152 西方からの手紙
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ミルンを追いかけようとしたスニエリタの腕を、ヴァルハーレが掴む。
痛いほどの力で握られて振りほどけない。
腕から取りこぼされたフランジェが、彼女は獣なので転んでしまうことはなかったが、おろおろとスニエリタたちを見上げて困惑している。
彼は力ずくでスニエリタを抱き寄せると、顎の下に手を入れて、半ば無理やりに上を向かせた。
端正な顔が間近にあったが、今はそれも醜く歪んで見える。
くちびるが触れそうなほどに顔を近づけて、ヴァルハーレは脅すような声音で囁いた。
「スニエリタ、……台無しだよ。僕が今どんな気持ちだかわかるかい? よりによってきみの心をかどわかしたのがあんな泥臭い田舎者だなんて、ほんとうに信じがたい……信じられない屈辱さ……」
「い、や……離してっ……」
「今すぐここで僕に愛を誓え。参列客はいなくても神は
「嫌ですっ!」
そんなことを言うくらいなら城壁からもう一度身を投げたほうがまだましだと思った。
それにこの男はどの口でそんなことを言えるのだ、自分はさんざん他の女と遊んでいるくせに。
泣いて拒絶するスニエリタに苛立ったのだろう、腕を掴んでいるヴァルハーレの手の力が強くなる。
このままでは手首の骨を握り砕かれてしまいそうだと思うほどに。
でも、どんなに痛くても絶対に彼の望む言葉など吐きたくなかった。この男と将来を誓うなんて、ましてやミルンの目の前でそんな言葉、死んでも言うものか。
すると、そこで、急に誰かがヴァルハーレの肩を掴んで後ろに引いた。
突然のことにヴァルハーレが驚いて手の力を一瞬緩めたので、その隙になんとかスニエリタは彼から逃れようとしたが、動きにくいドレスが災いしてその場に転んでしまった。
見上げた先には驚愕と怒りに塗りつぶされた表情のヴァルハーレと、彼を諌めるロンショットの姿がある。
「ヴァルハーレ卿、お嬢さまに乱暴は止めてください」
「ロンショット、貴様ぁ……ッ」
「将軍閣下! 本日の式は一旦中止として、あの少年の身柄は私に預けていただきたいのですが。
皆さまには一度ご自宅に戻ってお休みいただくのがよろしいかと存じます」
「……ロンショット」
将軍は険しい表情でロンショットを見、そして、深く息を吐いた。
「たしかに……そのほうが良いだろうな。この場は貴様と治安部に任せる。
ヴァルハーレ、貴様は帰れ。この馬鹿娘のことは父親である私がどうにかするしかないだろう」
「っですが閣下、僕はッ! こんな……っ!
……わかりました、失礼します。ですがこの借りは必ず返させていただきますよ!」
それから。
ロンショットの指示によりミルンは連行されていき、スニエリタは両親ともども自宅へ帰った。
そのあとミルンがどうなったのかを知るのはもう少しあとになってからだ。
そもかくその日、スニエリタは一晩じゅう父と言い争った。
生まれて初めてだった。父に逆らったことも、父を相手にここまで自分の意見を押し通そうとしたことも、これまでのスニエリタなら絶対にありえないことだった。
何ひとつ父の期待に沿えない不出来な自分には、何かを望むことなど許されないと思っていたからだ。
いや、今でもそんな感情は残っているかもしれない。
少しは紋唱術も使えるようになったけれど、まだまだ将軍の娘として喜ばれる段階には程遠い。
偉大な父に物申す権利などないだろう。
それでも、そんなことはお構いなしに、スニエリタは泣きながらでもミルンの解放を訴えた。
説得というよりは懇願だった。
見知らぬ外国人をここまで擁護する我が娘の姿を、クイネス将軍はどのように見ていたのだろう。
彼は最後までまともにスニエリタの言葉を聞き入れる姿勢を見せなかったが。
終わりの見えない討論のあと、スニエリタは疲れ果てて倒れるように眠った。
‐ - ― +
娘の就寝を確認してから、将軍はどっかりと長椅子に腰を下ろした。すぐに妻がやってきて隣に座る。
労わるように重なってきた手を、将軍は腕を返して包み直した。
彼にとっても激動の一日だった。
娘の婚礼だけでも充分に気の詰まる思いだったというのに、それが思いもよらない形で中止になったのだから。
まさか己の娘にそんな相手がいたとは露知らず、しかもそれがハーシ人で、本人が主張するには二ヶ月以上も家出をしていたという。
何から何まで荒唐無稽で支離滅裂だ。
しかし、それにしてはスニエリタが強情だった。未だかつてないほどに頑なだった。
これまで自分の意思がないのかと思うほど気弱で意志薄弱だった娘が、ここまで強硬に訴えてくるのは珍しいを通り越して異常だとさえいえる。
つまり、……初めて娘がわがままを言ったのだ。
それにはとても驚いている。若干の感動さえあった。あのスニエリタがここまで強い意志を持つことがあるのだと、自分が施した教育も間違ってはいなかったのではないかと、そんなふうに思えるのだ。
内容がもう少しまともなものであったら受け入れてやってもよかったかもしれない。
だが、不法侵入したハーシ人を不問に処して客人として受け入れろというのは、クイネス家と将軍職の誇りにかけて認められない。
「……ヴァネロッタ、おまえはどう思う」
将軍は深く息を吐きながら妻に尋ねた。
職務で行き詰ったときなど、彼女の意見を聞くことはたまにある。
必ずしもその意見を採用するわけではないが、妻は自分と反対の考えでも率直に述べてくれる、今となっては数少ない人間だ。
妻は困ったように微笑んでから、きっとあなたと同じだと思いますよ、と言った。
「あの子があんなに一生懸命に頼んでくることだもの、できたら聞いてやりたい……だって、初めてでしょう? スニエリタがあなたを困らせたことはよくありましたけど、それは一度だってあの子の意思ではなかったもの」
「……意思か。私は娘をずっと、人形だと思っていた」
「わたくしもです。……何もかもがままならない可哀想な子と……」
だからこそ、人生の道筋をこちらで決めてやらなければいけないのだと思っていた。
他の子女のように婚約相手を自分で選ばせることもさせず、習いごとも必要なものだけやらせ、交友関係は専門の人間を雇って管理させた。
雁字搦めの檻の中で蹲っているだけの娘は、まるで操り手のいないマリオネットのようだった。
何を言われても「ごめんなさい」と「わかりました」しか言わなかったスニエリタが、今は自分の意思でその手足を動かしている。
決められた婚約者を拒み、自分で相手を選ぼうとしているのだ。
本来ならこれは喜ばしいことのはずだった。
だがその相手がハーシ人では論外だ。
娘が何を以て彼をヴァルハーレよりも気に入ったのかは知らないが、歴史あるクイネスの家系にハーシの血を入れるなど言語道断である。
むろん、ハーシがマヌルドから独立して久しい今、ハーシ人を奴隷や獣と同列に見なすのはもう古い考えなのかもしれない。
国外にマヌルド人ほどそういう思想に固執する民族もいない。
自分たちは大陸の他のどの民族よりも優れて秀でている、それゆえ彼らの上に立ってもいいのだという考えは、もはや国際社会では通用しないこともわかっている。
マヌルド人以外でも世界じゅうに優秀な紋唱術師や学者は大勢いるのだから。
だが、そうは言っても世論は容易には覆らない。
もしハーシ人を婿に入れたらクイネス家はマヌルドの上流社会からつまはじきにされるのではないか。
地位と肩書きのある自分はともかく、スニエリタが誰に何を言われるだろう。
スニエリタはそのとき耐えられるだろうか。
傷つき後悔するのではないか。
そして何より、あのハーシ人はクイネス家に迎え入れるに足るほどの男なのかどうか。
将軍は項垂れた。
とにかくあのハーシ人については一度調べさせなければならない。それはロンショットにやらせればいいとして、問題はスニエリタをどう納得させるかだ。
娘を説得する方法を知らないことに、将軍は初めて思い至っていた。
今までは自分の言ったことに何ひとつ逆らわない娘だったから、ああして反抗的な態度をとる娘に対し、どのような言葉をかければいいのかわからないのだ。
困ったことに今のスニエリタの驚くべき頑固さは、ある意味己自身によく似ている。
もはや自嘲の笑みさえ浮かぶ将軍と、彼に寄りそう妻の耳へ、そのとき静かなノックの音が響いた。
ふたりがぱっと扉を見ると、そこから女中が顔を出す。
彼女は一礼してから、お話したいことがございますが少しよろしいでしょうかと、おずおずと口にした。
「おふたりにお見せしたいものがございます。その、これなのですが」
女中はエプロンのポケットから一枚の封筒を取り出した。
この家では見かけない、見るからに安い紙を使った庶民的なものだ。
ヴァネロッタがそれを受け取って宛名などを検めると、差出人はスニエリタ、宛先はクイネス夫妻となっていた。
消印にはシレベニとある。日付は今からひと月以上前だ。
「なんだそれは?」
「二週間ほど前にお邸に届いたものです。その、悪戯だと思って誰かが除けてしまっていたようでして……ずっと女中部屋に置いてありました。
申し訳ございません、私どもで先に開封してしまっています」
「まあ。……いえ、それは今はいいわ」
ヴァネロッタは封筒から便箋を取り出して拡げる。
眼に飛び込んできたのは間違いなくスニエリタの字だ。そして。
──スニエリタは死にました。
そんな書き出しの文句から始まっている、奇妙な手紙だった。
『スニエリタは死にました。最後まで親不孝な娘を、どうかお許しください。
わたしは生まれ変わって、今、とても素晴らしい方がたと、旅をしています。
マヌルドにいたころには考えられなかったことをして、知らなかったものを見て、毎日が驚きと感動に満ちています。
この旅の中でわたしも成長しているように感じます。
もしもいつか、お父さまの望まれたような人間になれたなら、アウレアシノンに帰るつもりです。
そうでないうちは帰りません。
どうぞわたしを探したりなさらないでください。
くれぐれもお身体にお気をつけて。
敬愛するお父さまとお母さまへ。
岩積みの素敵なシレベニの街にて、スニエリタ』
遺書ではない。スニエリタの筆致は踊るようで、しかも手紙には、香りの付いた飾り紙が添えられていた。
香紙自体は珍しいものではないが、そこに込められた薫香からは異国の気配が漂っている。
マヌルドで採れる香木のものではない。
これは、ひと月前に娘がヴレンデールにいたことを証明する新たな品だ。
夫妻は顔を見合わせた。
ハーシ人、ウサギ、手紙と、これだけの証拠が一日で集まってしまった。
もはや娘の家出は疑いようのない事実になってしまう。
ひいては娘が熱弁していた、神がどうとか試験がどうだのといった荒唐無稽な話までもが事実になるし、ハーシ人が娘の命の恩人だということも認めなければならなくなる。
それに、これほど活き活きとしたスニエリタの文章など今まで見たことがない。
死にましたなどという暗い言葉で切り出しているのに、実際には新しい生活を心の底から楽しんでいることが、文面の端々から滲み出ている。
「……生まれ変わった、か」
将軍は呟いた。妻はそのとき彼の表情を見て、やはり困ったように微笑んでいた。
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