203 おまじない
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『ライオンさん、いたそうね』
人の感情を色に喩えるなら、その少女の瞳は慈愛とぬくもりの色をしていた。
ありえないことだった。
たった独りで千年あまり、結界に固く閉ざされた神殿に監禁されていたというのに、彼女の心の紋章はまともな形を保っていたのだ。
他の生贄たちは無残に崩れ果てて紋のひとつも留めていなかったというのに。
何が彼女を助けていたのかはわからない。
その胎内に隠した神の力か、あるいは彼女自身が生まれ持った何らかの特別な才能だったのか、それは神の知恵を以てしても判ずることは不可能だ。
ただ、言えるのは、彼女の言葉はヌダ・アフラムシカの心を深く抉った。
小さな指が皮膚の裂けたところをなぞる。
歌うような口ぶりで気休めのまじないを唱えながら、少女は心から眼前の神を慈しんだ。
彼こそが彼女をこのような身の上においやった元凶だとも知らず、それどころか救いを得たような安堵の表情さえ浮かべて。
『いたいの、いたいの、とーんでけ……』
ああ、この娘は自分がしたことを知ったら何と言うのだろう。
この美しい瞳を何色に変えてしまうのだろう。
アフラムシカはどんな罵倒も拒絶も受け入れる覚悟で少女を抱え上げ、そして予め考えていたとおりに己の加護を彼女に差し出した。
タヌマン・クリャの保全のためにもこの娘を生かさなければならない。
死んでしまってもすぐに彼が滅ぶことにはならないだろうが、支えを失った神には必ず終わりが迫ってくる。
問題は彼女を養う人間がいないことだ。
チロタの大地は想像以上の激しさで蹂躙され、そこに暮らす人も獣もすでに失われて久しかった。
したがって己の領域に連れて行くしかないと考えたアフラムシカは、紋章と紋唱術の研究をしている学者の元を訪れた。
当時はまだ狭い範囲にしか名が知られていなかったジャルーサ・ライレマ。
彼ならアフラムシカ自身に何か問題が起こったとしても、この少女を守り助けてくれるだろうと考えた。
そしてそれは正解だった。
ララキと名づけられた少女の養父は、同時に彼女の師にもなった。
アフラムシカも傍で彼女を見守ることにした。
いつかは真実を伝えなければならないが、あまり幼いうちに話しても意味がわからないだろうと思い、じっと時期を待った。
人間はあっという間に成長する。
アフラムシカの
背が伸び、身体の線は丸みを帯びて、見た目だけはすっかり大人になろうとしている。
ララキはきれいになった。
それを眺めるのは幸せで、どこか悲しい。
無垢な瞳でアフラムシカを見つめながら、彼女は囁く。
──あたし、シッカのことが好き。
家族として、魂の恩人として……あと、もうちょっと違う意味でも。
『違う意味というのは?』
『……もー、言わなくてもわかるんでしょ、神さまなんだから』
『あまり買いかぶるな。それほど万能でもない』
アフラムシカがそう言うと、ララキは獣の頬に優しくくちづけた。
そしてそれだけで顔を真っ赤にしてしまう、うぶなところがかわいらしくて、アフラムシカは思わず笑う。
そして怒られる。
ララキはアフラムシカをぽかぽかと叩いて喚いた。
この娘はいつまでも子どもなのだ。
それが憐れで愛おしい。
『笑っちゃいやー!』
『ふふ、すまない。……俺もおまえを愛しているよ』
『……ほんと?』
『クシエリスルの神は嘘をつかない。いつも言っているだろう』
そう言って宥めながら、心の内ではよくもそんなことが言えたものだと自嘲した。
──俺は鬼だ。悪魔と言ってもいい。
嘘ばかりを吹き込んで憐れな娘を騙し利用している、このような邪悪な己には、もはや神を名乗る資格などありはしないだろう。
けれども内心では自分を激しく叱責しながら、いつまでもララキには真実を伝えられなかった。
そしてクシエリスルからの呼び出しにも応じなかった。
誰も彼もを騙してほんとうのことを言わないまま、大嘘つきのアフラムシカは、のらりくらりとララキの隣にい続けた。
我ながら無様で愚かなことに、そこがいちばん居心地がよかった。
言うなればララキはアフラムシカの罪の象徴だ。
自身の失態と無力さの極地が具現化されたような存在なのだ。
彼女を見つめていると、それだけで何かの罰を受けているような気になって、それでいくらか救われる心地がしてしまう。
これが甘えでなくてなんだというのか、アフラムシカの自問自答は続いた。
そして同時に、ララキとの幸せな暮らしはすぐに終わった。
クシエリスルからの罰が下ったからだ。
当然の報いだった。
そうなるだろうということはわかっていたし、枷を受けることにも抵抗はしなかった。
しかしアフラムシカの力はその時点でおおよそ総てがララキの胎内に移されていた。
クリャからそうしたほうがいいと提案されていたからだ。
想定どおり裏切り者が出たとしたら、クシエリスルの内ではまともに対処ができない。
アフラムシカ自身を予め分割して外部に保管しておくべきだ──傀儡を用い、アフラムシカ自身もクシエリスルから任意に抜け出られるように工夫はしたが、それでも充分ではない。
万全の体制を整えておくべきだ。
クリャの言うことは尤もだったので、彼に任せることにした。
今にして思えば、そうすることでクリャがいつでもアフラムシカの力を横領できるようにしたに違いないが、それに文句を言える立場にはない。
そもそも彼を合意から爪弾きにして窮地に立たせたのは自分なのだ。
それくらいの支援はして然るべきだろう。
だから問題はただひとつ、枷を受けてからアフラムシカが急速に衰弱していったことだった。
ほとんどをララキに預けて手元にわずかになった力でかろうじて生き延びていたが、ララキに何かあればそれを振り絞って彼女を助けるので、残量はみるみるうちに減っていく。
枷のために補給ができず、底を尽きるのも時間の問題だ。
顕現することもままならないのでは、いつかララキの危機にも手出しができなくなってしまう。
それどころか力を完全に失えば紋章の消失も起こりかねない。
有史以来、そんな無様な消えかたをした神はさすがに大陸じゅう探してもいなかったが、アフラムシカが初めての例となってしまう。
こうなったらアンハナケウに出向いて、真実を皆に伝えるべきか。
だが、この際己がどうなったとしても諦めはつくが、ララキやクリャの身に何かあっては困る。
クリャが離脱した真相を知った神々がどのように感じ、如何なる行動に出るかと思うと恐ろしかった。
たった数百年でチロタを滅した彼らの絶望や怒りが、アフラムシカだけでなく彼らに向けられることになりでもしたら。
それだけはなんとしても避けなければ。
謗りを受けるのは自分だけでいい。
『しかしまァ、単なる人間の娘によくもそれほど執心できたものですな』
できるだけ多くのものを守ろうとしてきた。
この大陸に神として生を受けた日から、それが己の務めだと思っていた。
無用な争いは避けた。
力で捻じ伏せても誰かの不満が募るだけ、できるだけ相手の話に耳を傾ける。
誰かが損をする構造なら長続きするはずもない、だから功利は公平になるように、どうしても平等にならなければ足りない部分は己が補えばいい。
数少ない先達であるペル・ヴィーラからは、よく、からかうようにこう言われた。
炎の神の末裔にしては大人しすぎる、と。
かつて大陸を焼き焦がしオヤシシコロカムラギと争ったという炎の神は、今は幾つもの神に分裂してその名残を失っている。
だがそれでいいと思う。武力に頼る蛮勇の時代はもう終わったのだ。
必要なのは限りなく永い安寧と秩序。
そのための機構としてクシエリスルを創り上げた。
それを守り保つことがアフラムシカの使命だ。
間違ってはいない。
ただ、何もかもが想定を上回ってしまった。
完全無欠などと揶揄されるアフラムシカでも失敗することはある、そして稀なその失態は、あまりにも多くの被害と犠牲を生んだ。
神だとて思いどおりにいかないことは多い。
なんなら己の心ですら、意のままにはならないのだ。
「……言いたいことは、それですべてか?」
アフラムシカはそれだけ言ってドドを見上げる。
ヒヒの神はありったけの呪詛と怨嗟を込めてアフラムシカを睨んでいるが、その眼が同時に今にも泣きだしそうに見えるのは、気のせいではあるまい。
辛かったろう。苦しかったろう。
彼の言いたいことはよくわかるし、その心境を思うとアフラムシカの胸も痛む。
神の世においては乱暴者で女好き、腕っ節が強いばかりの問題児として知られるドドだったが、彼は人間を大切にしていた。
アフラムシカは同じ南部の神として、それを身近に見てきたのでよく知っている。
信徒をよく想い、彼らに応えるためにと努力を重ねて、盟主を任せられるだけの力量を手にしたのだ。
ヴニェクに懐いていたのも知っている。
彼女からよく、あれはとにかく手のかかる神だという愚痴を聞かされていたから──さほど面倒見のいい性格ではないヴニェクからそんな言葉が出るのだから、よほどしょっちゅう関わっているのだろう。
知っていた。そのヴニェクが時折、求めるような視線を己に向けていることも。
そういう女神は彼女のほかにもいた。
わかってはいたが、その誰にも応えることはなかった。
アフラムシカは己の使命を果たすのに必死で、あるいは古い……あまりにも旧い想い出がまだ身の内に残っていて、それに縛られたままだったからかもしれない。
もう、名前すらも思い出せない、とうの昔に滅びた女神のことだ。
若き日のアフラムシカが持てる愛のすべてを捧げ、そして歴史の波間に呑まれて消えていった
思えば初めは彼女のために、この世に平穏を創り上げようともがいていたに違いない。
そして、だから。
――いたいの、いたいの、とーんでけ……。
ヒヒの手が震えている。
アフラムシカの胸倉を掴んでいるそれが、骨と筋肉を軋ませながら次第に力が抜けていくのを感じながら、アフラムシカはじっとドドの顔を見つめ続けた。
引鉄を用意したのはおまえだ、とドドは言ったが、それを引くことを決めたのはドドだ。
アフラムシカが決めさせたのかもしれないが、結果と、事実と、因果とは、一列に並べて議論するべきではない。
ドドに道を誤らせたのはアフラムシカだが、それでドドの罪が消えることはない。
だが、同時にその原因を生んだアフラムシカには、彼を裁く権限も罰する権利も与えられるべきではないだろう。
ここにいるのは、だから、どちらも罪人でしかない。
ついにドドがアフラムシカを離す。
腹に抱えていた憤怒をすべて吐き出して、もうその手には気力が残っていない。
「おまえは優しい男だな、ドド。……それで誰も殺さなかったのか」
ドドは答えない。
「これでわかった。私は、おまえを罰するべきではない。それは他の者に委ねよう。
そして同時に私も裁きを受ける……おまえを凶行に走らせた罪も含め、クリャや彼の民に苦難を強いたことも、巻き込まれたクシエリスルの者たちの怒りも、甘んじて受けよう。
だからドド……頼む、大紋章の改訂に協力してくれ」
ドドは、答えない。
無言でアフラムシカを見下ろしている。
瞳からはぎらついた激憤の色が失せ、奥底の淀みには何の光も灯らずに、ただじっとアフラムシカを眺めている。
それが不意に閉じた。
そして、再び見開かれたとき、そこには
「知ったような口を……聞いてんじゃねぇ……」
風を切る鋭い音とともに、凄まじいしなりをつけた拳がアフラムシカを殴打した。
防御することもなくまともにそれを受けてアフラムシカは後方に吹き飛ぶ。
ドドはすぐに追ってきて、もう一度アフラムシカを打った。
ドドの拳からは雷光が噴き出し、触れるたび、アフラムシカの皮膚を殴打とは別に鋭い痛みが貫いた。
馬乗りになって幾度かアフラムシカの顔や肩、胸を力の限り殴打し続けたドドは、最後に咆哮とともに自分ごとアフラムシカを雷鳴で焼いた。
咆声はアンハナケウじゅうに響き渡り、落ちてきた雷は辺り一帯すべてを巻き込むほどに強力なものだった。
クシエリスルに属する総ての力を掌握した神が、最後にほんとうに全力を出した瞬間だったのかもしれない。
髪飾りがあってよかった、と朦朧とする意識の中でアフラムシカは思った。
ララキだけは巻き込まれずに済んだだろう。
他の神々も、ペル・ヴィーラやルーディーンがいればなんとか死にはしなかったはずだ。
「……まだ死ぬなよ、アフラムシカ。己はまだてめぇを殺し足りねェんだよ……。
裁きだの罰だの、そんなモン待ってられっか。今のクシエリスルは甘ちゃんだらけだ、どうせ大した罰は下んねェだろう……。
てめぇは己が裁いて罰して殺す。償いついでに一緒に己も死んでやらァ」
焼けて煤と炭に塗れた指が、アフラムシカの喉を締め上げる。
すでにドドの身体は朱白の面影を失い、黒ずんで無残なものになっていた。
アフラムシカも、身体が動かず見られないのでわからないが、同じように身体の大半が炭と化してしまったことだろう。
それでも神は死にはしない。
簡単に死ねない身だからこそ、その死には壮絶な苦痛と悲嘆が伴う。
……この場合、それでいい気がする。
それだけの罪を犯した。
せめてアフラムシカだけは、誰より苦しんで死ぬべきだろう。
ひと柱の神としてそう思い、アフラムシカは瞑目した。
その瞼の裏に、ひとりの少女の顔が浮かぶ。
笑顔。
そして、泣き顔。
ごめんね、と幻想の中で彼女は言う。
──ごめんね、あたしが弱いから──……かつて実際に聞いた言葉を思い出し、それは違う、と内心で呟く。
おまえは何も悪くない。
すべてはこのアフラムシカの招いたことで、その犠牲者こそがおまえなのだ。
けれど。
「シッカ!」
一筋の光が、アフラムシカとドドの間に滑り込む。
光は同時に、深く冷たい闇を生み出す。
再び眼を開いたはずなのに、アフラムシカには何も見えなかった。
アフラムシカとドドを夜の静謐が包み込み、その中心には青紫色にぬめる紋章がある。
人間の用いる紋唱術か、とアフラムシカが理解したと同時に、何らかの力で覆い被さっていたドドが離れた。
直後、ドドの呻き声と何かが地面を転がる音が響く。
誰かが乱入してきたのだろうか。
眼は見えないが、匂いで判断するならこれは、──カーシャ・カーイ。
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