114 盟主顕現③ ‐ 旅人の伴、牙の将、あるいは彷徨える氷雪の怪物
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ララキは床に投げ出され、ガエムトの抗議めいた雄叫びが続く。
身体が凍ったようにぴくりとも動かないので、誰が何をしたのかはわからなかったが、少なくともララキの見える範囲に紋章などはない。
というか招言詩を唱えるような声は聞こえなかった。
そもそも忌神相手に紋唱術が効くのだろうか。そういう試験として対峙したカジンならともかく。
『ヲアアアア! ヴウウウウウウ!!』
『うるっせえな、おい、こいつをちょいと大人しくさせとけ』
『なんでこんなことになるんだよぉ……あーあ。ガエムト、下がれ。手を下ろせ』
聞き覚えのある声がするなと思ったら、身体の強張りがじわじわと解けた。
ようやく起き上がろうとするララキにスニエリタが駆け寄ってきて、さらにミルンもきて上体を起こすのを手伝ってくれた。
やっと庭の状況を確認できたララキの目に、三つの影が映る。
ひとつはガエムト。不満げに歯を鳴らしながら、地面に蹲っている。
その手前には黄金のヤマネコがいて忌神を牽制している。フォレンケはララキが起きたのに気づくと、厳しい声音で叱責した。
『だからどうしてきみは簡単にガエムトを呼ぶの!? 命知らずにもほどがあるよ!』
「ご、ごめん……他に思いつかなくて……まさかいきなり食べられそうになるとは思わなかったし……この間は大人しかったしさ……」
『そういう問題じゃない。軽々しく神の名を呼ぶなと言ってるんだよ。こういうことを繰り返されると、今後きみたちや他の人間がほんとうに心底困っているときに、ボクらはそれを見殺しにする決断をとらざるをえなくなるんだぞ』
「……ごめんなさい」
いたく怒っているようすのフォレンケとは対照的に、その隣に立つ人物はにやにやと笑っている。
『ガエムトを選ぶとは肝の据わった女じゃねえか。それぐらいのほうが俺としては面白え』
『……カーイはいいよね、後始末とかしなくていいんだから』
それは、その人は。
苛立ったガエムトが時折伸ばす腕を、まともにくらえば気絶では済まなさそうなその一撃を、話しながらでもひょいとかわしているその人の顔は。
特徴的な鼻筋に、淡い銀髪をゆるく結って肩口に垂らした姿に見覚えがある。
ララキがその名を口にする前に、ミルンが先に呟くように言った。
「……カ……カイさん……?」
たしかにその男は、そう名乗っていたあの旅人と同じ風貌をしていた。
しいていえば服装は少し違う。恐らくはハーシ人の民族衣装であろう、刺繍の入ったシャツを前を留めずに着て、腰のところで鮮やかな織りの帯を結んでいる。
その上に毛織の上着をかろやかに羽織ったその男は、ミルンの言葉ににたりと笑んだ。
『おう、久しぶりだな、我が民よ。……ってか?』
『何それ』
『ま、ちょっとした遊び心ってやつだな』
『……ああ、それでわざわざ人型なんだ。相変わらず物好きだね。
というわけで、驚いて腰抜かしてる人間諸君に改めて紹介しよう。
ボクはヴレンデールの主神であるフォレンケ、あれが忌神頭のガエムト。
……そして、こちらに
その名を呼ばれるなり、カイさん──そう呼ばれていたはずの男の身体は霧のように薄れ、それが膨らんで巨大な獣の姿へと変貌した。
白銀の毛並みは絵画に見る雪原のようで、もう夜だというのに月よりも眩く輝いている。
かなり分厚いであろう毛皮越しにもわかるほどに逞しい、そして座った状態でも耳の先が鴨居に触れるほどの堂々たる体躯は、広々としていたはずの寺院の庭を覆ってしまい、まるで雪化粧を終えた冬山がそこに出現したかの如き光景だった。
大きな足の先には鈍金色の爪が大地を裂く。
薄ら笑いを浮かべた口許からは三日月のような鋭い牙が覗いている。
双眸は爛々として紅く、その中心の瞳は星のない夜のように黒かった。
これがハーシ族の主神にして、クシエリスルの北西の盟主。
残虐無慈悲で知られる神話の主。
銀毛のオオカミはフンと鼻を鳴らして、まずミルンをじろりと見た。
『なんだ、まともに歩けもしねえ状態か。しかしこれ以上の介入はさすがに俺でもな……。まあいい、どのみち時間はあるからな、
「え、え?」
『ちなみにフォレンケ、こいつらに説明は?』
『してるわけないでしょ。まさかガエムトを呼ばれるなんて思ってもなかったし、いろいろ不測の事態だよ』
ミルンは俯いたまま、まともに返事をすることもできず、喉から乾いた音が漏れただけだった。
ララキもそれを這い蹲って見ていた。
頭の上から何か巨大なものに踏みつけられているかのような威圧感に、ただただ頭を垂れているしかできないのだ。
彼の隣ではスニエリタもへたり込んでいて、カーシャ・カーイの視線が動くたびに喉がひっとひきつっている。
彼女も下を向いているが、顔を上げなくても、神の眼を直接見なくとも、彼が自分を見つめたときはわかるのだ。
心臓に細長い氷を突きつけられたような心地がするから。
やがてオオカミの神は軍人たちとロディルを見た。
誰一人として頭を上げていられる人間はいなかった。
『そっちのふたりは例のヴィーラの民として、ひとり多いな。おまえさんは見たところ俺の民のようだが……ハン、そうか、兄弟か。それなら
カーシャ・カーイはそこで腰を上げた。白銀の背の向こうに同じ色をした太い尾がだらりと下がっているのが見えた。
突然だが、ララキが覚えているのはそこまでだ。
立ち上がったカーシャ・カーイが何か言ったような気がしたが、直後に凄まじい強風が吹き荒れて、しかもそこで意識がぷっつりと途切れてしまった。
だからそのあと何が起こったのか、誰がどうなったのかはわからない。
どこかでガエムトの咆哮を聞いたような気もするし、気のせいだったかもしれない。あるいはそれは別の獣のものだったのか。
ただ、薄れゆく意識の中でぼんやりと思った。
──あたし、この神さまと、前にどこかで会ってる……ような……。
その日、ヴレンデール北西部のサーリという田舎町に、季節はずれの雪が降った。
たった一晩だけの奇跡のような雪に町民は大いに戸惑った。
交通、農業、商業、あらゆる分野に大なり小なり影響をもたらしたこの現象の影で、急に姿を消した旅人がいたことなど、もはや誰も気に留めてはいなかった。
∞・・・∞・・・∞
女中が妻の髪を梳かしている。
自分は下男から硝子製の茶器を受け取り、そこに注がれている液体を飲み干した。
このところ、就寝前に薬酒を一杯呑まなければ落ち着いて朝まで眠ることができない状態だった。
家出をした娘が未だ戻ってこず、失ってしまった皇帝からの信頼を回復するにも時間がかかり、クイネス将軍の心身の疲労はすでに限界に近いところにまで至っている。
ここひと月で随分老け込んだと自分でも思う。
恐らく今も険しい表情をしているのだろう。鏡越しに眼を合わせた妻が、困ったように微笑んでいる。
彼女も美しい女だった。かつてはアウレアシノンの花と呼ばれ、社交界では数多の男が水面下に彼女を奪いあっていたのだ。
齢を重ねてもなお気品を従えたその美貌はゆっくりとしか衰えなかったが、娘の失踪から二ヶ月をすぎた今は、すっかりやつれてしまっていた。
女中と下男が下がり、ふたりきりになってからやっと夫妻は口を開く。
互いのほかに誰もいない夜の寝室でだけはただの男女になれる。
将軍の肩書きも爵位の重みも脱いで下ろし、ただのハイダールという男の名を、妻であるヴァネロッタが呼ぶ。
寝台にあがってきた彼女の細い指が頬に触れて、ハイダールもそこに己の手を重ねた。
「ひどい顔をなさっているわ。お疲れでいらっしゃるのね」
「……おまえも随分顔が白くなったようだ」
彼女はもともと色白ではあるが、それにしても最近は気疲れのためか、病的なまでに青ざめているように思えてならなかった。
娘がいない今、妻に倒れられるのはハイダールとしても絶対に避けたい。
もしそうなれば、ハイダールをぎりぎりのところで支えている細い糸が切れてしまう。
そんな感情が瞳にでも滲んでいたのか、ヴァネロッタはまた困ったような顔で笑んだ。
「ロンショットからは……あれから、新しい報告はありまして?」
「あれば言っている」
「……そうね、ごめんなさい。最後に聞いたのは三日前だったかしら」
「ああ。その時点では明日にも接触できるなどと抜かしておった」
「何かあったのかしらね……スニエリタはもちろん、彼にも無事であってほしいわ。とてもいい子だもの」
確かに、スニエリタを攫った者と接触したと思われる日から連絡がないというのは、そこで何か衝突が起きたように思っても不思議ではない状況だ。
もう八年も面倒を見てやった部下のことを妻が心配するのも無理はない。
だがロンショットはあのヴァルハーレに同行している。
帝国学院を首席で卒業し、マヌルド帝国軍に入隊後は目覚ましい勢いで大佐の地位にまで異例のスピード昇進を果たした、いわゆる天才だ。
その実力はハイダールとしても自分の後継者に選ぶほどには認めており、国内どころか世界規模においても彼に匹敵する紋唱術師はそうそういない。
ロンショットとてハイダールが手をかけて育てた軍人だ。そのふたりでかかれば、大半の相手は軽く下せるだろう。
「……案ずることはない。ヴァルハーレの小僧はやり手だ」
「ええ、そうね……でも……スニエリタはどうしているかしら。元気でいるかしら……」
妻の言葉に、ハイダールは瞑目する。
スニエリタ自身からはまったく音沙汰がなかった。
未だに彼女が何を思ってこの家を出たのか、もっと言えば本人の意思であったかどうかすらわからないままだ。
女中に命じて彼女の部屋を調べさせてみたりもしたが、そこにも何か手がかりのようなものは残されておらず、夫妻にとっては暗闇の中にいるような二ヶ月だった。
当初のような怒りはない。それには相応の気力が必要だからだ。
疲れ切ったハイダールには、もう静かで絶え間ない後悔と心配の念ばかりが波のように繰り返し訪れるばかり。
正しいと思った教育をした。
己の娘として、この家の人間として恥じぬ者になるよう、一切の隙を許さず厳しく育ててきた。
しかしハイダールが心血を注げば注ぐほど、娘はぼろぼろになっていった。
何をやらせても上手くいかず、叱咤激励も効果はなく、ただ毎日のように泣き暮らす脆弱な娘がそこにいた。
彼女に何かを望むほどに、それとかけ離れたものになっていく。
ほんとうに手がかかる娘だった。疎ましく思う瞬間がなかったと言えば嘘になる。
男ならよかったとか、どうしてこれほど不出来なのかと、ときに理不尽な怒りをぶつけたことも少なくなかった。
だが、それでもやはり、己の血を分けたただひとりの娘だ。
愛していないはずがない。
その身を案じないはずがない。
恐らく自分も父親としては不出来だったのだろう。
こうして娘のことを想うのに、思い出せるのは泣き顔ばかりなのだから。
「ヴァネロッタ」
胸の痛みに耐え切れず、ハイダールは妻の名を呼んだ。
しかし彼女がそれに答えるより先に、突如として夫妻の寝室は、水中に没した。──何が起きたのかハイダール自身にもわからなかった。
困惑し、口を開くとがぶりと無数の泡が吐き出される。
そして妻が驚愕して見つめるのは、夫ではなくその向こうの虚空であるようだった。
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