107恥目 悪の貴公子対反抗期青年

 カン、カン、カン――。


 遠くもなく、近くもなく。どこかの部屋から何かを叩く音がする。それも、カナヅチで硬い物を叩くような音。高音の鋭い音が鼓膜を襲う。


「な、なんの音でしょう・・・・・・」


 怯えながら、自分の身長程の長さの薙刀を落とさぬように支え歩くだけで精一杯だ。

 さっきまで追って来ていた法被の人達はいつの間にか居なくなっている。表情の見えない黒い塊に追われたトラウマは一生ものだ。


 ――まさかこんなことになるなんて。

 花街で薫さんを守る為に走り回った時とは、比べる事が出来ない恐怖。心臓の鼓動が早すぎて、ショック死してしまいそうです。

 知らない館の中を歩くのは、一歩進む度に命を削り取られていくように感じる。出来る限り静かに歩いても今は慣れない着物と草履、薙刀のせいで転びはせずともあちこちで躓くんですから。


 カン、カン――。


 叩く音が近づいて来る。違う、僕らが近づいているのか。一歩一歩、足の裏を全てつけるように足音を立てないように進む。そしていよいよ、その音が1番大きく聞こえる場所まで来てしまったようだ。


 木製杢目が美しい重みのある洋風の扉の前。中が気になって思わず立ち止まる。


「無視、無視ですよっ」


 扉を見つめる僕にお父さんが小声で囁くと、早く先に行くようにと背中を押して来る。僕達は喧嘩をしてもどうせ勝てないだろうから、どこかへ隠れて息を潜めていた方が、中也さん達の足手纏いにならない。

 出来るだけ早く、音を立てずに扉の前から離れよう。踵から爪先まで転がすように床を蹴る。息は止めて唇をぎゅうっと噛んだ。無駄な闘いはしたくない。負け戦は確定しているようなものだから。


 扉から2人通り過ぎて安堵した瞬間、いつの間にかカナヅチの音は止んでいた。

 代わりに、キィと扉の金具が鳴る。背中に感じる生きた視線は、僕達の足を石化させてしまったんだろうか。


「お入りよ」


 艶かしい美しい男性の声。

 ゆっくり、ゆっくり、振り返る。首を動かす度にキシと、骨が鳴った。その音さえ立てたくないのに、体のどこかは必ず動いているから、抗えない。

 耳にボウッ、ボウッっと篭るようにリズムを刻みながら聞こえる心臓の音は相手に伝わっているだろうか。


「僕の芸術を見に来てくれたんだろう? 歓迎するよ。退屈してたんだ、金田に仕事を取られて――」


 男は喋る。僕はその姿に魅入られてしまった。

 透き通った肌、儚げで消えてしまいそうな美しさ。綺麗だ。触れたら壊してしまうだろう。僕は黒髪の長髪が似合う美人に弱い。男性かもしれないけど、本当に綺麗だ。


 芸術――うん、何かの作品みたいに綺麗。

 薙刀の刃を向ける気にはなれない。むしろ、その手が緩んで、男をジイッと見つめて、視線を離さないでいた。


「さっ」


 その美男子が全てを言い切る前に腕を振り上げたのに気づいたのは、何かが飛んできてからだ。


「あっ――」

「吉次!」


 声を漏らしてすぐに、体が思い切り突き飛ばされ、床に体を打ちつけた。まるで階段から落ちたような痛みに襲われる。


「ゔっあっ・・・・・・」


 先生の聞いた事のないような唸り声を聞こえた。見るのが怖い。まだ見てもいない状況を理解するのが怖くて、逃げたい。

 僕は恐る恐る、目を細くしながら顔を上げて先生を見た。


「うっ・・・・・・うわああああああ!!」


 その姿に絶叫した。

 自分の父親の右目が赤く腫れ上がり、目蓋は裂けている。僕が床に体を打ちつけた痛みなんて、たかが知れている!


「せんっ、せぇっ、目が、目が!」


 駆け寄り、まじまじと見る傷口の様はグロテスク以外の表現が見当たらないほど痛々しい。傷の手当の仕方もわからない。逃げ場もない。助けも来ない。目を覆う手を剥がしたら、どうなっているんだろう。僕は色々な状況を確認したけれど、何にせよ手当ができないんだ。


「い、いやだぁ! 死んじゃいやだぁ!」


 頭に過るのは「死」。僕を庇ってこうなったのだ。こんな時にボッとして、先生が傷ついて。情けない。先生の着物を乱れる程、死なないでと縋るしか出来ない。


「中也さん! 誰か、檀さんでも、誰でもいいから! 助けてください!」


 声が擦れるくらい叫んでも誰も来ない事はわかっている。無い物を必死に掴もうとする姿は哀れに違いない。カナヅチを投げた男はそれを見て高揚していた。


「んん・・・・・・いいね。血はもっと奔騰した方が刹那主義の僕としては嬉しいところだけど・・・・・・一瞬でなんでもない庶民が芸術品になり変わるんだ、美しい・・・・・・」


 部屋に戻り、また大きなカナヅチを手に握っていた。

 男は悩ましそうに色っぽい溜息をつく。そして何度かそれを繰り返すと、手に持ったそれを振り回し始める。次は、僕がやられる!


「カナヅチで殴るとね、人は好い声で鳴くんだよ。そして死に果てると、偽り物の彫刻には出来ない、奇形になってそれが芸術になるんだ。はぁ、嬉しい、嬉しいなぁ。これが女だったら、もっと良かったけど、キミは女のような美しさがあるね」


 男は芸術だなんだと、訳の分からない事を言うんだ。先生は確かに綺麗な顔だけど、傷を付けたら痛々しいだけで今の姿は美しくない。こんなに苦しんでいるのに、何がそう思わせるんだ!


「たに、ぐち――ですね?」


 先生は痛みを堪えるのにやっとなのに、誰かの名前を言った。僕は歯をガタガタいわせながら先生の体を精一杯支える。先生の体から力が抜けて入っている気がする。


「ああ、僕って有名人なのかい? 超人、即ちシューパーマンだからね」

「ええ・・・・・・カナヅチでわかりましたよ。悪の貴公子、谷口富士郎――数年前に捕まったはずですが、何故此処へ?」

「へえぇ、悪の貴公子か! いいね、いいね!」


 苦しむ先生と対照的に、楽しむ谷口という男。彼は先生の質問に「死ぬ間際だから、いいよ」と笑って答えた。


「僕はカナヅチで2人殺した。1人目は資産家の老婆、2人目は弟、そして三人目に殺そうとしたもう1人の弟が僕の悪行をバラした。その後捕まったさ。捕まってね、精神病院に入れられた。知ってる?精神病院ってね、家の人がいらないと思った人を檻に入れて置くところなんだよ・・・・・・その後、僕が無期懲役だって判決が下って、罪が重すぎないかなあって疑問だったんだ」


 殺人を犯した罪をまるで世間話のように軽快に笑い混じりで話す。人を殺したのに、罪が重すぎないかどうかなんて、何を言っているんだ!


「でもここの旦那が、警察に大金払って僕を出してくれた。ここでなら、女は好きなように犯していいし、むしゃくしゃしたら人を殺してもいいって言われてるんだ。恩人だよ、旦那は。普段良い生活をさせてもらってるんだから、こういうところで恩は返さないとね」

「アナタみたいな人は他にもいるんでしょうか」


 再びカナヅチを振りかざす谷口に、先生は質問をやめない。谷口は話したいのか、質問したら必ず返してくれる。


「ん? いるよ、金田に山本、富名腰ね。ああでも、富名腰は違うかな。僕、アイツ嫌いなんだよね」

「富名腰――、もしかして要さんの」

「そ! アイツはさあ、未来から来たとか訳の分からない事を言うんだよ。気持ち悪いなあ、僕よりアイツの方がよっぽど精神異常者だよ! あの性別不詳のヤツも、僕達が殺さないようにずうっと匿ってさ! 暴れたんだから殺せばよかったんだ! 頭かち割って脳みそ垂らしてりゃあよかったのさ!」


 要さんは富名腰という人に守られている、と解釈していいんだろうか? 本来なら暴れれば、こうやって犯罪者が鼠取りをするように追いかけ周してくる。それを富名腰という人が匿って生かしてくれているのかもしれない。


「そうですか・・・・・・ありがとうございます。それで、この後、アナタは僕達を殺すということでよろしいですか?」

「旦那の命令だし、それにほら、どっちも良い作品になりそうだよ。女でないのが残念だけどね」


 先生は右目を怪我しているのに、足に力を入れて、さっき自分の目を傷つけた大きなカナヅチを拾い上げた。そして僕を見ずに「吉次、逃げなさい」と突き放すような声で言う。


「嫌です! やだ、死んじゃ、僕も戦いますから!」


 なんで今更そんなこと! こういう大事な時、大人はみんな僕を逃がそうとする! しかも、先生が、お父さんが傷ついているのに「はいわかりました」で逃げる訳がないじゃないか!

 薙刀を握り、目を見開いて肩を息をした。着物は乱れているけれどそんなのどうだっていい!


「さっき言っただろ! もう忘れたのか!」


 そんな僕を見て、先生は初めて怒鳴った。普段は怒らない人だから、体がビクンと跳ねて叱られたのだと認識する。


「ごめん――ほら、さっき、吉次の安全が最優先だって、言ったよね。僕は目を怪我してしまったし、吉次より生存率が低いと思うんだ。喧嘩慣れしていない僕ら2人が野垂れ死ぬより、1人でも生きていた方がいいだろう?」

「そ、そんな事言われて言う事聞くと思いますか!? 先生が死ぬって事でしょう!?」


 先生は馬鹿だ。なら尚のこと、僕は一緒に居たい。この谷口という奴を黙らせて、一緒に文京に帰りたいんだ。


「吉次、もう一回、お父さんって呼んでくれないかい。最後に君の父親だって、噛みしめたいんだ」


 僕の言葉を無視して、先生は全てを諦めたと隠しきれない。目は口程にものを言う。その優しい微笑みの中に、悲しさと恐怖と、沢山混ざっている。


「ほらあ、呼んであげなよ」


 谷口はこの状況を面白がっていた。手を一定のリズムで叩いて囃し立てている。この男が僕達に気付かなければ、先生はこんな目に合わなかったかもしれないのに。いや、元々僕がこの男の容姿に見惚れたのが悪いんだ。


 よく見たらコイツ、別にキレイじゃない。薫さんの方がキレイだ。体のあちこち真っ白で、可愛くて、狂気的だけど愛くるしい。見惚れる相手を間違えた。

 最初は綺麗だと思ったんだよ。芸術って言うのは初見が良くて、後から合わないとか、あるんだろうか。だとしたら、谷口って言う人は随分と汚い芸術だなぁ。


「・・・・・・吉次」


 先生が涙をボロリと落とす。それを見て、体の中の何かが音を立てて壊れた。

 お父さんに「死」を選ばせた、谷口も僕自身も憎い。涙を流させてしまうくらい無力な自分が大嫌いだ。僕はいつまでたっても盾になれても、矛にはなれないのか。成長しない。


 しかし、今、確実に矛になれると思った。全身の血が沸滾るマグマのように熱を持ち始めた。確実にくっきりはっきり、視力が上がっている。ドクン、ドクンと心臓は落ち気を取り戻したのに、先程よりも熱く感じる気がする。


 力の入り方がいつもと違う。僕も知らなかった、僕の中の不可侵領域にいるようだ。信じられないくらい、攻撃的な感情なんだ。無意識に先生からカナヅチを奪い取ると、目にも止まらぬ速さで谷口に投げつけていた。

 普段の僕には考えられない命中率。谷口の顔に当たった。


 男は鼻が痛い、歯が折れたと悶え苦しんでいる。ああ、良かった。さっきお父さんがされたようにしてやった。人にやった事は必ず自分に返ってくるんだ、“お父さん“は教えてくれなかったんですか? と。


「吉次!」

「うるさいな」


 お父さんが僕を呼んだ。今は、ごめんなさい。うるさいです。叱るなら後から時間がある時にお願いします。


 こういうのを「反抗期」って言うのかな。親に歯向かうのだから、そうかな。薙刀を横に持ち、両手でしっかり握った。太腿を使って柄を持ちやすいサイズに折り、僕はついにやってしまう。

 口を元を押さえ、さっきまでの余裕は嘘のようにのたうち回る谷口。血管の浮き上がった足で腹を抑えて、心臓ギリギリに薙刀の刃を立てた。あとは押し込むだけ。人を散々殺しておきながら、僕にやめてくれと死を拒絶して叫ぶのは何故ですか?


 今の僕なら殺せる。さあ、殺ろう。お父さんを泣かせたお前を殺してやろう――!


「吉次! やめなさい! その手で薫さんを抱くつもりですか!? あなたの憧れている要さんは、人を殺す人ですか!? 違うでしょう! 要さんは、正しく人を導ける強い人でしょう!」


 胸に刃をがほんの少しだけ刺さった所で、お父さんは人を殺そうとする僕の間違いを正すために、素手で刃を握り、そのまま僕の手から取り上げた。

 谷口は殺されかけた恐怖で失禁して、抵抗も何もして来ないようだ。


 人を殺した手では、薫さんを愛せない。ここでお父さんを助けられたしても、薫さんも泣かせてしまうだろう。


 それから、要さん。要さんはどうしますか。

 もし修治さんが殺されそうになった時、どうしますか。必死に、答えてほしくて問いかけてみる。答えてくれっこないのに、要さんの声を求めてしまう。


 ――そうだなあ、僕なら守る事だけを選ぶよ。相手の命を奪ったら、きっとずっと死にたくなるだけだけだからね。


 僕の問いかけに、頭の中で作られた要さんが答えてくれた。あなたはそういう人だ。涙が流れると、体中の熱がスッと引いていく。


「要さんなら、守るだけで、殺しません」


 また助けてもらった。助けに来たのに、僕の考えは間違えだと、お父さんと要さんが教えてくれた。何をやっているんだと、後悔と不安が押し寄せると僕もまた栓切ったように涙が溢れ出た。


「そう。そうだね。吉次は守る強さだけ有れば、いいんだよ」


 お父さんは僕を片手で抱きしめて、「でも、ありがとう」と声を震わせていた。間違えそうになったけど、よかった、また救えた。失わずにすんだんだ。


「お父さん」


 抱き返すと、お父さんの僕を抱く手が少し強くなった気がした。何度だって呼ぶから、遠くに行こうとしないで。



「降参する。だから殺さないでくれ!」

「言うこと聞いてくれたら殺しません。だからここでジッとしててくださいね」


 谷口がいた部屋に入り、逃げないよう彼をロープや紐で何重にもして縛りつけた。全てが終わったら刑務所に戻る事と、この館について教える条件に――と、嘘をついて。殺す気はないけれど、下手したら殺しますよ!と釘を指しておいた方が扱いやすいはず。


 谷口は死と隣り合わせの状態に追い込まれているから、聞く事全てを吐き出した。


「金田が1番ヤバイよ。あいつは殺しただけじゃ飽き足らず、死体を細切れにする事までやりたがる。要って奴も威勢がいいから殺したいと言って、よく三階を彷徨ってるのを見た。でも富名腰がいるから、そうは出来ないらしくてさ」

「富名腰って人はなんなんですか?そんなに強いの?」


 金田、という男がどれだけ非情な男かはわかった。富名腰という人の強さはよくわからない。


「富名腰は強い。唯一旦那から外出許可を貰ってるし、旦那の次に権力があるから黒法被を一声で動かせる。金田は何度か喧嘩を仕組んでるけど、勝った事がないって。しかし、この館の黒法被は金田派が多い・・・・・・金田と鉢合わせずに富名腰をどう味方につけるかで決まると思うよ」

「・・・・・・えっ、谷口さんより強いって事ですよね? 谷口さん、そんな強くないですけど、そういう事ですよね?」

「ちょっと吉次、辞めてやんなさいよ」


 谷口さんはそう強くない。だって、喧嘩慣れしていない僕に負けたんだから。少しおかしくて、吹き出しそうなのを着物の袖を使って、わざとらしく上品に笑い、ふざけた。


「弱くて悪かったな!・・・・・・笑ってる場合じゃないと思うけど。最上階の鍵が欲しいなら、旦那の部屋にスペアがあるはずだ」

「旦那の部屋・・・・・・ウエッ」


 旦那の部屋というのは、最初に案内された処刑場のような場所の事。またあそこにいくのかと思うと気が引けた。

 でも行くしかないのか。要さんを助けるためには必要な事。早く行かないと、中也さん達の役に立たないと――。

 その意識はあるのに目はさっきと打ってかわって、目眩を起こした。


 こんなんじゃ、また足手纏いだ。


「その前に、ちょっとここで休ませてもらえませんか? さっき体力使い果たしちゃって・・・・・・」

「全く、殺人鬼を信用し過ぎだよ。殺されたくないから従うけどね!」

「下手をしたら殺しますよ、吉次じゃなくても僕がね」


 先生が揶揄うように薙刀の刃をチラつかせると、彼は小さくなって黙った。素直に、今はこの谷口さんも信じよう。カナヅチがなければ何も出来ない「超人」らしいから。


 少しだけ仮眠を取ることにした。次、また大事な物を守るための準備だ。

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