009 ロカロ祠堂 - 世界でいちばん大事な人

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 背中の感触がどうもおかしい。

 ぼんやりする頭でそんなことを考えながらそっと瞼を開ける。


 窓から差し込んでいるのは朝の光だろうか。物のあまりない殺風景な部屋。

 その隅っこに丸くなっている茶色の物体を見つけ、ミルンは溜息をつく。ミーのやつ、俺を心配して、ずっと戻らずにいたのか。


 遣獣は紋章の外に長くいると、それだけ消耗する。

 紋章の中に戻って、その先にある本来の棲みかへ帰れば回復するけれど、まる一日出ずっぱりでは回復にもそれだけ時間がかかってしまう。できればとってほしくない悪手だ。

 だが彼女の性格をよく知っているミルンとしては、だからといって叱る気にはなれなかった。


 それにしても自分はよく生きていられたな、案外傷は浅かったのか、と思いながら身を起こす。


 ……手元の感触がどうもおかしい。そういえば寝ている間もなんか変だった。なんか、寝台が絶えず動いているような。

 嫌な予感がして、そっと眼を下にやる。


「のわぁーーーっ!!!???」


 その朝ミルンがあげた絶叫により、宿に泊まっていた全員が同じ時刻に起床することとなった。




 まずようすを見に来たララキが指さして笑い転げたので一発殴りたい気持ちが湧いたのをどうにか堪え、これは何だおまえの遣獣か、と問い詰めた。

 ミルンが寝ていた寝台に、ミルンを包むかのように身体を広げて横たわっていたのは、身の丈十数メートルはあろうかという大蛇だったのである。


 正直な話、ミルンは爬虫類があまり得意ではない。ちなみに両生類はもっと得意ではないが、これを知られるとのちのち嫌な思いをしそうな予感がしたので、断固黙っておくことにする。


 ララキは笑ったまま、違うよ、と言った。

 ──それスニエリタの子なの。ニンナちゃんっていうの。


 誰だそれ、と聞いたところで、ララキの背後からひょこりと顔を出した人物がいた。


 美少女だった。

 一目見た瞬間ミルンの恐怖と悲しみと怒りと呆れと身体の痛みがすべて吹っ飛んだくらい、美少女だった。


 ララキよりやや小柄で、目鼻立ちは品よく整い愛らしく、上等な衣類に身を包んだどこぞのお嬢さまだ。

 言葉が出ず立ち尽くしているミルンに、この子がスニエリタだよ、とララキが呑気な声で紹介する。


 スニエリタは上品なしぐさで挨拶をした。鈴を振るようなきれいな声だった。


「あ……えと……その……?」

「僭越ながら、あなたの治療のお手伝いをさせていただきました。お加減はいかがですか?」

「……そういうことか!

 ありがとうございます。ああ申し遅れました、俺はミルン・スロヴィリークと言います。おかげさまでもうすっかりよくなりました」


 急にめちゃくちゃ丁寧に喋りだしたミルンを見てララキの笑いが止まる。誰だこいつ、みたいな顔をしているがミルンは徹底的に無視をした。


『しかし一晩添い寝してやったのに悲鳴をあげるとはな。礼儀を知らん小僧よ』

「まあニンナ、誰だってあなたを見たら驚きますよ。ララキさんはちょっと違いましたけれど」

『……かわいいなどと叫ばれたのは初めてだよ』


 女とも男ともつかない声で蛇が喋っている。その内容がなかなか驚愕だったので聞かなかったことにしたい。

 ララキがいろいろずれてるやつだということは薄々感じていたが、いよいよもって理解しがたい。おまえほんとに女か。

 いや、このでかい蛇を遣獣にしているスニエリタ嬢もなかなかすごい人物のようだけれども……。


 そうこうしていると視線を感じたのでもう一度部屋の隅を見やる。ミーが、泣き腫らした眼でこちらを見ていた。


『坊ちゃん……』

「ミー、おまえは一旦戻れよ。心配かけて悪かった。あとでいくらでも叱られるから、とにかくまず休んでくれ」

『もうっ! ちゃんとララキさんとスニエリタさんによくお礼を言うんですよ!』

「なんかミーちゃんてミルンのお母さんみたいだよね」


 ミーがちゃんと消えたのを確認してからララキとスニエリタに向き直る。

 ニンナもいつの間にか消えていたのでほっとした。正直、見ているだけでも背筋がぞわぞわして落ち着かない。


 ところでスニエリタはともかくララキに礼を言う要素がどこにあるんだ、と少し疑問に思ったミルンだったが、ミーが言うのだからたぶん何かしたんだろう。

 スニエリタが手伝いとか言っていたし、ララキも多少は治療の紋唱を使ったのかもしれない。

 あのへっぽこぶりで、どれくらい効果があったかは謎だが。


「ところでここ、ロカロか?」

「うん」

「あのあと運んでくれたのか」

「うん、まあほとんどミーちゃんがやってくれたけど」

「……ありがとな」

「え、何が? むしろ許してほしいんだけど」

「何がだよ。昨日の紋章の件だったら別におまえが悪いわけじゃ──」

「練習がてら回復の紋をあてすぎて腕毛とすね毛が部分的に変に伸びちゃったかもしれないけど許して」

「そっちかよ!! ていうか何やってんだおまえ人の身体に!」


 漫才みたいなやりとりをするララキとミルンを見て、スニエリタがくすくす笑った。


 ララキに言ってやりたいことと問い詰めたいことが山ほどあるミルンだったが、スニエリタ嬢の笑顔があまりにもかわいかったので今回ばかりは許してやる。

 顔が赤いよ熱でもあんの、という不躾な声は聞こえない。


 その後、朝食を摂りながら確認したところ、昨日はミルンの治療などで手一杯だったため結局お目当ての祠にはまだ行っていないとのことだった。


 あとミルンの宿代はララキによって立て替えられていた。

 なんとか財布から搾り出して返金したが、もう手持ちがない。

 何か稼ぐ手段を見つけないかぎり、国境の町までは徒歩で行かねばならない。


 アルヌを使うのはもう無理だ。

 ただでさえ疾走する獣の身体にしがみつくのは辛いのに、この身体では絶対に振り落とされる。


 稼ぐのもこんな田舎町ではたかが知れているので、半ば徒歩決定である。


 諦めの気持ちのまま荷物をまとめ、ふたりは祠へと向かった。祠は町のはずれの雑木林の中にあるらしい。


 歩いていく道すがらララキに言う。昨日、先に行っておけばよかったのに。


「別に治療ったって一日じゅう張り付いてたわけじゃないだろ」

「そうだけど……ミーちゃんの状態があれだったし置いていくのは気が引けたっていうか……」


 それにね、とララキは言う。


「ミルンにも見てほしかったんだ。昨日のあたしの答えの続きがここにあるから」


 祠についた。聞いていたとおり、ほんとうに小さな祠だった。


 たまに町の人間が手入れをしにくるのだろう、脇に掃き清めたらしい落ち葉が集められているが、それでも祠の中には新しい落ち葉がいくつも落ちている。

 石を積んだ簡素な造りの外壁には、ところどころ苔が生していた。


 眼を惹くのは祠の中央にある石碑だ。

 絵が描いてある。

 古いもののようで塗料の色はかなり褪せてしまっているが、それでもそこに描かれたものがなんであるかは問題なくわかった。


 獣。鬣のある、赤い身体。

 昨日見たあのライオンとそっくりなものが、そこには描かれていた。


「昨日の、シッカだったか。遣獣じゃあないよな」

「うん。……あのね、あたしの世界でいちばん大事な人はね、神さまなんだ」


 ララキは石碑の前にしゃがみ込み、その表面をそっと撫でる。

 絵の上部には紋唱が刻まれている。昨日ララキが描いて唱えたものと、恐らく同じ紋章と招言詩だ。


「神さまとしてのほんとうの名前、神名は、ヌダ・アフラムシカ。

 ……やっぱりここで口にしても何も起こらないね。


 ごめんなさい。あたし嘘吐いてた。カムシャールの遺跡で神さまを怒らせちゃったのはあたしだったの。

 シッカの神名を頭に思い浮かべただけなんだけど、まさかこんなことになっちゃうなんて……」

「俺は南部の神については詳しくないけど、たぶんそいつもクシエリスルの神だよな? どうして神名を言ったりするだけで他の神が怒ったりするんだよ」

「シッカはちょっと特別なんだ。あたしを助けたりしたから、みんなに怒られて半端にされちゃった」


 そこからララキは語り始めた。彼女の数奇な半生について。



 ──イキエスよりさらに南。クシエリスルを拒んだ「外の神」が支配した領域に、呪われた民が暮らした。


 クシエリスルは人間を贄とすることを禁じたが、外の神はそうではなかった。

 むしろ巨大な集団であるクシエリスルの神々に対抗する力をつけるために、領内の人間たちに生贄を捧げることを要求した。もし拒んだとしても自ら気に入ったものを殺して奪うこの神に、力ない人間たちは抗うことを諦めた。


 何人もの犠牲を受け取った神は、それでもまだ己の力が充足しないと感じる。


 そこで考えた。──殺した魂では足りぬのなら、もっと永く生きるものを贄として捧げよ。


 それは女がいい。女は次の命をその身に孕むことができるからだ。

 それは若いものがいい。それだけ命が永く続くからだ。若いほどよいだろう、幼子を差し出せ。

 それは命が絶えぬほど永いものがいい。我はそのための結界を設けよう。腹は減らぬ、歳も取らぬ、ただそこに存在し続けるだけの女を置くのだ。


 こうして呪われた民の中から、ひとりの幼い少女が選び出され、神の贄として結界に送り込まれた。

 その娘には名前がない。あるのは身体じゅうに刻まれた紋章だけ。


「それはね、永遠にその神さまのものだっていう印なのね。たとえ何かの拍子で結界を抜け出せたとしても、それからどれだけ遠くに逃げても、その印がある限り絶対にその神さまには見つかっちゃうの」


 ララキは言いながら自分の腹部を撫でた。薄着のくせに肌には包帯のような布がぐるぐる巻きにされている、露出が多いんだか少ないんだかわからない妙な恰好をしていたが、その下にあるものを想像したミルンは口許を覆った。


「……おまえ、歳いくつだよ」

「わかんない。シッカが現れて結界を壊してくれたんだけど、それまでずーっと結界にいて、その間って時間の感覚がぜんぜんないんだよね。もしかしたら百年とか経ってたかもしれない。だって」


 少女が結界を出たとき、すでに外の世界──呪われた民の暮らした名もない国──は滅んでいた。


「ともかく、あたしを逃がしたところまでは神さまたちもわかってたみたいなんだけど、ほんとはそこであたしを殺さなきゃいけなかったみたいなのね。

 でもシッカはそうしなかった。あたしをわざわざイキエスまで運んで、せんせーのところに連れてってくれたの。

 それが他の神さまたちには許せなかったらしくて、シッカはもう喋ることができないし、紋唱を使わないと姿も見せられない。出てきてくれても、少しするとすぐ戻っちゃう。

 それがどんどん短くなってるの……いつか、消えちゃうかも」

「それで、アンハナケウに行ってどうする気なんだ」

「他の神さまたちにお願いするの。シッカのことを許してもらって、また前みたいにおしゃべりがしたい」

「でも……話の流れからすると、おまえ今度こそ殺されるんじゃないのか」

「かもね。でもシッカが消えちゃうよりずっといいよ。それにあたし、ほんとだったら生きてるはずない歳かもしれないんだし」

「ワナエアって祭司が言ってただろ」


 神は消えない。ただ人々に忘れられるだけ。そうした神を救うためにアンハナケウがある。

 去った神は安住の地アンハナケウへ行くだけなのだ、と。


 ミルンが言うと、そうだといいね、とララキは言った。いつもの元気な調子とはまるで違う、今にも泣き出しそうな顔だった。

 祭司の言葉よりも実感のほうが遥かに重いからだ。シッカが現世に存在している時間が日に日に短くなっていくのを、誰より肌で感じている。


 またひとつ木の葉が舞って、祠の中へと落ちた。


「なんか変なの。ミルン、もう完璧に信じてるよね」

「そりゃあ、この眼で神の顕現を目の当たりにしちゃあな……とにかく、俺、決めたわ。俺も一緒にアンハナケウに行くことにする」


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