第二章 自分だけが輝くシステム

一日悩んだ末、執印(しゅういん)監督に言われたとおり本社の人事部を訪ねた。

 色黒の男性がさっぱりとした笑顔で迎えてくれる。目の周りにシワが見える。あまり人事部にはいないタイプだ。


「アンさん、あなたは転勤になりました?」


 自分はアスリートとして雇われているはずだ。普通の事務職のように転勤があるなんて聞いたことがない。

「ど、どういうことですか?」

「あなたは一種アスリート登録から外れました」

「だから事務職として働いてもらいます」

「新しい職場は片浜の事務所になります」

「そこで事務をお願いします」


 やっぱり、追い出されるんだ。


「言葉が出なかった」

「お断りしたらどうなるのですか?」

「その時は雇用契約を解除いただくことになります」

「そうですよね、福祉団体じゃないんですよね」

 刺々しい言葉が自分の口から出たことに驚いた。そして、流石に鈍い私も状況がわかってきた。


「ふざけるな」


 というのが次の感情だった。だって、そうだろう?ワールドで七位の選手をいきなり事務員呼ばわりして左遷だ。

「やめま?」

 という言葉がでる寸前に人事担当者が口をはさんだ。電車に乗り込もうと駆け足で階段を駆け上がる瞬間に何かいつまずいてしまったようなタイミングだ。

 わたしの勢いが寸前で止まる。


 男性は続けた。


「事務所は片浜のヨットクラブ正面にあります。ここは小さいながらもしっか

りしたクラブです。あなたの勤務時間は午前中だけになります。午後はあなた

のものです。給与はフルに出ます。住宅補助も全額出させていただくことにな

ります」

「どういうことですか?」

「不幸なことにオリンピック派遣種目としてヨット協会はあなたのクラスを選

択しませんでした。しかし、あなたの実績は素晴らしいものです。ただ残念な

がら弊社のメインクラブを使うわけには行きません。会社の方針でオリンピッ

ク対象クラスに集中することが決定したからです。とりあえずでも良い、その

才能を活かす方法を考えてほしいのです。」

「監督の差し金ですか」

「これ以上のことは言えません。ただ、わずかでもあなたを支援したいと思い

ます。この返事は今週中にいただければ結構です。ゆっくりお考えください。

やめる時は自分がそう思ったらやめればよいのですよ」


 事務所の扉を後ろ手に閉めた。

「片浜」か。記憶に引っかかる名前だ。その場で会社の申し出を即座に断らなかったのはこの地名のせいだった。なぜだろう。

 スマホを取り上げた。調べようとした。間違って、メールを開いてしまった。

 請求が来ている。

「あーあ、そういえば今月も残高がきついんだな。カッコつけて仕送りなんてしなけりゃよかった」

 思わず独り言がこぼれた。

 この会社から追い出されたら、寮からも出てゆくことになる。アパートを探し、敷金を払い、バイトを見つけ、それからスポンサーを探すなりしなければ生きて行けない。

 今の預金残高じゃあ二ヶ月も暮らして行けないだろう。もちろん、

仕送りなんて出来るわけがない。母親の顔が浮かぶ。

 しかし、人事担当者の助言を受ければ、生活の心配は何もない。おまけにヨットクラブの正面で午後は練習に当てられる。ただ一人ぼっちだ。


「どうせ今までも一人だったようなものよ」


 私は思いかえした。実際多くのディンギー乗りはあちこちのクラブに属し、そこでスポンサーやレースパートナーを見つけてレースに出ている。


「お父さん、どう思う?」

 独り言が口をつく。

「すごいレースができるパートナ、見つかるかな」

 オリンピックまであと二年も無い。レーザー以外の実績がない選手にとって、凄腕のスキッパーと組むことが一番の近道だ。だが、もちろん名前の売れたヘルム(ヨットの舵を操舵する役割のこと。スキッパーと同義)はすでにペアをつくっている。

 昔の楽しかった日々が思い出された。あの頃はヨットを中心とした、だからこそ幸せな家族だったと思う。


 そういえば、まだ小学生の頃に父と見に行った470レースのことが浮かんできた。


 あのレースはすごかった。

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