114恥目 反覆のナスタチウム


 時は少し戻り、修治達が祗候館を目指している頃――。


 浅草に戻ったかと思いきや、今度は上野に連れてこられちまった。非常に嫌な予感がする。

 上野駅の近くにある喫茶店に強引に押し込まれ、別に好きでもないぜんざいを食べさせられれば予感的中。愛子はとんでもない事を言い始めた。


「ハァ!? マジで言ってんすか!?」

「だってあんな髭根っこみたいな男が要を助けるなんていうんだもの、当てに出来ないのだわ」

「金渡したんだからいいんすよ! 太宰さんなら助けてくれますって!」


 何がヤバいかって?

 この"女"、誰もがヤバいっつう館に要を助けに行こうとか抜かすんですよ。

 テーブルを両手でバンバン叩き、太宰に何が出来るんだと、あの人を信用していない様なんだ。こちらがいくら「大丈夫」と、負けじと言い返してもまるで信じない。


「その太宰ってのを信頼する根拠は?」

「根拠は・・・・・・ねえ、ですが・・・・・・」

「ほらみろだわ!」


 ぐうの音もでない。これと言った根拠はないさ。なんせあの太宰なら、尚のこと。しかしオレは太宰に金を渡しせば、要の事はなんとかなるだろうと踏んでいた。

 だって要は、あの人の本を命と同じくらい大事にしていたから。それに、オレらが祗候館とやらに行ったとて何も出来やしないからだ。噂じゃ犯罪者が用心棒って話で、そもそも行きたくない。金を渡せば、なんとかしてもらえる。漠然とそう思っただけだ。


 金は渡した。あとは任せる。それだけで充分のはずなんすよ。


「な、なら聞きますけどねぇ! オレ達が行ってどうすんすか!? それこそどうしようも出来ねえじゃねえすか!」

「あるわよ! 競より先に要を買うのだわ!」


 着物の胸辺りから、そっと朱色の帛紗を出し、その中の金を見せつけて来る。持っていないわけじゃないが、明らかに足りない。この店のメニューを片っ端から注文できるような額じゃあいけない。

 入館するだけで500円取る様なおっかねぇ場所が、ほんのそれっぽっちで買わせると思ってんのか?


「どんだけ金が必要だと思ってんすか! 50円、100円じゃないんすよ!? 甘く考え過ぎだって! それで買えるんならとっくに買ってるよ! 五反田のオッさんも言ってたじゃないすか。太宰1人じゃなくて、他にも仲間がいる、あいつらなら出来るって言ってたっしょ!」 


 ぜんざいの餡がついた箸を愛子に向けて、世間知らずと、厳しく言った。


「あの親父はヤクザなんだわよお! 金を貸したのだから、きっと酷い取り立ててでもするつもりよ! そいつの言う事だって、信じられないのだわ!」

「ヤクザたって、治安隊の頭だろうが! 要もそこで働いてるって言ってたっしょ!? 少しは人を信じてみろ!」


 ああ言えばこう言う。結局愛子は、自分の手で助けださないと満足いかないらしい。

 あのハゲ頭の親父がヤクザだろうと、太宰に金を迷わず貸している姿を見ている。遠目に見たって、焦った顔をして、しまいには体をふらつかせて体を支えられていたじゃあないか。あんなの、演技だって出来ないぞ。


「そういう事じゃないんだわ! 学のわからずや! 馬鹿!」


 ならどういう事だよ、と言いかけると、愛子は店を飛び出した。どっちが馬鹿なんすか。会計もしねえで食うもんだけ食いやがって。追った方がいいのかもしれねえけど、まあ、あの人が行きたいなら1人で行けばいいんすよ。

 オレはこの時代じゃあまだ死ねねえんで、危険は冒さず帰りますけどね。啄木のノートは見つからず終いだし、東京に居たってしょうがない。


 勿論、要には会いたい。オレは一応、お兄ちゃんだからな。本当に心配だよ。でも、会ったら嫌な事を思い出すし、思い出させてしまう。それをわかっているから会わない方がいいんだ。

 仮に助けるにしても、直接ではなく間接的に。


 愛子には悪いが、家庭の事情だ。宿として部屋を貸してくれた事は感謝するが、その礼に祗候館へ乗り込めってんなら嫌われ者になってやるさ。

 喫茶店に代金を支払い、"大将" の元へ帰る為、駅を目指す。さてさて、また尻の痛くなる旅の始まりだ。本当、都会は咳が出て行けねえし、さっさと帰ろう。


「ちょっと!」

「ん? ヴッ」


 声をかけられてすぐに、マフラーをキツく後ろに引かれた。こんな事をするのは愛子だ。他にこんな事をする人間はいない。


「なんで追っかけて来ないんだわよ!」

「面倒くせえな! 勝手に出て行ったんすよね!?」


 頬っぺたをプクッと膨らまして、まあた不機嫌で戻ってくる。男とは思えねえくらい女女してて、びっくりしますわ。こりゃ騙される殿方がいらっしゃるでしょうね。

 しかし、このまま謝りでもすれば絶対に祗候館に連れて行かれるのがオチ。ここはキッパリ断らないと。


「駅前、見て」

「駅前?」


 愛子は着いて来いというのではなく、ただ上野駅の方を指差した。人が沢山居て何処を見ていいのかわからない。愛子は「ほらあそこ、5人くらい集まってるところ」と言うので、塊を探すと直ぐに見つけられた。数えると6人。野郎ばっかだ。


「あれ、太宰って人達じゃないかしら?」

「太宰と愉快な仲間達っすね。上野に居るって事は、いよいよ行くんじゃないすか?だぁから言ったべ? 仲間いるから大丈夫だって。野郎6人も居れば平気っすよ」

「・・・・・・学、妹を助けたいと思わないの?他人任せにして不安にならないの?」


 不安に決まってるべ。でも、守れる物は1つしかないんだ。それを愛子はわかってない。愛子が要をどうしても助けたい理由は知らないが、あの6人に混じって助けに行こうなんざ、1ミリだって思わない。


 オレの決心は堅い。"大将"のいる角田に帰ると決めたんだから、愛子が涙を流そうが何しようが構いやしないのさ。

 

「お互いの為なんだ。家族だからって、手を差し伸べていいもんじゃない。だから太宰達を信じる。オレは帰ります。ノートもねえみたいだし、東京は息がしずらいんすよね。じゃ、世話になりました。元気でな」


 後腐れない様に全てを終わらせて。

 もう二度と会うこともない愛子に幸あれと、手を振って上野駅へ迷わず、再び足を向かわせる。

 

「あるんだわ! ノート!」

「は?」


 引き留めるために嘘を付いたんだろう。だけど、万が一という事もあるので、嘘だとわかっても、念のためと振り向いてしまう。


「ほら、これだわよ」


 手を高く上げ、これ見よがしにノートを見せつけて来る。表紙には確かに「石川啄木」と名前がある。あれか! "大将"が探しているノートは!


「いざという時のために隠してたんだわ。アンタがアタシの言う事を聞く様にね!」

「ハア!? 汚ったねえっすよ! さっさとこっちさ寄越さいん!」

「あげないんだわ!」


 この、愛子のやってやった! という顔! ノートの話をすると、まだ見つからないというから信じてたのに騙されていたとは。全然気づかなかった。悔しいが、やられた。あのノートを持ち帰れば、"大将"はそりゃあ喜んでくれるに違いない。悩んだ末に出した答えはこうだ。


「・・・・・・ハア、ったく! 絶対に要には会わないし、あの6人とも接触しない条件でなら行ってやりますよ! 何をどうやって助けるんだか知りませんがね! こればっかりは、守って貰わねえとな!」


 愛子が条件に対して頷かないのが気になるが、とりあえずノートの為に再契約。

 目指すは祗候館。アイツらとは距離を取って着いて行き、館があると噂の山を登る。



「あちらさんは正面から、か」

「6人いるのに2人しか行かないんだわね」

「なんか作戦があんじゃねえのすか?」


 雨でぬかるんだ山を登り切ると、噂通りその館は鎮座していた。山奥にあるには勿体ないと思ってしまうくらいの立派な洋館。

 太宰達も行動を開始しているのを影からこっそり見ているだけならいいんすけど、愛子はそうも行かないようです。


「で、オレ達は何をどうするってんですか。金もねえし、暴力は出来ませんよ」

「本当かどうか、わからないんだけど。こっち」


 正面玄関から見て左側。恐らくは別館の方へ、移動させられる。暗くてよく見えないが、愛子は見張りもいない様な、草だらけの地面を見つめた。


「これだわ」

「これって・・・・・・」


 そこにあったのは、錆びた持ち手の付いた隠し扉。存在を知らなければ、泥や草で誰も気づかない。少し周りの雑草を取り除けば開きそうだ。


「過去に脱走しようとした男がいたって聞いたの。そいつが死んでいたのが此処。お客の軍人さんが見つけたから、物騒な館の噂が広まったんだわ。地下から地上に続く扉に挟まって死んでたって聞いたけど、本当にあるとはね」

「ここから入る、と?」

「ええ」

「気が引けますが、仕方ないっすね」


 ブチブチと雑草を引っこ抜いて、何度か扉を持ち上げてみる。思っている以上に錆びているか、雑草と泥が邪魔しているか、なかなか開かない。

 そうこうしてるうちに時間は過ぎて行くし、なんなら、館の中は騒がしくなっていた。

 6人が乱闘でも起こしたんすかね。勇気あるわぁ。


「あ、開いたわ!」


 愛子も一応、体は男なのでコンプレックスだという怪力で暫く開けられていなかった扉を開いてみせた。それから地下に続く階段を明かりもなく進む。降り切るとすぐに、上りの階段があるので登る。緊急用の脱出通路か。


 階段の上に差し替かると、また扉があった。

 今度は下から押し上げてやる。こっちは簡単に持ち上がったが、地上に出てすぐに拳銃でも向けられたら即死ですわ。愛子はそんな事考えてないんでしょうけど。怖いもの知らずっていうか、なんつうか。


「オレが先に行きますよ。危ないっすから」

「いいわよ、アタシが着いて来いって言ったんだもの」

「アンタ、"女"でしょ。顔に傷でも付いたらどうすんすか」

「・・・・・・な、なんなのだわ・・・・・・」


 側から見たら形は女。心も女。女は苦手だけど、一応そこは考慮してやらないとっすよねえ。後々になって、オレがなんもしないから顔に傷がついた! なんて言い掛かりをつけられたら、面倒だし。


 扉をそっと開けて、様子を伺う。

 人影はなく、物音もない。もう少し扉を開けて顔を出す。やはり気配はない。

 大丈夫、なんて事はないが思い切って体を部屋の中に出した。愛子も部屋に上がると、彼女はすぐに口元を覆い、充満した血の匂いに恐れ慄いた。


 赤い絨毯の上に、血。ここで誰かが殺されたかのか。それが要でない事を祈るばかりだ。

 部屋は散々荒らされて、何の部屋だったかわかりやしない。見た感じお偉いさんの部屋か?

 部屋に付けられたガラス戸は割られている。隙間から外を見ると、バビュン! と銃声が聞こえた。


 うん、ヤベェや。やっぱ来なきゃ良かったわ。

 しかも一丁じゃねえや。角田の山から聞こえて来る猟銃の音とそっくりで、おっかねえったらありゃしねえ。

 この部屋から出たら、胸をバッキュン撃たれて死ぬかもな。さすが祗候館。噂通り、期待を裏切らない物騒さだ。生きた心地がしねえなぁ。


 愛子も心底ビビってんだろうと思ったら、ちょっと怯んだくらいにして、部屋の中を物色し始めていた。

 そっと机の引き出しを引いて、何かを見つけた様だ。チャリチャリと音がする。


「鍵が沢山あるんだわ。これ全部持っていけば、要が居る部屋に辿り着くかもしれない」


 鍵はざっと見積もっても50はある。いくら広い洋館と言っってあり過ぎだ。どれがどこの鍵なんだか、見分けがつきやしねえのかい。

 それ愛子は細い指が隠れるくらいごっそり掴んで、一つも余さずに手に収めた。そうして着物の袖の中へ入れて持ち歩こうとする。俺は彼女にカバンを開いて差し出した。


「何だわよ?」

「その数を落としたらうるせえから、オレが持ちますよ。手提げに入れてりゃ持ち運びも楽でしょうに」

「あ、そうだわ、ね」


 鍵を受け取り、肩掛けカバンにぶち込んでやる。急に左肩に重みが出てた。こりゃあ、さっさと用事を済まさないと肩こりになっちまいますわ。要に合わずして要を救う。凡人にゃあ、なんの考えも浮かびませんがね。愛子も作戦なんて気の利いたものはないだろう。噂を頼りになんとかしようとしているんだ。


 その他は何か無いか、部屋を隈無く調べた。収納だけでなく、テーブルの裏や椅子の脚、壁に違和感はないか、天井に仕掛けはないかと、推理ゲームの登場人物になった気分で見て回る。


 鍵以外に手に入れたのは、顧客をまとめた帳簿と拳銃一丁。あとは金目のありそうなものがゴロゴロ出てきた。まとめて質に入れれば、とんでもねえ金額だ。慎ましく生きてるのが馬鹿馬鹿しいねえ。

 拳銃は愛子に見られないようにそっと手提げに入れた。帳簿は、「啄木」が来ていないかだけ確認しただけで、訪問の記録が無いとわかれば、これまたセンスの良い血飛沫柄のテーブルの上に投げ置いた。


 さて、この部屋に用はない。と、なれば。


「この部屋から出るのは確定なんでしょうけど、気が進まねぇっすわ。本当に行くんすか?」

「ここまで来て、戻れないのだわ」


 愛子の目は目力がある。化粧で余計にそう見える。目の奥は、おっかねえって言ってんのに、誤魔化すのがお上手で。

 血の繋がったオレがこうでなきゃいけないのにねえ。確かにここまで来たら引き下がれない。諦めて、助かるまで見届けるか。

 首に巻いた灰みがかった黄色のマフラーを外し、愛子に投げた。彼女の腕にかかると、案の定キョトンとされる。


「これ、首に巻いとくと良いっすよ。俺も顔がいい自覚がありますが、あんたこそ売られちまうよ。喉についてる山、隠した方がいいっす。ここの男娼とか、嫌っしょ」

「ありが、と、なんだわ・・・・・・」


 愛子は少し顔を赤くして、それを隠すようにマフラーを急いで巻いた。巻きったのを確認すれば、行くしかないかと、覚悟する。

 まずは割れたガラス扉を潜った。ああ、出ちまった。もうこっからは何があってもおかしくない。



「要! 要ってば」


 羊羹の廊下を走る最中、僕を呼ぶ声が聞こえた。

 走るのをやめて立ち止まって振り返ってみると、どうやら中也さんが僕を追いかけて来たらしい。


「なんで来たんですか!」


 唯一怪我の少ないこの人まで何かあれば、ますます下山が困難になる。

 僕だって見た目に傷は少ないけれど、結構無理をしている。あの部屋に閉じ込められていたせいで、碌に体を動かしていなかったから筋肉は衰えている。

 

 ましてや撫子を抱き抱えて全力で走った後だ。急に動いたから頭がガンガン痛むし、胸も痛い。今何かあったとしても、中也さんや吉次達を守れる自信がない。


「戻って早くしゅーさん達と逃げないと・・・・・・」


 彼に早く避難するよう促した。救えるなら今のうちに。

すると中也さんは、お決まりのムッとした顔を僕の顔面に近づけてくる。


「あのさあ! 俺達は要を助けに来たんだよ! なのに助け出した途端にすぐ一人で飛び出して・・・・・・死に急ぐな!」


 こんな時にクドクドとお説教が始まったよ。そう、御決まりの顔は中也さんの怒ったような、必死な顔。喧嘩したあの日のように、僕を心配してくれる顔だ。


 だけど、このタイミングでのお説教はあまり聞く気になれないでいた。

 駆け足気味で待ちきれない。お説教している場合じゃないと言いたいが、そんな隙を与えてくれない。

 

 視線だけを自由に見える範囲で走らせていると、中也さんの背中越しにバケツが2つ見えた。話しを聞かずに横を通り、ソレに近づく。中には茶色の濁った水がバケツの縁スレスレに溜まっていた。

 平成に居た時に見た映画やドラマ、アニメとかじゃあ、よくバケツの水を被って火の中に突っ込んで行くのがあるが、あれは本当に効果があるんだろうか?


 まあいいや。こんな所にあるんだから、頭から被れって事だろう!


「まあ、そいうところが、す――」


 見た目より重たいバケツの持ち手を握り「中也さん!」と名前を言ってすぐ、「ごめん!」と言う。それを何か言い掛けた彼へ茶色の水をぶっかけてやった。


 彼は顔に付いた水滴を左手で拭い、飲んでしまったのか、酷く咽せては唾を何度も吐いた。何をされたのだか状況が掴めないといった顔。背広も髪もビシャビシャだ。


「え・・・・・・?」


 眉を八の字にする。

 僕も同じようにバケツの水を被って見せ、酷い臭いと刺すような冷たさに顔を歪ませては肩から上を何度も振るわせた。

 僕も同じになりましたよ、と彼を見れば、意味不明な行動をする僕を裏切られたような目で見ている。そんな目しないで。


「ええっと、見様見真似の火傷対策、的な奴・・・・・・」

「あ、ああ、そう・・・・・・最初にさぁ・・・・・・なんか言って・・・・・・?」

「すいません・・・・・・」


 謝っても、眉間のシワは取れないでいる。そういえば中也さんと喧嘩別れをしてたや。それに対して謝ってもないし、ほんの数分前、あんなに暗闇にいるように悩んでいたっていうのに、まあ僕ったら、平気で何にもないようにする。


 こんな状況でも、「ごめんなさい」と「ありがとう」の2言を言うくらいの時間ならあるだろう。

 万が一、ここで望まない死を迎えてしまったら、それこそ後悔する。「あの」と切り出すと彼は裏切られたような目をやめた。


「全く、相変わらず雑だね」


 今度は愛情に満ちた目で僕を見てくれる。許してもらえたんだと、心が穏やかになった。テヘヘと照れ臭そうに笑いあって鼻の下を伸ばしたりして。

 好きすぎて煙でそう。ほら、めちゃめちゃ煙くさいし。あ、いけね、この建物燃えてんだったわ。我に変えると、遠くから僕を呼ぶ声が聞こえて来る。


「要さあん! 中也さあん!」

「よかった! 無事だったんですね!」


 その声もまた久々に聞いたもの。じんわりと体中がポカポカと温かくて、生姜でも食べたみたいに冷えた体も満たされていく。


「吉次! 先生!」


 一階を無我夢中で一直線に来てよかった。

 彼らの後ろに黒い煙が見え始めると、宇賀神親子も慌てた様子でこちらに走って来ていた。

 それから2人と一緒に、先生の手に握られたロープを首輪のように繋がれた男もいる。

 黒髪がサラサラ靡いていて、遠目で見れば美男子だけど、その姿はまるで犬だ。


「よかったですぅ! 今回ばっかりはダメかと・・・・・・あー! もしかして、こんな館でも助けられちゃう乗って、これってこれって愛の力ってやつですか!? きゃー!」


 吉次が何故か寝起きのような顔で両手を握り、それを上下にブンブン振る。大胆な握手をしてくるのは、どっかの誰かに似ている気がするぞ。


「吉次、お前、薫に似て来たな」


 あのマンドラゴラが2人に増えた。家に呼んだらどっかの魔法学校みたいな感じになるぞ、しかし、吉次や男の存在より度肝を抜かれたのは痛々しい先生の顔面だ。


「え、せ、センセ、その目・・・・・・」


 右目は青黒くなって、白眼は血で滲んで居る。 グロい。   

 綺麗な色白の肌色。美しい顔立ちに似つかわしく無い、痛いしい傷痕に目を逸らした。

 その怪我を見た僕も右目を押さえて「いてて」という。痛いの感染った。絶対に感染った。


 先生はそんなのお構いなしに男を掌で指し、紹介しますねと微笑む。


「こちら顔だけ良し子のボンボン系クソカナヅチ野郎にやられちゃいました。下手な真似をしたら刺すって言ってますから、触っても噛みませんよ。ほぉら、さっき約束した事を言ってご覧なさい」


 まるで犬のように首にロープを繋げられた男は、前歯が欠けて顔が殴られた後の様に腫れあがっている。その横で楽しんでロープを引き、その度に怯える男の表情を見てウフフと女神のふりをした悪魔の顔で笑うのだ。


「うっ、宇賀神さん達には逆らいません! なななな、何かあれば剣となり盾となり、お二人を含めたお仲間をお守りする所存です!」

「よく言えました! また一つ人間に戻れましたねぇ」


 犬を褒めるように男の顎をよしよし、と撫でる。

 いやマジで犬じゃん。そりゃあ男も何も言えなくて、顰め面に見える。

 プライドとか大丈夫? 崩れてない? ズタズタにされていたとして、それは再建可能ですか?


「どういうプレイ・・・・・・」


 思わず顔が引き攣る。先生は何食わぬ顔で未だに柔かな表情を絶やさない。


「悪人も飼い慣らせば便利かと思いまして。それより、この館燃えてますよね? 逃げようにもどの窓も鉄格子だらけで、どうやら裏口と正面玄関以外の出入り口は無いみたいなんです」

「ただの檻じゃんか」


 こんなだだっ広い館に出入り口が2つだけ。

 しかも一つは危険過ぎて使い物になりやしない。性格の悪い館だ。

 窓は全てに鉄格子がつけられて、外からも見えたカーテンは館の中にもしてある。やっぱり、高価な布はそれを隠すための物だったのだ。しかし、此処は犯罪者がうじゃうじゃいる、言わば豪華な監獄。山奥といえど、客を取るなら中は見えない方がいい。


 性に配慮はするが、生には責任を問わない。強い奴からは金を取り、弱い奴から命を奪る。

 とことんクソみたいな屋敷だ。さっさと燃えちまえ。


「裏口はあるけど、すぐ崖なので危険だしね。まあ、僕も此処から出してもらえる事なんか無かったから詳しく知らないけどさ」

「というか僕たち、玄関の場所も忘れてしまって、いずれにしろ出口がわからないんですよね」

「広いもんな。俺も忘れたわ」


 皆、正面玄関の場所も分からずじまい。そうした凝った。谷口という男は、出口はあっちだと僕が来た方を指差した。確かにあった気がするが最初に来たときとはえらく変わってしまった。


「信じますからね」


 先生は男に一声かける。谷口は「死にたくないんだよ」と必死に言う。

 中也さんは嘘をついているのかもしれないと信じていないようだったが、その必要もなくなった。


「おい! 急げ! 死ぬぞ!」


 文人が反対側の通路から危機を知らせに顔をひょっこりと出している。確かに奥に見える階段から、オレンジ色の火が迫って来ていた。


 揃いも揃って、出口を目指して廊下を一目散に走る。

突っ立って立ち話なんかしてるうちに火は確かに館を焼き尽くす気でいるらしい。

 天井からパラパラと木屑や煤が落ちて来始めていて、肌に触れようものなら、ピリっと痛い。


 外の冷気が感じられるようになったから、出口が近い。このまま突っ切ろうとすると、何かにつまづいた。転びはしなかった。何がそうさせたのかと、足元を見ると、黒い法被の死体が絨毯のように何体も転がっている。

 それを吉次や中也さんはポンポンと、飛んだり避けたりしながら上手く進んでいく。


 先生も目を怪我しているのに動じない素振り。谷口も同様だ。


「要さん、早く!」

「うん」


 言われなくてもわかっているんだよ。だって、燃え盛る炎はそこまで来ている。

 あれに飲まれたら大火傷では済まないし、きっと火だるまになるだろう。だから早く来いと急かされるのも承知の上だ。


 僕は、この死体の山を簡単に超えては行けない。


 先に進んだ4人は超えられた、名も知らぬ屍達の群を。このh人たちは僕1人のせいで散った命なんだ。ここに来なければ、途切れることのなかった息を「僕のせいで」止めてしまった。だから、尚のこと超えられない。例えそれが犯罪者だろうが、なんだろうが、命は命。


 この人達の死ぬ理由が自分だと思えば思うほど、母さんの「死ね、死ね」と繰り返す声が頭の中で聞こえて来る。 すぐ側でそう言われているような感覚。


 こんな時に、また海馬は過去を思い出して、頭の中でその時を再生する。冷たい海に飲み込まれたあの日を。ちゃんとは思い出せないけれど、僕の一言で何人かが亡くなったことのかもしれない。

 そして母さんは、いつだったか、「死ぬのが怖いなら、人がたくさん死んだ時に死になさい。そうすれば、仕方の無かった悲劇で終われるから」と耳打ちしてきたことを。


 どれだけ強い心を持とうとしても、母さんが僕の足の裏を床にびったりくっつけてくる。

 足の甲に釘打ちされて離さない。生みの親に生を否定された事を一度思い出すと、言葉の鎖はもう足首に巻き付いて離れてくれない。


 動かない足に、背中に感じる業火。

 一階にまで燃え広がった火は柱を倒して、大きな振り時計もその形を徐々に無くしていく。

 この館の時間は止まったじゃあ、僕もやっぱり此処で死ぬ?


 母さんが「さあ、早く死になさい」と艶めかしい声で呪う。


「死にたくない!」


 手を伸ばし腹から助けを叫べば、母さんの声は無くなった。

 母さんは昭和の僕には勝てないんだ。確かに足が張り付いて動けないけれど、僕はとっても図うずしいから、助けに来てくれる人を疑わずに信じたいんだ。母さんは知らないたくさんの愛を知っているから、僕は安心して立ち止まれるんだよ。


「お前に死なれちゃ困るんだよ!」


 この人は何度だって手を取ってくれる。僕の人生を支えてくれた、死にたがりが僕に息おって言うんだよ。


「ありがとう」


 しゅーさんが力強く僕の手を引くと、僕が立っていたその場所に2階の床が大きな音を立てて落ちてきた。

 僕らが外に出た瞬間に、格好だけ豪華だった洋館は跡形もなく火を大きくするだけの薪となるだけだ。恐れられた噂も消える。あるかどうかもわからない都市伝説となって、面白おかしく語り継がれていくんだろう。


 それから全員で山を降りた。背中に火傷をおっただけの僕は撫子を支えて歩き、無傷の中也さんは先頭でぬかるんだ足場を確かめる。


 僕は見慣れた顔の中にもう1人気がかりな人を探す。


「富名腰さんは?」

「あいつなら最後の仕事があるって言って、どっか言ったよ。あいつもあの館の人間だからな・・・・・・どうなったかは知らないね」

「そっか・・・・・・」


 富名腰さんは優しい人だった。あの館の人でも、確かに僕の味方でいてくれた。

 だから無事でいて欲しい。ちゃんとお礼を言いたかった。けど、彼を探すために戻ったらまたみんなに迷惑をかけるだろう。やるせない気持ちに、思わずため息が漏れた。

 すると、後ろから「ガーゼ」と何度も誰かを呼ぶ声が聞こえる。

「僕のこと?」と振り返ると、谷口が呼んでいた。


「お前以外に誰がいるんだよ」

「撫子や勝もガーゼをつけてるので」


 しかもこの人と初めましてだし、僕が呼ばれているなんて思わないよ。捕まってるくせに態度もでかい。しかしようがあると言われたら気になるので、なんですかと問う。


「火災で死ぬような玉じゃないよ。僕は富名腰のこと嫌いだけど、そう思うね。死んでくれた方がせいせいするなあ」

「あら、要さんの心配ですか? クソ野郎でもいいとこありますね。それとも少しでも罪を軽くして欲しいから媚び売りですか?」

「貴方が言えって言ったんだろう! はーあ、カナヅチがあればすぐさま逃げ出してやるのにさあ」


 谷口がそうほざくと、先生が無言に笑顔で首のロープをキュッと締める。

 それを見た文人が笑うから、吉次もつられる。安心したから、簡単に笑みが溢れるんだ。

 色々思い出してしまった僕は、これから今まで通りに過ごして行けるのかな。


 雨上がりの抜かるんだ道はとても歩きにくい。夜は開け始め、空は薄らと明るくなり始めていた。

 久々に見上げる大きな空。悩んでも、自由を取り戻したのだからなんとかなるさ。


 だって僕は、今を確かに生きている。




 さっき銃声が聞こえたのは、正面玄関があるの本館の方だろう。ならそっちへは行かない。この建物に人の気配はないし、おそらく本館の騒ぎが厄介でもぬけの殻になってんのすかね。


 廊下にずっと出ていたら危険だ。どこに何があるかなんてわからないから、とりあえず集権の小部屋を見て回る。 


 鍵はかかっていたり、いなかったり。しらみ潰しに部屋を確かめて、次に行く。別館の2階は誰かの寝室があるだけで、他は何もなかった。加齢臭がぷんぷんして気分が悪い。匂いがきつくてあそこはよく調べなかったが、特に何もないだろう。


 かと言って、一階にも何もない。やっぱり本館か。

 愛子も「きっとあっちだわ」と向こうに続く廊下を指さしてそう言い始めるし、覚悟の上にさらに覚悟を重ねないといけないなんて。

 オレはノートが欲しいだけなのに、ここまでする意味ってありますかねえ。ないんすよ。


 廊下を渡れば別世界。小さな歩幅で廊下を歩く。すると、どうだろう。オレ達がいなくなったのを確認して出てきたように、外人みたいに太った親父が小部屋から大きな袋を抱えてえてきた。ここの客の辺りだろうか。酷い汗をかいている。


「オヤジさん、ここにいたら危ねえっすよ?」

「ひっ!」


 たまらず廊下から声をかけた。なんの罪もない一般人なら心細いだろう。

 一旦本館を目指すのはやめて、親父に近づいた。騒ぎに巻き込まれて憔悴しているのか、ガタガタ震えている。


「大丈夫すか? あっちで何があるか教えてもらいたいんすけど」

「お、お前らがッ・・・・・・!」


 親父は袋を見せないようにする。そんなに大事そうにするってことは、おそらく金だ。

 震えてるくせに人を恨む目をする。初対面の相手にこんな態度とりますかねえ。


「お前らがメチャクチャにしたんだロウがアッ!」 


 この肉達磨が吠えたと同時に出てきたのは小型ナイフ。持ち手は肉肉しい手に埋もれていて見えない。もしかしてなんすけど、この方はオレらを太宰一行の一部だとでも思ってんのか。はあ、なるほどね。ならその目の理由も納得がいくわ。


「アタシ達はなんもしてないんだわよ! 勘違いしないで頂戴!」

「私の屋敷を荒らしておいて勘違いだぁ!? もうここでは金にならない! どうしてくれるんだ! 少しでも私に近づけば刺し殺してやる!」

「なんなのだわ!」


 やっぱりな。この肉達磨、ここの主人だ。体の贅肉が富の象徴と言ったら皮肉になっちまいますかね。愛子が太宰らとは違うと説明しても納得しないのは、ただの客人ではないから。

 こそこそ隠れていた理由は、その抱えた袋の中を取られまいと従業員や奥あくまでそっちのけで、自分だけ助かろうとしていたからだ。

そしてその確信はきちんとした事実として明らかになった。


「・・・・・・ん? お前、もしやあの愛子か!? ああ、よかった! 私もまだ捨てたもんじゃなかったよ! お前、私と一緒に来い!」

「嫌よ! 誰だかもわからない人と一緒なんて! ここで満たされなかったなら、浅草や上野に行けば娼婦はたくさんいるわ!」

「娼婦より男娼! 私はこれで儲けてきたんだ! 普通の行為じゃ足らなくなった金持ちがわんさか集まる場所を作れば儲かるんだ。なあ、愛子、お前もそっちの気だろ? 好きなだけ良くなれるし、金も稼げる。なおさらぱっと見は女で見破れないと噂のお前がいれば額は上がる! ここで会ったのは神のお導きだ、やはりそういうツキがあるんだよ!」


 この界隈じゃ愛子は有名人か。この状況でスカウトができる図太さがあるなんて、もうこの館は切り捨てたんだな。


「ってことは、要を欲したのもアンタかい?」

「要? あぁ、あのガキか。あれは惜しいが、こんな騒ぎになったらあんなのどうでもいいよ。傷だらけでみっともない。とんだ疫病神だったよ! 愛子と、そうだな、お前さんも男娼になれば売れそうだ。お前さんらがいたら、あのガキで手に入れるはずだった金額なんかあっと言う間に元がとれるだろう!」


 自分のことばっかりで笑わせるのも大概にしろって感じですわ。他人の命はゴミみたいな扱いで、まるでオレの母親と一緒だ。大人は歳を重ねると人を見下すようになるのかねえ。みっともないのはどっちなんだか。

 メリットをダラダラ話してくるが、それいいな! と思うことはひとつもない。

 金があっても外に出されねえなら紙も同然すよ。


「せっかくのお誘いですが、オレ、ブラック企業には勤めたくねえんすよ。田舎で咳に悩まず土を弄って、猪狩ったりしてる方が好きなんすわ」


 顔がいいから誘われる。それはわかる。平成じゃこの顔を商売道具にしていたんだ。

 でもなんつうか、顔で寄ってくるやつほどゲスで空っぽなんだよなあ。


「貧乏人なら尚のこと金が欲しいはずだろ?素直になれよ! いくら、いくら欲しい!? あのガキは800円ちょいで買ったから、その倍までなら出そう! しかし、なんであんなのを買っちまったかな、ああ勿体無い勿体無い! 価値のないゴミに金払ったようなもんだ!」


 ほらみろ。要をゴミだって言いやがった。この親父が言葉を吐くたびに母親とダブって見えて仕方ねえ。平成では失敗したけど、この時代のはうまくやれそうな気がしますわ。

 手提げに手をそっと入れて、さっき物にした拳銃を握る。子供の頃にエアガンで遊んでいた。まあまあ上手かった方だ。


 ゲロみたいに与太話を吐く口に、拳銃を突っ込んでろうかな。きっと小便ちびって助けてくれって抜かすんだろうよ。ちっとビビらせるくらいならしてもいいすかねえ。


「んグゥッ!」

「学!?」


 とか考えているうちに、そうしてるんすけどね。右肩に足をかけて、壁に体を押し付け、口に銃口突っ込んで。わずかな隙間からクッセェ唾液をダラダラ垂らして涙目でねぇか。

 母親にもこうしてやりたかったなあ。こう言う奴がいるから苦しむ人間がいるんだよ。

 自分の好き勝手で他人の人生ブンブン振り回して、のうのうと生きている。


 そのせいで俺は――俺達は――!


「おっかねえべ? 苦しいべ? んだべなぁ、オメは知ゃねもんなぁ。オメの贅肉のために犠牲になった人らの気持ちなんて。んだからオレが教えてけるよ」


 この引き金を引いてもいいと思ってる。要がどんなことをされたか知らないが、ゴミ扱いしただけで許せない。ここに来たくないと思っていたが、心変わりしたよ。憎い母親にダブって見えるこいつを殺せば、オレの奥底にある感情は少し解消されるはずなんだ。人差し指を動かせば、少しは救われる――。


「学! よして!」


 愛子は体を突き倒してきた。体制が崩れると、手から離れた拳銃は親父の口内に残したまま。畜生、あと少しだったのに!


「邪魔すんな!」

「だめだわ! アンタに人の道を外れてほしくないんだわよ! このオジサンを殺しても、要は数えないんだわ!」


 この手に拳銃を握らせないように手首を掴んで、体にのしかかってくる。

 必死にそうされちゃあ、同じこと出来ねえじゃねえですか。人の道を外れるなんて言われても、人の道を外れた人の子供であること自体“恥ずかしい”ことだって言うのに。

いつも失敗ばっかで嫌んなりますよ。本当。やっぱ大将のところに帰るんだった。ノートとか、別になかったって言えばいいだけの話すからね。


 だけど、弟のように可愛がってきた大将の喜んだ顔が見たくて――。

 妹には出来なかったことを、大将にやってやりたくて――。

 妹から父親を奪ったのはオレだから、せめて元凶を潰すぐらいの罪滅ぼしはしたかったのに。オレは“また負けたんだ“。反覆する度に負ける。今までも勝つことなんかなかった。ナスタチウムの花をもらったって、オレが“困難に打ち勝つ“ことなんつうこは無理なんだよ。


「・・・・・・マジ救えねえっすわ」


 自分の無力さに打ちひしがれた。腕で視界を覆うと、コツコツと足音がする。その音は、オレの頭上で止まった。


「せやねぇ、旦那はん殺したかて、要チャンをすっかりは救えへんねぇ」


 そいつは要の名前を言うので、腕を除けて姿を見る。知らない男だ。黒い法被を着てるから、正面玄関にいた奴らの仲間だと思う。さっさと起きて逃げなきゃいけないのに、不甲斐なさに無気力になってどうでも良くなっている。


「富名腰! あ、あ・・・・・・よかった、私を助けに来てくれたんだろう! よかった! やはりお前は私の忠実な人形だよ! 私は今殺されかけてね、思いっきり締めてくれ!」


 親父は興奮して、その富名腰とやらにオレ達を殺すように言って聞かせた。どうせ逃げ出そうたって、男の手にあるそれからは逃げられない。

 猪狩りで使う物とほぼ同じ猟銃が握られているじゃんか。それで打たれたら痛いどころじゃ済まなさそうですけど、すぐに死ねるかもしれないんでいいかもしれませんわ。愛子には悪いが、ここで一緒にお陀仏してもらうしかない。


「旦那はん、ほんまにここまで強うしてくれはっておおきに。でも、もう要らんのよ」

「は・・・・・・」

「死じくぃみそーれ」


 関西の方言を使う男は、一言、どこの言葉かわからないセリフを吐いた。オレ達にその銃口を向けることはしない。

 主人の元へ向かうと、禿頭に銃口を当てたら、すぐに無慈悲な重くも鋭い一発が発された。

 それに足して何かが液体を共なって、人間の赤色が外に素早く飛び散った。


 漆喰の壁が赤い血飛沫で模様がついている。さっきまで喚いていた親父の声は聞こえない。

 だらんと力の抜けた肉の塊が眠りにつくように横に倒れて、さらに血がどろりと溢れだ済んだ。

 自分が殺したわけではないのに、やってやったと嬉しくなった。その途端、急に気管がが苦しくなって、ひどく咳こむ。煙たい、なんなんだ。それは喘息持ちのオレだけじゃなく、愛子も同様だ。


「息苦しい・・・・・・ゲホッ」

「火事になっとるからなぁ。お姉サン、肩貸してくれへん? ボクも一応怪我人なんでね」


 しれっととんでもない事言ったっすよね。火事?何で今まで気づかなかったんだ。言われてみれば熱いし、とても焦げ臭い。本館の方を見ると、まるでキャンプファイヤーのように天井まで溢れた炎が差し迫っている。


「アンタなんなんだわよッ・・・・・・」

「お外に出たら話ますわ。今は逃げまひょ」


 この男を信じようがそうしなかろうが、まずは身の安全が最優先だ。喘息も相まって自力で立ち上がれない程咳き込んだオレは2人に肩を借りて、急いで隠し扉の中へ滑り込んだ。富名腰は「ここを知っとるなんて、えらい調べて来はったんやね」と感心してますが、全部噂を信じただけなんすよね。


 外に出ると館は酷く燃えていた。屋根も黒い煙を立てて、崩れ落ちる


 洋館の中で基調とされていた赤が、意思を持ったようにメラメラ燃えている。ここにあった記憶を全て焼き尽くして、なかったようにしてしまう。けど、それでいいんだ。

 誰かにとって存在するだけで生きるのさえ苦しくなってしまうような場所は消えたほうがいい。


「要や太宰は!」


 肝心の奴らはどうなったろう。まさか中に取り残されているんじゃないかと冷や汗を掻いた。結局ここにきただけで何もしていない。焦燥感に駆られて、どうしようもない。持病が原因か急からか、激しく呼吸が乱れる。

 愛子が背中を摩ってくれると、富名腰は正面玄関の方を見てみろと微笑んだ。


「ちゃんと助かっとるよ」


 視線の先に、小さく複数人の影が見えた。その中の1人がきっと要だ。

 あの子が中学生の頃にあったのが最後だから、どの影かはわからないが、きっとあの茶髪がそうだろう。


「はあ」


 安心すると、力がまた抜けた。本格的に歩けねえ。肺が潰れちまったんじゃねえかって、胸を何度も摩って酸素を欲しがる。医者に連れてってくれと愛子に頼んだ。


「富名腰さんだっけ。アンタも手を貸してくれない? アタシ1人じゃ学を担げないのだわ」

「ええけど、お客サンここには要チャンを助けに来はったん?」

「そうだわよ。学の妹なんだって」

「ばか、言いふらす、な」

「要チャンの、お兄チャン・・・・・・?」


 また2人に肩を借りながら下山をする。このあとの要は、今度こそ大丈夫だ。

 要は1人寂しく飯を食うことはないだろうし、冷えたベニヤ板の上でブルブル震えて眠ることも。この時代に来たことで無縁になったんだ。


 泥濘んだ道を降りつつ、富名腰から色々聞いた。要の世話係であったことや、彼女が平成での記憶を断片的にしか思い出せていないこと、思い出した記憶によって苦しんでいること、生きたいと死にたいの間で何度も迷っていること。

 要はオレのことを覚えていないようで、他の人の兄貴にされたことは思い出しちまったらしい。よりによってそっちを思い出してしまうとは。そのことを聞いているから、富名腰はオレが要とそういうことをしようとわざわざ祗候館に来たのではないかと疑っているらしい。


「ご心配なく。オレは犯してねえっすよ。そう言っても信じねえでしょうけど。ゴホッ」

「せやねえ。まるっきり信じるのは無理やけど、それはお互いちゃいます? ボクかてあの館にいたわけですし、目の前で人を殺しとる。要チャンのことかて、ほんまかわからんよ」

「アンタの言ったことは事実だ。要のことを守ってくれてありがとう。過去のことは誰にも言わねえでやってくれねえすか?」

「言わんよ。ボクが彼女と関わることはないどすから。ほんま、ええ子やったわ」


 少しでも過去が他の誰かに知れたら、また変なやつに狙われてしまう可能性がある。富名腰はニッコリ笑って、誰にも言わないと誓ってくれた。

 一月近く要と過ごしたこの男は、もうすっかり彼女を気に入ったようだ。あの肉達磨を殺したのは、忘れた頃に要を狙って際に来るかも知れないと考えたからだという。そう話す顔は真剣そのもの。

 もしかしたら、要に気があるのかも知れない。


「この後、アンタどうする気なんだわよ。もう行く場所ないんだわよね」

「せやね、その太宰さんのお家にこのお金を置きに行ったら、なんしようかなぁ」


 もしもその気があるのなら妹を傷つけたりすることはないだろう。

 要のために人を殺す覚悟があるような奴だし、過去すら受け入れられる器を持っている。おまけに行く所がねえって言っている。さて、どうすっかなあ。


 オレは要に会えないが、安心して暮らしてほしいと思ってる。金を渡せば食い物の心配は要らない。事実、太宰に入館のために揃えた1000円を返金しに行くと言うのなら、その中にはオレの50円も入っている。

 しかし、食い物よりも心身が心配だ。いや、よおく考えるんだ。早まって口走ったらまた地獄になるかも知れねえ。


 1人悶々と、妹がどうしたら安心して生きていけるか考えていた。

 上野の町に降りて医者に連れていかれ、咳止めをもらっても考えた。咳は落ち着いたので、このまま、今度こそ大将の元へ帰るつもりでいる。上野駅の構内まで来てもまだ決められない。愛子は帰ることをわかっているので、約束のノートと貸していたマフラーを手渡してきた。


「ありがとうなんだわ。結局何もでき無かったけど、助けられて本当によかった」

「いいえ。オレの方こそどうも」

「また会いましょう。今度はアタシが会いに行くんだわ」

「なんもねえ田舎に来たって楽しくないっすよ?」

「学に会いに行くんだもの、何もなくていいのだわ」


 愛子は指で髪の毛をくるくる絡めて照れ臭そうにする。オレが東京に来ることはもう無い。喘息の発作は酷くなるし、やっぱり要に会うのがなあ。兄としての心配と、1人の人間としての心の痛みを優先順位を天秤にかけた時、どうしても痛いが勝つ。

 よし決めた。オレは妹の安全を賭けてみようと思う。


「そういや50円」

「あぁ、返しますわ」


 太宰にあげた金を返すと言われた。しかし、あれはもうあげたものだからオレの金ではない。富名腰があの親父が大事に抱えていた袋から金を出そうとする腕を掴み、静かに首を振った。


「アンタに頼みがあるんすけど」と、富名腰の返事を待たずに話を進めた。


「この金を託すから、もしも要が本当に困った時にこの金で使ってくんねすか。出来れば、近くにいて守ってやって欲しいんだ。図々しくて不躾なのはわかってるんすけど、お願いできねえすかね・・・・・・」

「えらい信頼されとるなあ。そこまでボクを信頼する理由はなんなん?」

「・・・・・・いや、その。間違ってたらすいませんね。アンタ、要のこと気に入ってるみたいだから。過去を聞いても引いてないし、あの洋館にいたのに金まで返そうとして、誠実っつうか。その、女として大事にしてくれるかなと思ったんすけど」


 一方的な要求をしすぎた。勘違いなら、大恥だ。数秒の沈黙の後、富名腰は静かに笑い出し、涙まで垂らす。なんも面白えこと言ってないんすけどね。


「あはは! 要チャンの周りは疑うっちゅこと知らへん人多いんやねえ。ええよ、お兄さんの言う通り、ボクは要チャンのことを特別気に入っとるから、喜んでお受けいたしますわ。なんなら、この金を渡す代わりに候させてくれぇ、言えばええだけですからね」

「あ、あ、ありがとうございます! 妹を頼みます!」

「畏まらんでもええよ。むしろ感謝したいくらいやわ」


 快く了解してくれたことに安堵した。感謝したいと言うのは、彼女の近くに入れる理由を作ったことに対してか。

駅の事務所で紙とペンを借りて、住所を書いて手渡す。


 愛子も要とは何度か話したことがあると言うので、何かあれば報告すると言って連絡先を交換した。「嬉しい」と二度三度言うのがやけに女っぽくて、もしやと勘が働いた。スルーさせていただきますけどね。オレは別段、興味がないんで。どうせ顔だけだ。


 さて、約束として、毎月富名腰宛に手間賃を送り、互いの状況を報告し合うことで要の安全を保証してもらう。手間賃はいらないと言われたものの、形で見える約束もないと心許ないから、強引に約束に取り加えた。さらにオレの存在を匂わせないこと、四十九院家の話からは極力遠ざけることも約束してもらった。過去ではなく、今を生きてほしい。

 接触しないと誓っても、やはり心配であれやこれやと約束したくなるんすわ。


 富名腰は要件を飲むと、要達が同居しているという白金台の家に向かって行った。朝の混雑した駅の人並みに消える。


「なんだかんだ言って、アンタお兄さんしてるのだわ」

「出来てねえよ。本当の兄ちゃんなら、近くにいて守ってやるのが普通さ」

「十分よ」

「血が繋がってるだけの兄貴名乗ってるだけっすわ。本当の兄弟になれば要を苦しめるからな」


 愛子は四十九院家のことや、オレの過去について知りたがったが、こいつは意外におしゃべりな気がして話すのはよしておこうと決めていた。誰にだって聞かれたら言うつもりありやせんがね。列車を待つ間にいろんな質問をしてくるが、何にも答えないのに痺れを切らして、再び膨れ面だ。


「んもうケチ! その髪についてるの、女っぽくてみっともないんだわ!」


 髪についているのといえばこのヘアピンのこと。緑色で、確かに男がつけるには派手だし可愛すぎる。しかしこれは外せない。これが一番の宝物なんだから、愛子に価値などわかる訳がないんすよねえ。


「これ高いんすよ? 一本10万円。2本で20万円。体から離したら泥棒に持ってかれますわ」

「そうは見えないんだわ。でも、高価なものなら付けておくしかないんだわねえ・・・・・・」


 愛子は腑に落ちない様子だ。こんなの平成で1円で売ってたって買わねえよ。

 じゃあなんで大事かって? このヘアピンは要から買ったものだからなんすわ。

 中学卒業を間近に控えた要に、女川に帰れと生活費に20万円を渡したときに得た物だ。


 その金は、高校に行かせて貰えない要にために、年齢を偽って高校からボーイズバーで働いて貯めた金。要とは5歳が離れているから、20歳になった瞬間に保証人の要らない女川町のアパートをオレ名義で借りて住まわせることを高一から決めていた。

 四十九院の家から、出すにはそうするしかなかった。お金はもらえないと渋る彼女に「ならそのヘアピンを売ってくれよ」と言って、金を握らせて仙台から逃したわけで。


 家を出て行く時にてっきり喜んでくれんのかと思ったら、悲しそうな顔をして鼻息は泣きそうな感じで飛び出してったの忘れられねえや。オレ、間違ってたのかな。

だから捨てられないし、体から離せない。


 北行きの列車が到着すると、愛子に別れを告げる。愛子は走り出してからも目一杯手を振ってくれた。手紙でのやり取りもあるので、名残惜しくもなんともない。

 今は東北の空気で体内をを浄化させて、新鮮な空気が吸いたいと思うだけだ。


 これからの長旅に、カバンに入れた啄木のノートを読んでみようとカバンに手を入れると気づいちまった。


「んなっ・・・・・・石川“豚”木って書いてねえか!?」


 ノートの表紙には堂々と石川啄木ではない名前が書かれている。本人が書いたものなら、生を間違えるはずもない。慌ててノートを広げるとその一ページずつに、愛子の字が書かれている。

 石川啄木のノートではなく、愛子とオレが過ごした一月分の出来事が描かれた日記じゃねえすか! 他にも愛子のこれまでのことや、なぜ女性として生きるようになったかなど、取扱説明書みたいに書かれている。


「嵌められた・・・・・・」


 1人で肩を落とす。“大将”にごしゃがれっぺなあ、と。

赤、オレンジ、黄色の花色に小さな葉を持つナスタチウムの花言葉は「勝利」「困難に打ち勝つ」「忠誠心」。理解しようにも、邪魔ばっか入って上手くいかねえっすわ。


 ――東京を出て3日後、“大将”のいる宮城県角田町に帰郷した。

久々の澄んだ空気は肺にとって何よりもいい薬になり、体調もすっかり良くなった。


 隣に住んでいる“大将”の家に帰ってきたと伝えようか迷って、結局疲れが溜まっているから、一睡してからにしようと通り過ぎる。が、それが良くなかった。


「学ぅ!」

「イッテぇ!」


 背中に感じる蹴りの痛み。こいつも久々だ。“大将”の飛び蹴り。容赦ねえんすわ。

当たり前に前に倒れると、今度は馬乗りでガーガー叫ぶんすよ。


「オメ! 一月もかかって、ノート見つかったんだっちゃな!?」

「いや、あのっすね、えーと、なかっ・・・・・・」

「連絡もよこさねで! ワシャァずうっと心配してたんだど!?」

「マジすんません! 色々野暮用が――」


 中学生の大将はガキ大将で喧嘩は負け知らず、成績もいいし人気もある。家族思いで優しい良い子なのに、オレにだけはまだまだ子供の一面を見せて来るのだ。

 カバンの中を物色して、ノートを開いてみちまえばもうガミガミ止まらない。


「啄木のノートでねえべや! 東京さ行って女と遊んできたのか!オメ!」

「タイショッ! 違うんだって! マジオレの話聞いて大将!」

「このおだずもっこー!」

「あーっ!」


 問答無用に卍固め。痛えのなんの、謝っても簡単には許しちゃくれねえ。


 東京の愛子と行動するのも大変だったが、石川啄木に憧れるガキ大将「菅野直」もまた扱いが大変だ。

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