199 遠雷は雨を率いたり①
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その感情は、憧れであり、嫉妬であり、尊敬であり、諦めだった。
今も根本は変わらない。
それだからこそ抑えようのない憤りがドドの芯を焦がしている。
精霊として自我を得たころ、すでに周囲には似たような有象無象が群れていた。
半端な神格を引っさげた三流もいたし、それらよりは多少ましなヤッティゴなどがいた。
あるいは、全体的な評価としては二流ながらも一点において一流の神々に匹敵する美点を持つ、ヴニェク・スーのような神もいた。
そんな南部の頂点がヌダ・アフラムシカで、彼は明らかに特別な存在だった。
その理由は今さら説明するべくもない。
ドドは精霊の生まれだったから、そこからこつこつと己を育てて今の地位まで昇りつめた。
それに関しては少し急いだ。
というのもドドが内心に掲げた最初の目標は、当時ドドを弟分と見なしていたヴニェクに並び、彼女に対等な存在として認められることだった。
地理的な都合で、ヴニェクはドドにとっていちばん近くにいる女神だった。
同時にこれほど遠い女は他にいなかった。
彼女の心は初めから決まった相手に捧げられていたからだ。
アフラムシカのことだけは、普段は誰に対しても手厳しいヴニェクが素直に誉める。
彼と話しているときは仏頂面を崩し、ときに微笑みさえ浮かべるし、楽しそうですらある。
彼女がアフラムシカを愛しているのは一目瞭然で、少なくとも南部においては知らぬ者はいないだろう。
ドドはそれを隣で見守ってきた。
アフラムシカに応える気がないことは早々に気がついたが、かといって彼の傍に他の女神が侍ることもなかったためか、ヴニェク自身が納得しているようだったので、ドドも口を挟んだりはしなかった。
とはいえ、つねに心穏やかにいられたわけではない。
嫉妬はあった。
ただ、それ以上に強い憧憬に抑えられていた。
努力でヴニェクには並べても、アフラムシカの隣には行けないことを、ドドは早くから悟っていた。
『それにしてもドド、でかくなったよな。最近じゃアフラムシカの好敵手とまで呼ばれてるんだろ?』
『誰がそんなことを言ってる? あいつはまだまだ考えなしの阿呆だぞ』
『いや単純に力比べの話だよ。さすがに向かい合ったらそりゃあ、アフラムシカが勝つだろうけど、今のドドならそこそこ喰らいつけんじゃないかって』
『どうだかな。……ところでヤッティゴ、おまえ案外ドドに好意的なんだな』
『おいら、ヴニェクと違って誰にも敵愾心は持ってないから』
彼はあまりにもできすぎている。
誰よりも強く、賢く、そしていつだって正しい。
完璧すぎて不自然にすら思えたので、何か裏があるのではないかと思って探ってみたりもしたが、無駄なことだった。
裏も表もありはしない、アフラムシカはあるがままに誠実で頑強なのだ。
それを理解したころからドドは彼に憧れていた。
ほんとうに心から尊敬していたのだ。
彼のようになりたかった。
──彼のような神にならなければ、本当の意味でヴニェクに認められることなどないのだから。
ドドの視線の先にはいつも彼女がいた。
愛していると言ってもいいが、それはほかの女神に向けるものとは少し違う。
腕に抱く女なら柔らかくて可愛げがあるものが好ましいが、ヴニェクにそういう態度を求める気はさらさらないのだから。
たぶんヴニェクがドドを弟分と見なしたように、ドドにとっても彼女は姉のような存在だった。
『ドド、おまえが南東の盟主だ。しっかり務めろよ。もし働きが不十分なら問答無用でその立場を奪うからな』
『……いや、つぅか初めからおめぇで良くないか? 己ァそういうの興味ねぇし向いてな……』
『つべこべ言うな、これはアフラムシカの指名なんだぞ! それとも不服か?』
『いやァ……んー、まァ、悪かぁない、けど』
彼女への好意を自覚すればするほど、アフラムシカの存在がドドの前に巨山の如くそびえ立つ。
たぶんヴニェク自身はあまり意識していないのだが、彼女はいつでも、目の前の誰かとアフラムシカとを比べているのだ。
よりによって比較対象があのアフラムシカでは、他者に対する判定が平均して厳しいのも当然だった。
直接それを言葉に出されなくとも肌に感じる。
ヴニェクと対峙するたび、おまえは彼より劣っていると言われているように思えてならないし、実際彼女はそう考えているに違いない。
嫉妬は、確かにあった。
だが相手が悪すぎる。
どんなに努めてもドドはアフラムシカのようにはなれないのだ、心底に溜まった嫉みはすぐに乾いてがさついた諦念に変わっていった。
そのかさぶたを、ときどき剥がして捨てる痛みを誤魔化すために、適当な女神を抱いた。
もともと女は好きなほうだったし、営みの快楽を愛してもいる。
人や獣にとっては繁栄のために必要な行為であり、また人においては文化の一大要素とも言えるようになったのは、そもそも世でいちばん性を謳歌しているのは彼らの上にいる神々だからだろう。
誰かを抱けば心が癒える。
単に心地いいからだけでなく、少なくとも行為の間は、その女は己のことを見ているからだ。
ドドは彼女を支配し、相手もそれを受け入れる──そして何より、アフラムシカと比べられることが絶対にない。
アフラムシカは誰のことをも愛さないし、弄ぶようなことも決してしない。
少なくともドドが自我を得てからそういう話は聞かなかった。
アフラムシカに抱かれたことのある女にはついぞ出逢ったことがない。
抱かれたがっている女ならば山ほどいるが、彼はその誰のことも相手にしていない。
彼女らはひそひそと話す。
──アフラムシカには、それこそルーディーンくらいでなければ釣り合いがとれないということなんでしょうよ。
中央の女神ルーディーンは高嶺の花だ。
女神の中でもっとも気高く可憐で美しい、すべての神を憩わせる慈愛の化身。
アフラムシカが彼女を想い、それで義理堅く他の女神からの誘いを断わっているというのなら納得がいく、という言だった。
そして同時に不可触の女神とまで呼ばれたルーディーンであれば、たとえアフラムシカ相手であってもそう易々と身を許しはしないのだろう。
そう思えば腑に落ちないことはない……。
希望と推測に基づくその均衡は、欺瞞にほど近く、危ういものだった。
それでもなんとかやってこれた。
あることを知るまでは、ドドもこれほど腹を立てる必要もなかったのだ。
『アフラムシカ自ら最後の神殿を破壊されるそうだ』
『ああ、これであの忌々しいタヌマン・クリャも終わるだろうよ。しぶといやつだった』
『……生贄は、やっぱり殺しちゃうのかな』
『当たり前だろ。仕方がないことだよ』
『それに今まで全員殺してるのに、ひとりだけ特別扱いというわけにもいかないしな』
『せめて安らかに
『忌神の連中が順番に受け持ちだ。こちらは口出しする必要はない、彼らがよしなに取り計らうだろう』
ある日の神々の集会で、ふとドドは独り言を零した。
『そういやァ……クリャのやつ、なんで裏切ったんだろな』
誰に向けたわけでもないそれを、耳ざとい誰かが拾って答えた。
──群れるのが嫌いなんだろ。
そのときは、それだけか、と思っただけだった。
独りの気楽さを好み、それで民の大半を失うことを予想できずに軽い気持ちでクシエリスルに反したのか、と。
それならクリャの自業自得、彼を信じた民がただ憐れなだけだ。
自分ならそんなことは絶対にしない。
民なくして神はない。彼らの祈りがあってこそ、神にも存在意義がある。
ドド自身はなかなか不真面目というか不道徳な神で知られてはいたけれど、その民は敬虔さと厳格さで名高い。
教義が厳しく入門者は細かい階級に分かれ、上位の修道者ほど長く鍛錬と修行を積むし、宗教者は一般の民から崇敬されている。
ドド信仰は歴史が浅いが、短期間で南部に一勢力を築いた力は伊達ではないのだ。
彼らの祈りはいつでもドドの耳に届いている。
その声に恥じぬ神でなければならないし、彼らが平和と安寧を享受できるよう力を尽くそうとしてきた。
なぜならドドは、女が好きだ。
楽しいこと、美味いものも好きだ。
それらを嗜むには世界が鎮まっていなければならない。
周りが荒れていては落ち着いて甘受できない。
この腕に抱いた女が、その頭の片隅で余計なことを考えていては面白くないのだ。
そして悪いことに、ドドはいささか勉強熱心だった。
クリャの最期とやらがどうも気になって、アフラムシカの仕事ぶりも見学したいついでに、こっそり神殿破壊の模様を覗き見ることにしたのだ。
通常すべきでない行為だ。
神が滅びるところなど、まともな神経の神なら見たいとも思わない。
ましてや誰かの信徒を手にかける姿など、しかもそれを実行するのがアフラムシカだというのも──ふつうの神なら想像するのすら厭うところを、ドドは今後のためにと思い、やや吐き気を堪えて見に行った。
そして、そこで目の当たりにしてしまったのだ。
アフラムシカとクリャの会話を。
『すまない、クリャ。私の見通しが甘すぎた……ほんとうに、申し訳ないことをした……』
『ふふふ……過ぎたことを今さら謝罪されますか。逆に気分が良いですよ、あなたほどの神に頭を下げられる経験というのも稀だ』
『……詫びは尽きないが話を進めよう。
クリャ、私を痛めつけろ。さも激しく争ったかのように。それから、この岩屋を破壊したあとのことは前に打ち合わせたとおりだ。すまないが、頼む』
『ええ、……承知致しました』
クリャは恭しく一礼してから、前後の脚にある鉤爪で、アフラムシカを強かに打ちすえた。
罪人のような姿でそれをひとしきり身に受ける間、アフラムシカは一言も声を上げることなく耐えていた。
赤銅色の皮膚が裂けて血が滴っては呪われた大地を潤していく。
血溜まりから弱弱しく芽が出るが、すぐに穢れた大気に触れてぐちゃりと萎れた。
その一部始終をドドはずっと物陰から見ていた。
やがてクリャの手が止まり、アフラムシカは頷く。
クリャの姿はその場に融けるようにして消え失せ、残ったアフラムシカが岩積みの神殿に向けて高らかに咆哮すると、生贄を囲っていた箱庭が音を立てて崩れていく──……。
一緒にドドの中で、何かが壊れる音がした。
アフラムシカは神殿の中へ入ってゆき、しばらくして人間をひとり抱えて飛び出した。
それは年端もゆかない少女だ。
生贄はすべて幼い女の子どもだということは、以前に別の神殿破壊を請け負ったことのあるドドも知っている。
気絶した少女をアフラムシカは持ち上げる。
その喉笛を噛み切るはずだった強靭な顎はしかし、少女の額に優しく触れただけだった。
アフラムシカの加護が温かな光となって少女を包み、彼女を背負ってアフラムシカはいずこへかと去っていく。
ドドは、それを呆然として見送った。
何だ?
どういうことだ?
なぜアフラムシカはクリャとあのように親しげに話し、身体を打たれ、生贄を連れていったのだ?
その場で飛び出して問い詰めればよかったかもしれないが、衝撃が大きすぎてそのときのドドは立ち尽くしているしかできなかった。
それからアフラムシカはアンハナケウへの
事情がわからない神の議会は紛糾した。
そして結論はいつも同じ、「釈明はアンハナケウで聞く」。
誰も彼もが愚かだった。
直接イキエスに、バリマール地方のヤラムという田舎町に行って、そこから頑として動かないアフラムシカを問い質せばよかったのに、そうしなかった。
そのころの神の界隈には、アンハナケウの外での神の言葉には信が置けないという空気が流れていたからだ。
アンハナケウにこだわる神々と、沈黙し一点から離れないアフラムシカ。
両者の膠着は数年続き、ついにしびれを切らしたドドは議会を説き伏せて、単身アフラムシカの元へ向かった。
そこで再び生贄の少女の姿を見て愕然とした。
アフラムシカが彼女を護っているのは一目瞭然、しかも彼女はクリャの信徒としての紋章を抱えたままアフラムシカの加護を受けているという、神の眼から見れば異常としか言いようのない状態だった。
彼の目的がさっぱり掴めないまま、ドドは議会から承認を得ていた「枷の罰」をアフラムシカに下した。
内心はぐちゃぐちゃに潰れていた。
憧れて妬んで羨んで称えた相手に、自分は何をしているのか、何をさせられているのかという、絶望と言うには大袈裟だったが何か深い喪失感のようなものを味わったのだ。
そして。
時おりドドの耳に届く、信徒の声。
……巫女の祈り。
『神よ、厳しくも慈み深き我らのドドよ。私たちの娘をその懐にお守りください』
どんなに強く祈られても、ドドはその声には応えられない。
なぜならその娘はクリャの信徒だ。
ドドの領分にない。
それどころかその娘の存在がどこかに隠れ潜んだクリャを生かし続けている。
ドドはクシエリスルを支える柱のひとつとして、南部を任された盟主の片割れとして彼を排除せねばならない立場だというのに、その信徒をどうして守護してやれるというのか。
できない、したくもない、だが声を無視したくはない、相反する感覚にドドは引き裂かれる思いだった。
こうなったらアフラムシカかクリャを尋問して事情を吐かせるしかない。
あの二柱に裏の繋がりがあったことだけは確かなのだ。
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