こはる日和
amalfi
第1話 ひさとはる子
「いやあ、可愛い。はる子ちゃんね」
ひさはしゃがみこんではる子の顔を覗き込み、相好を崩して喜んだ。とっておきの着物を着せられたはる子はぶっちょう面のまま、上目づかいでひさを見た。
白地に紫の麻の葉の粋な着物に、格子の帯を締めたひさは、色白で整った顔立ちで、島田に結いあげた黒髪も艶があって、美しく見えた。
大正十五年のこの日、数えで三歳のはる子は、小池ひさと小池英策の元に、修善寺からはるばる沼津に養女に来たのだった。春たけなわ、沼津の千本松原は桜が満開のころだった。
はる子は大正十三年一月一日(一九二四年)修善寺の山口幸平とみねの次女として生まれる。実際には、暮れに餅をついている時に生まれたと聞くから、十二月の三十一日ころに生まれたのだろうが、数えだと、当時の数え方では年が明ければ二つになってしまうので、元日に届けをだしたのだろう。誕生日が元日になったので、縁起よく「はる子」と名付けられた。幸平は大工の棟梁をしていた父の三男坊で、当時呉服屋を営んでいた。しかし、妻のみねは二十八歳、はる子がまだ二歳の年に、三人の子供を残して結核で亡くなってしまう。一方、不幸なことに、家業を継いで大工の棟梁となっていた山口幸平の兄の健次も、この年に亡くなった。この時代は、こういうことはよくあったことなのだが、幸平は、残された兄の妻まちと再婚することになる。すでにまちには、はつ、政雄、きよ子、國男という二男二女があったため、幸平は自分の次女はる子を養女に出すことを考えたのである。養女先の名乗りを上げたのが、沼津の料亭の女将おひさであった。
時は遡る。
山口幸平の父親、山口延太郎は大工の棟梁をしていたが、妻をなくし男やもめとなっていた。
当時、修善寺で小さな料理屋を営んでいて、美人の誉れ高いきよを見初めた延太郎は、後妻にならないかと一か月間通い詰めて申し込んでいたようだ。すると、きよはひさと一緒ならという条件をだしてきた。きよは独身だったが、亡くなった妹の子供、ひさをひきとっていたのだ。父親はそれを承諾し、二人は再婚し、ひさは連れ子として引き取られる。父親の方も彦平、健次、幸平、たにと子供が4人いたから、幸平とひさは血は繋がってはいないが、兄妹のように育っていた。
やがてひさは大人になり、修善寺の老舗旅館「新井」の行儀見習いに行くようになる。そこで、板前の小池英策に見初められることになるのである。
ひさは、色白で切れ長の瞳、小さく形よくまとまった唇も愛らしく、うりざね顔の小柄な女性で、男衆にはとても人気があったようだ。英策はひさを見たときに、立居振る舞いの可憐さが一目で気に入ったのである。当時としては珍しく恋愛結婚だった。もともと網元の息子だった小池英策は、体が弱いことを理由に家業は継がず、料理人を目指して東京のホテルでフランス料理の修行を積んでいて、フランス語も堪能だった。
その後、英策はひさと結婚すると修善寺の「新井」を辞めて、沼津に移り「沼津カフェ」というフレンチレストランがを開く。一階がフレンチレストラン、二階は料亭という大正時代にしてはモダンな造りの店で、どちらも厨房は英策が取り仕切っていた。沼津カフェは、仕出しも引き受け、英策の腕と、ひさの美貌で評判の店となっていった。
英策は酒席も宴会も嫌いで無口。真面目一方だったが、町の仕事は良く手伝ったので、町内会の会長などもよく引き受けていた。当時の沼津は賑やかで旅館や料亭なども沢山あったが、なかでも沼津カフェのひさは沼津一の美人女将と呼ばれるようになる。
しかし二人の唯一の心残りは、子供が出来なかったことだった。
そんな折、山口幸平が妻を亡くし、兄嫁まちと再婚したと聞いたひさは、はる子を養女にすることを申し出る。妻を亡くしてから、3人の子を抱えて苦労している噂は耳にしていたし、すでまちにもに二男二女がいた。ひさも英策も幸平の子供を是非にと望んでいたのだ。
「嬉しい。お人形さんみたいね、はる子ちゃん」
ひさははる子をすぐにいとおしく思い、抱き上げた。
「かわいいわあ、ねえ、英策さん」
大正十五年、三十一歳の英策は、はる子の顔を覗き込み微笑んだ。いつまでもいつまでもひさは、はる子を抱っこして離さなかった。
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