第七章 代表決定戦が始まる
「イギリス艇の前に出てます」
トラピーズで外にでた自分の位置からはライバルたちがよく見える。
「ハルは?」
「ほぼ同じところです」
私達は最初のマークに向かって突っ込んでゆく。
「優先権取れてます」
マリに大声で伝える。
「このままゆくぞ」
負けずにマリが怒鳴る。波の音と風の音が高まる。私達の艇はトップで最初のマークを回った。今度は下り風のレグだ。
私は忙しく動く。
スピンポールをセットする。ポールについたポケモンのマークが目に入った。スピンをホイストする。マリがスピンシートを引き込む。スピンネーカが風船のように一気に膨らむ。
マリはセンターボード(船の横滑りを防ぐために水中に張りだした器具。追い風のときは使用しない)を引き上げた。
まるで風がなくなったようだ。それは私達が追い風の中で走っているからだ。後ろに飛び去ってゆく海面をみると船のスピードがわかる。
「来たぞ」
すぐ後ろにイギリス艇がみるみる迫ってくる。その後ろには真っ白いセールとJPNの文字が迫ってきた。ハルたちだ。クルーのヒデの視線がサングラスをとおして私達に突き刺さってくる。
ライバルたちのセールに追い風がかきみだされた。私達の船のスピードが落ちてくる。
だが、マリの操舵が冴える。巧みに彼らを抑え込んでゆく。そのまま次のマークが見えてくる。
「やばい、風が落ちる」
マリが口をとがらした。
なんとかマークは先頭で回った。そして再び上りレグだ。しかし、風がない。
スピンを収納し、再び私はトラピーズで出ようとしたが、腰半分でとどまった。
微風だ。こうなると新しい機材を持ったライバルたちが有利だ。おまけにハルたちが得意とする風域なのだ。
「ジャパン艇、前に出てきます」
アンの言葉を聞いてマリが首を振る。どうやら風が息をついてしまったようだ。
「このまま我慢だ」
マリが唸る。
ジリジリとハルたちが先行してゆく。第二マークはハルがトップで回った。ふたたびスピンの花が開く。差は縮まらない。
トップはハル。二番手がイギリス、マリたちは三番手に落ちた。四番目にノルウェー、スペインと続く。
このままの順位で船団は次のマークも回ってゆく。このままではハルの優勝だ。
次が最終マークだ。メダルレースと言うにはあまりにも迫力のない競い合いになってしまっていた。
「海面が赤い」
マリがつぶやいた
「え?何ですか?」
よく聞こえなかった。なんだか不吉な言葉を聞いたような気がした。マリの顔がこっちを向く。
「風の子が生まれる」
マリはなにかに心を奪われたようにつぶやいている。
最終マークを回った。しかし、マリはゴールと離れた方に舵を切った。
「マリさん、これじゃ」
「用意しとけよ」
マリの声に熱が戻ってきた。
先頭集団は相変わらずぴょこぴょこと風呂桶に浮かぶおもちゃのアヒルのよ
うだ。お行儀よくひとかたまりになってゆっくり進んでゆく。
そしてちょっと黄ばんだアヒルがゆっくり反対側に進んでゆく。親アヒルからはぐれた子供みたいだ。
その後を迷ったような、さらに白い帆が一艇だけのろのろとついて行
く。
「あと十ヤードだ」
船は前に進まない。
暑い。
日差しがジリジリ私達に降り注ぐ。
先頭集団はもう最後のレグの半分をこえただろうか。
もはやオリンピック代表の座は絶望的だ。
しかし、私の心はなぜか穏やかだった。
マリとここまで来た。そして最終レースを競うまで来たのだ。
教えてきた子どもたちの顔が浮かぶ。彼らにも誇りをもってレースの報告をすることができるだろう。静かだ。そう思った。
「うん?」
上腕が何かを感じた。
「タックする」
マリが宣言した。
「はい!」
そうか、風が出てきている。
来る。
「ブローの頭に乗っかるぞ」
マリが笑っている。
腕をなでていた空気の流れを肩が感じるようになった。さらに汗のしたたる額を乾かしてゆく。気がつくと船底から水を切る音が聞こえだした。
セールに力がみなぎってくる。
トラピーズハンドルを掴んだ。
しゃがんでいた姿勢から、足を伸ばしてゆく。
体重を掛けてゆく。
それでもセールはブローを受けて反対側に倒れようとする。船体のエッジに足を掛け、フルハイクな状態だ。さらに船体から体を伸ばす。
全身の力を込める。
気がつくと船は軽々と水の上を走り始めていた。
「マリさん、わたし、この走り、見たことあります!」
おもわず叫ぶ。
「風の子と一緒にゴールへ突っ込むぞ」
マリも半身を船外に乗り出してセールを立てる。
「マリさん、波が来ます、乗れます」
振り向きながら、叫び返す。
「サーフィンか」
マリがティラーを少し引いた。
後ろから大きな波がやってくる。その斜面に470を乗せる。ブローは更に強くなる。
私達たちの船は高速で波の上を突っ走ってゆく。更に加速する。
船体は海面から浮き上がる。センターボードが見えそうだ。ドレンが掃除機のような音を立てて船内の海水を最後の一滴まで搾り取ってゆく。
私達の470は二十ノットを超えた。
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