで行けちゃうから。

苫小牧だったか」と。

時刻表で調べると、そうなっている。



「東京から出てるから、北海道だけ走る・・にしても

2000kmくらいあるんじゃない?」と、僕。



「全部回るならね」と、ノリちゃん。


「一ヶ月で回れるかな」と、もっちゃん。



話しをしていると・・・。



ぽつ、ぽつ。



「雨か」と、ノリちゃん。



さー、さー。




「降って来たねえ」と、もっちゃん。



ざーーーーー。




「かなり来たな」と、ノリちゃんが言うと


向こうのテントから「雨入ってきた。寝られないよこれ」と、智治くん。


ラジオでは、大雨と。



よく見えないけど、沢の水も増えてるみたい。



「そっちでテント畳める?」と、ノリちゃん。


「どうするの?」と、塚ちゃん。



「帰ったほうがいい」と、ノリちゃん。



わかった、と、塚ちゃんと、智治くんはテントの中の荷物をかたづけて


かに栗は荷物を運ぼうとする。


でも。


「沢が増水してて」と、かに栗。



飛び石が水に隠れていた。




「どうする?」と、塚ちゃん。


「水源まで回れば」と、ノリちゃん。



・・・なるほど。



水源なら、狭いから

渡れるだろう。



ランタンを持ったまま、テントとか、グランドシートを抱え。


合羽を着て。



「持ってきて良かった」と」かに栗。


それでも結構濡れる。

頭はヘルメット。




僕らもテントを片付けて。


「忘れ物するなよ」と、ノリちゃん。



ランタンで、くまなく探して。


それから、滑りながらバイクのところへ。



「いや、参った参った」




増水した沢は、もうちょっとで

テントの辺りまで来るところ。



「この、バイクのところにテント張ればよかったな」と、ノリちゃん。



そだね。と、みんなで笑ったけど。





「これから張る?」と、僕が言ったけど



みんな、手を振った(笑)



帰りは、楽な林道で。

それでも滑りながら走って。


ノリちゃん家に着いて。


お母さんが、甘酒を出してくれた。


「酒って大丈夫かな」と、思ったけど(笑)


大丈夫だったみたい。




よる10時。



ひどいキャンプだった(笑)。





でもまあ、忘れられるならそれもいいかな、と

思ったりもした。


重荷になるより。







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