第七章 代表決定戦が始まる
私は素早く両手をつかってスピンをたたみこんだ。
「英国艇、離れます」
一位との差はもはや4挺身になっていた。速く下りレグを走り切ることを私達は祈る。後ろをみると離れていた後続グループが近づいてきた。
「回航します」
マリに告げる。やっと下りマークにたどり着いた。後ろの集団との差は僅か数メートルに近づいている。今度は上りレグだ。マリは目を細める。
「アン、上り回った後の潮の流れはどう?」マリは次の次を読んで聞いてきた。
「3時の方向だと思います。ゴールからすると斜め後ろです」
「最後のマークは斜めに突っ切る。追い風レグは距離が増えるけど、アビーム
でゆくぞ」
マリが宣言する。
マリはスピンを失ったハンディを、距離を損しても補うつもりのようだ。
「いけますか?」
「まず、この上りで距離をかせぐ」
「はい」
私達の声が海面を叩く。
クローズド(風上に向かって四十五度の角度で帆走する方法)のときの自分達の組み合わせは最強だ。
私は上背がある。おまけにシングルハンダーとしての豊富な経験があるつもりだ。常に先を読んでジブをトリムし、マストをたて、最大の効率でセールを翼にする。
マリは経験豊かな操舵と先を読む力、そしてブローの流れに異常な感覚を持っている。
クローズで二人は後続を引き離し、先をゆくイングランドチームとの距離をぐいぐいと詰めてゆく。
そして最後の追い風レグにむけマークを回る。私達はそのままゴールと45度の方向に舵を切ったのだ。これはゴールからの直線距離ではない。
しかし、スピンを持たない自分達にとって、追い風に乗ってまっすぐゴールに進むコースでは不利だ。むしろ斜め打ちろから風を受け、そのスピードでハンディキャップを補おうとするしか無い。もちろん、走る距離は多くなる。リスクがであることは変わりがない。
「マリさん、後ろのグループがマークを回ります」
「ランニングに入りました。遠ざかってゆきます」
「もう少しだ」
マリは粘る
「風が生まれてきた」
マリが小さな声でつぶやいた。
「ジャイブ(追い風で走行している時に繰り出しているセールの位置を変える
こと)するぞ」
マリが一気に船を回す。私達の船はちょうど斜め後ろから浅めの風を受けるポジションをとった。
「ブローが来るぞ」
マリが予言する。
私はトラピーズにぶら下がりながら、腰をおとし、衝撃に備える。
「バシン」
メインセールが再び風をはらむ。
鳥の翼のようなスムースなシェープを形作る。
私はバランスを取る事に集中する。私達の船が再び加速されるてゆく。
「いけるぞ」
「はい」
「もう少し風下に落とすぞ」
「はい」
応える声が鋭くセールに跳ね返る。
私達のコースは三角定規の斜辺をたどるのだ。ライバルたちはまっすぐに底辺部分をゴールに向かって最短距離で進む。
ライバルたちはスピンを張った。追い風にのって左右に揺れながら進んでゆく。
自分達は彼らより距離を走らなければならない。しかし、クウォーター(斜め後ろから風を受ける走り方)で風を掴んだ。最もスピードが出る走り方だ。
「奴らの前にねじり込むぞ」
「少しコースが浅いかもしれません」
「ギリギリで粘るぞ」
セールトリムとコース取りは微妙なバランスを必要とした。気を抜くと失速する。そうするとスピンを持っているライバルにかなわない。
私達は全身に力を込め、体を使って全力で船を立て、微妙な釣り合いを保ちながらゴールまでのコースをトレースしてゆく。
マリの左手にスピンを張った集団が見えてくる。
少しずつ、少しずつ。
かれらの前に出る。距離が詰まる。ゴールはもうすぐそこだ。
「ブローが切れた!」
突然風速が落ちた。
船が失速する。私は風速に合わせてジブセールを繰り出そうとした。
「まだだ、息継ぎだ」
マリが叫ぶ。
「え!」
思わずマリの顔を見る。
その目は何もない海面の何かを確かに捉えている。
私の右の頬を何かが撫でる気配がした。
「きました」
「そのままホールドだ」
その言葉通り、風が復活した。
「ざくざく」
ヨットの切っ先が海を切り裂く音が再び聞こえてくる。
私達の船は失速する寸前に勢いを取り戻すことができたのだ。
一位のチームはすでにゴールしている。
二位以下のライバルの集団がすぐそこに迫る。
このままでは、彼らに優先権ができてしまう。オーバラップしなければならない。
「……」
「……」
私達は息を止めた。
まるで自分たちの呼吸がブレーキを掛けてしまうのを恐れるように、体を固くする。
風は止まらない。
私達の船を押し続ける。ジリジリと船が進む。私達の470はライバルたちから明らかに前に出た。そしてそのままゴールラインを切った。
しばらくおいてスピンを花開かせた船団がゴールした。
一位はイングランドペア。二位は私達だ。三位にオーストラリアペア。
ハルは四位以下の集団に飲み込まれたままゴールを切った。十二位に終わった。
ヨットハーバーのスロープで船台に載せた船を二人で引き上げる。
「やったね」
「このポイントで大きくアドバンテージ取れましたね」
「ああ、メダルレースでおそらく5位以内に入れば総合2位は間違いない」
「マリさん、初めてマリさんの走りを見た気がします」
「どういうこと?」
「どうしてブローが来ることがわかったんですか?」
「そういえばそうだな」
マリが不思議そうな顔をする。
「それに、最後の息継ぎだなんて」
私は続けた。
「なんとなく、答えが見えた気がする」
マリが自分の内側を覗くように答えた。
もしかすると、マリにあの力が戻ってきたのかもしれない。あの事故以来、使わない、と言っていた伝説の走り。
「そういえば、パロットビーク、なんで壊れたんだ?」
マリが聞く
私はスピンポールを持ち上げてみた。
「あれ、このポール、いつものやつじゃないですよ」
「どういうことだ?」
「私達のやつ、ほら、スクールの子供がポケモンシールをはっていたでしょう?」
「そうだっけ?」
「これ、シールがないです」
「ちょっと貸してみろ」
マリがポールを手にとった。
壊れたビークの付け根のアルミにヤスリがかかったような斜めの傷がある。
「すり替えられたな」
マリがつぶやいた。
「どういうことですか?」
「つまらんトリックを仕掛けるやつがいるんだよ。ほら、練習日の申告のとき
にちょっと出会ったやつがいてね、まさかと思うがそいつがスピンポールもっ
てたから」
「そんな」
「最後のレースでは全部パーツをチェックしたほうが良さそうだな」
「なんだか気味悪いですね」
私は首をひねった。
「わかってる」
その時アナウンスがあった。
「レース結果について抗議がありました」
二人がレースフラッグが掲げてあるポールを見た。協議中フラッグが上がっている。
「そんな際どいところ、あったですかね?」
「勝つためには手段を選ばないやつがいるんだよ」
マリが苦々しげに答えた。
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