第四章 星の光は過去の時間
「平家マリさん、3番の診察室に入って下さい」
病院なのに愛想が良いのね、マリはその声に思う。あたしは病院の待合室にいた。
最近頭痛がひどい。突然襲ってくる。目の前に影が横切ることもある。まあ、ほっときゃいいと思っていた。酒の飲みすぎかもしれない。
そもそも長く生きるつもりもない。ジュンをあんなにしてしまった女が海に残っているなんて馬鹿げている。
結局、そう思うようになっていた。
逃げていることはわかっているつもりだ。あの事故のあと、決心したはずだった。
「オリンピックを目指そう、いつでも準備しておこう。そうすることがジュンへの贖罪だし、もしかすると彼女が帰ってくるかもしれない」
しかし、ヨットクラブに毎日顔を出す。子供向けヨット教室の先生を終え、クラブハウスを片付ける。そこにいるのは自分だけだ。中庭でヨットを片付ける。白い船体を水で洗う。
「ねえ、スポンジとってくれない?」
誰も応えない。そして一人だってことに気づく。
「ああ、そうなんだよね。自分で取ってこなきゃね」
独り言を言いながら、蛇口のところに向かっていく途中で足が進まなくなる。立っていられない。
「もう無理」
その言葉の意味を知った気がした。特に夜が怖い。自分の内側に目を向けざるを得なくなる。どうしても寝られない。
やむなく、近くのコンビニにビールを買いに行く。冷蔵ケースの横に安いウイスキーが並んでいる。ビール程度じゃ酔えない。そうしてウイスキーを瓶で買ってくるようになった。
太陽が水平線に沈んでゆく。一日が終わる。夜になる。怖い。だから、飲み始める。だらだら、ちびちび。そうして毎日を誤魔化してきた。
そんな時に、入間アンという若い女性がやってきた。何か、彼女に残してあげたい、そんな風に思ってしまった。
そんな心の気まぐれで、珍しく診断を申し込んでみた。そして、医者は一通り問診を勧めたあと、MRI受診をすすめたのだ。
あまり良くない兆候だという。
「そうなんですか」
と、あたしは簡単に感想を述べた。
自分でも驚くほどに何の感情も湧いてこなかった。ただ、自分がいつも考えていることが現実になるのだな、という認識だった。
次に思い出したのは父親のことだ。あたしが小学生の時に死んだ。家で倒れていた。発見したのはあたしだった。いや、正確には布団でそのまま死んでいた。
あたしが学校に行く時、親父は変ないびきをかいていた。あたしは気がついていたんだ。そして、帰ってきたときに、そのままの姿で事切れていた。
「ああ、やっぱり」
最初の感想だった。次に
「ホッとした」
だった。
父親は飲食店をやっていた。この手の商売人にありがちで、性格は最悪の部類に入っただろう。おまけに商売はむずかしい。いいときもあれば悪いときもある。結構無理していたと思う。
だが、学校でいくつか問題を起こしていた自分を、何故かヨットスクールに押し込んでくれた。厄介払いだったのかもしれない。
でも結果オーライであたしはそこでジュンに出会った。そうして立ち直ったと
言ってもいいだろう。
そして、今度は自分の番が来る。別に不思議でもなんでもない。
母親は弟がいるから心配ないだろう。彼女は弟を溺愛しているし、あいつもその愛情にこたえ、立派な大人になっている。まあ、そもそもあたしとは家族ともう何年もあっていない。
だから、とうとう借金を返済する時がやってきたのだと自然に思う。それがジュンへの贖罪でもあるし、ある意味、父への恩返しでもあるのだ。
損な性格だとわかっている。しかし、この金庫のような心の内側を変えることはままならない、もう解鍵コードも忘れてしまった。
「ありがとうございました」
「お大事に」
医者との面談が終わると、その足でジュンの病室を訪れた。ジュンの病室は新館の三階だ。こんな小さな町では、病院の数はたかが知れている。
ズキズキする頭を抱えながらエレベータで上がる。入り口にあるアルコール洗浄液で手を拭い、マスクをして病室に入る。
ジュンは眠っている。もう二年になる。細くて美しかった顔はむくんでしまっている。
ジュンの手を握って声をかけてみた。
「あたしも年貢の納め時のようだよ。あんたより先に三途の川をセーリングし
そうだ」
ジュンの手は温かい。きっと冷たくなってしまうときがいつかは来るだろう。
でもその時をあたしは迎えるつもりはなかった。
「面白い子がやってきたよ。オリンピックに出たいみたいだよ。ジュンみたい
だね」
自然と涙が出てきた。
「はっきりいわないけどね、どうも私と組みたいみたいなんだ」
「でもね、私は決めてるんだよ。ジュンとしかオリンピックに行くつもりはな
いんだ」
「ジュン、どうしたら良いんだろうね。もう私はポンコツだよ」
カーテンを隔てた隣のベットの老婆が身動ぎする気配がする。
「また来るよ、頑張るんだよ、みんな待っているからね」
ジュンの手をにぎり、手のひらをもんだ。
何かの本で、声を掛けたり、手の神経を動かしてやると脳に良い、ということを読んだことがある。手を少し上下に動かしてみた。ジュンはずっと目を閉じたままだ。
そうやって一時間もいただろうか、あたしは腰を上げた
「また来るよ」
気がつくと頭痛もだいぶ良くなっていた。
エレベータを降り、メインビルディング横の自転車置き場から自分の錆びた自転車を引っ張り出した。セーリングクラブがある港に向かう道を走り出した。
短い髪が風を受けて目の前にちらつく。スタボー(風上に対して左側に帆をだしながらセーリングする方法)だな、そう思いながら自転車を漕ぐ。
もう暗くなってきた。セーリンググラブのフラッグが見える。その前の海面に街頭の明かりが写っている。そして、その向こうには美しい夜光虫のいる岩場がある。
そういえばジュンと夜中に見に行ったのもこんな季節だったな。
氷をいれたグラスのように汗をかきながら、思い出していた。
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