第五章 落日のように立ち上がれ
「マリさん、今日もきました。」
アンがやってきた。五月の風は砂漠のように乾燥している。唇がカサカサする。
強い紫外線が新しい季節の始まりを彩る。
あたしは先制攻撃を掛けた。
「レースはやらないからね」
アンが口にする前に牽制球を投げ込む。
「今日はいいんです、クルーの勉強をしたいんです」
アンが残念そうな顔をしている。
あたし達は子どもたちが使った船を全部水で洗い、ラックに片付けた。
「また明日、お願いします」
アンがあたしの背中に声をかける。
「あぁ」
あたしは、飽くまでそっけなく答える。
しかし、その響きにアンは揺らがない。さすがレーザーラジアルで世界を取ったことのある女だ。ちょっとやそっとの逆境にはめげないようだ。
アンが自転車で帰ってゆく。その音が次の静けさの始まりを宣言する。
この季節は一日が長い。冷たい海面に触れることに躊躇するような夕日がいつまでも水平線の上にぼんやりぶら下がっている。
あたしは事務所の机に残された雑誌を手にとった。潮でシワが寄っている。その中から、アンが真っ直ぐにこちらを見ている。
「オリンピックを目指してます」
囲み記事になっている。タイトルには大きくそう書いてあった。
あたしは、ため息をついた。
「オリンピックを目指せばいいじゃないの」
いきなり後ろから、聞きなれた声がする。
「ジュン」
車椅子にのったジュンが入り口にいる。
「気がついたの?」
「いつ」
矢継ぎ早のあたしの質問に手で制す。
「うちの親、ああでしょう、連絡できなかったのよ。ごめん」
「大丈夫なの、体調は?」
「あんまり長いこと外出もできないの」
「体にさわる?」
「無理言ってきたのよ」
「ごめんなさい、あの時、私がちゃんと見ていれば、判断してればこんなこと
にはならなかった」
「マリ」
「あなたのせいじゃないわ。私たちが一番わかっているじゃない」
「でも?」
「でもじゃないのよ。あの子、どうするつもりなの?」
「どうするって、私はもうレースはしない」
「誰が決めたのよ」
「ジュンとじゃないと乗れない」
「子供みたいね」
「私の気持ちかわからないの?」
「あの子はあなたとレースに出たいのよ」
「違うわ。彼女は彼女の父さんのためにオリンピックにでたいだけ」
「自分のためじゃない」
「熱心なのに?」
「あたしも調べたわ。彼女の父親はノルウェイチームの監督。両親は五年前に
離婚した。父親はスェーデンに帰り、彼女と母親は残った。でも彼女は父親に
会いたい。自分を認めてもらいたいのよ」
「考えすぎよ」
「知っててるでしょう」
「何が?
「私が小学校時代にクラスをどうして仕切っていたか」
「あなたは人の顔色を読む天才よ。それにつけ込んだ最低のいじめっ子だった
わ」
「ありがとう」
「でも親友よ」
「だから」
「だから何?」
「アンとオリンピックに出て」
「どういうつもり?」
「私のためでもあるのよ」
「ジュンがオリンピックにでたがっていたのは一番知ってるよ」
「よく喧嘩したよね」
「ジュン、あなたは完全に直る、そしたら行こう」
ジュンが下を向く。そして顔をあげて海を見る。その目はマリを通り過ぎてその後ろに広がる落日の、その裏にある宇宙を見通している。
ゆっくりジュンは宣言した。
「お願い」
「あんた?」
「それがたった一つの気がかりなのよ」
あたしはゆっくり深呼吸をした。そしてジュンの姿を睨むように、見つめる。
水平線に沈みかかった五月の夕日は世界を暗闇に塗りつぶそうとしている。
あたしは、事務所の扉の先に見える裏山の緑を、全力で、憎しみを込めてた目で見つめた。
ジュンの姿を透かして、心を失ったもののを、見つめた。
この世は、地下の世界に支配されてゆく。
しばらくして、小さな、小さな、声。
「わかったわ」
とうてい自分とは思えない、崖から飛び降りる自殺者のようにつぶやく独り言が聞こえた。
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