第三章 片浜ヨットクラブ

 クラブに着く。入り口の鍵を開けながらふっと空を見上げる。西の方に一列の雲がある。

 真夏のアイスクリームのようにどんどん溶けてゆく。なんだか気分が良くなってきた。

 ここを任されたってことは自分のことを認めてくれたことになる。少なくともタダの見習いからスクールのアシスタントくらいのレベルに上がったわけだ。

「一歩ずつ、小さな階段を上がるように」

そう口の中で言葉を転がしながら一つ一つ鍵を開けてゆく。

 気分が良くなってヨットクラブの事務所の扉を思いっきり開けた。

 扉が反対側の壁にぶつかり、反動で跳ね返ってくる。その時に何かが目の隅に入った。

 普段なら見落としている、そんな何かだ。

 扉が激突したショックで飛び出してきたのだろう。誰かの財布のようだ。

 子供か親が落としたのかもしれない。

「困っている人がいるのかもしれないな」

 そう思ってファブリックでできた三つ折りの財布を開いてみた。

 内側が透明なビニールになっている。

 汚れたプラスティックの内側にブルーの免許証が入っている。

 若い女性の緊張した顔がこちらを見ている。

 名前を見ると、

 来栖(くるす)じゅん、と書いてある。

 子どもたちにも来栖という名字はない。聞いたことがない名前だ。

 マリさんがきたら聞いてみよう。目立つように事務所の机の真ん中に

放り投げた。ポストイットで「落とし物」と書いておいた。


「さようなら」

「ばいばい」

 子どもたちが帰ってゆく。マリは結局姿を現さなかった。子供に教えるのってワクワクする。この感触、自分でも新しい発見だ。

「楽しみって思わぬところにあるんだな」

クラブの門を出てゆく小さな後ろ姿を見ながら思った。あ、そういえば終了報告はしておかなければいけないな。そう思ってスマホを取り上げたとき、車の音がした。

 事務所から出るとちょうどオーナーが軽のバンから降りるところだった。


「アンさん、どう、今日は楽しめました?」オーナーが言う。

「ありがとうございます。子供の数も少なかったので、目が届きました。教え

るのって楽しいですね」

「そう言ってもらえると嬉しいわ。この年になると子供が笑っている姿をみる

だけで気持ちが良くなるものよ」

 オーナーは快活そうに続ける。

「今日は何を教えたの?」

「風上のマークに向かって効率よく間切ってゆくところをちょっと重点的にや

ってみました。まだ、タッキングの技術もそうなんですけど、どういうコース

をとったらあとで楽になるか、子どもたちは読めないんですよね」

「随分高度なことを教えたのね。子供は新しいことが大好きだから良かった」

「マリさんは?」

「今日は来ないわ。だから鍵を引き取りに来たの。明日はいつもどおりよ。何

か変わったことはなかった?」

「事務所に財布が落ちてました。机の上においてあります」

「大金でも入ってる?」

オーナーは微笑みながら返した

「中身は見ていません。でも免許証が見えました。来栖じゅんさん、という名

前です」

「え、ジュンの財布がどうして?」

オーナーの顔がこわばった。

「ご存知の方ですか?」

「あなたはまだこちらに来て、日が浅いのよね」

「はい、まだ一月もたってないです」

「そう、どうしてだろう」

 ちょっとオーナーの声が淀む。

「ご近所でしたら届けに行きましょうか?私、帰りに買い物もあるし、自転車

ですし」

「届けるなくていいと思うわ。」

 オーナーは裏山の緑を見つめている。

「あなた、マリがどうしてレースをやめたか知っているの?」

「はっきりは知りません。でも470ワールドのときに事故があったと聞いて

います」

「そう、その時のクルーがジュンよ。財布の持ち主」

「その方は?」

 アンは言い淀んだ。そのさきの言葉をこの場所で空気の中に放って良いものか、そんな気がしたのだ。

「ジュンは意識不明のままよ。もう二年になるわ。二人の船が沈したとき、下

敷きになったの。助けが来たときには遅かったわ。酸素不足で脳がかなりやら

れてしまったの」

「そうなんですか」

 他に何という言葉を継げば良いかわからなかった。

「マリも頭にひどい怪我をしたわ。普通、ヨットはこんな激しいことにはなら

ないんだけどね、何があったのかわからない」

 私はマリの額の大きな傷を思い出した。

「でも事故だったんでしょう?」

「マリは背負いこんでしまったの」

 オーナーが話す。

「マリもジュンもここで育ったのよ。二人は小学生の頃からいつも一緒だったわ。素晴らしいセンスをしていた。あんまり速いから、コメットなんて呼ばれていたわ。ジュンはいつも言ってた。オリンピックで金メダルとってくるからね、なんてね」

 オーナーの声が震えて終わる。

「私も、子供の頃に彼女たちの走りを父と見たことがあります。魔法を見てい

るようでした」

「あなたもレーザーでオリンピックを目指していたって聞いたけど」

「はい、そうでした。でもレーザーラジアルは日本の代表種目じゃなくなって

しまったんです」

「あなたならマリをもう一回浮上させることが出来るかもしれないわね」

 誰の言葉でもいい。私はすがるものが欲しかった。オーナーの言葉は落水したものが掴むライフラインに思えた。

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