70恥目 糸

「クソが……」


 白金台を飛び出してから2週間くらい経った。


 得意だった食い逃げ、窃盗、寝取り、全部失敗した。事を起こす前からバレたものもあった。

 畜生。アイツらと出会う前は上手くいっていたのに。何も上手く行きやしねェ。


 おかげで満足な食事も出来ない。風呂も入っていないから、花街には入れてももらえない。あちこち痒くて溜まったもんじゃねェ。


 女と遊びたい。俺も綺麗で可愛い姉ちゃんにチヤホヤされたい。出来れば金を払わずに、相手から俺と大人の遊びがしたいと言って来て欲しい。


 イライラする程に欲求が溜まる。だけど、発散する金も場所もない。


 手を取りあってはしゃぐ男女に腹が立つ。仲睦まじく歩く男女に腹が立つ。然程上手くもない、クソみたいな歌声が称えられている。ありがちな料理を出して歓喜される。


 アァ、周りを見るだけで腹が立つ。


 こっちの不幸も知らないで。

 お前らの幸福は、俺の苦労で成り立ってんだ。俺が不幸でいれば、その反動で周りは皆幸せになれるようになってるんだ。


 俺が中心だ。俺が正義だ……なのに、なんだこのザマ。ムカつく。

 特に甘ったるい声を出しているカップル。さっきから目に付いて邪魔臭ェ。


 夜の暗闇をいい事に、人目も憚らず、着物のからチラりと太腿を出して、その白い肉を欲望塗れの手がいやらしく触る。


 見てらんねェ。見せつけやがって。


「よォ」


 通りすがりの見ず知らずの女の肩を叩く。女は驚いた顔で俺を見た。一緒にいる男も同様に俺見る。なんだコイツと言う目でな。


 そうだ、そう。よおく見ておけよ。


「この間は楽しかったなァ!」

「えっ」

「先週の事で覚えてないかァ、ま、その太腿また触らせてくれよ」


 女の驚いた顔を拝み、太腿をひと撫で。身に覚えのない事実を与える。コイツがどう弁明しようとも、男はその不貞を真実だと信じ込んで怒り始めるのさ。


 ああ聞こえる、聞こえる!

「知らないよ!」と否定する女の金切り声。男にとっちゃあ、それは必死の弁解。男は女が嘘をついていると1度でも疑ったら、もう終わり。


 その関係は崩れていく。所詮はその程度なのさ。


 あいつら2人はたった「数秒」で、この掛け替えのないと信じたであろう人生の一瞬を俺に支配されて奪われたんだ。


 勿論、あの女と遊んだ事実はない。好みじゃねェし。ただその見せつけの睦み合いに腹が立っただけ。


 あーあ、気持ちいい。どんな自慰よりも最高だ。


 ――平成でもそうだった。俺がキーボードで指を踊らせれば、あっという間に、調子に乗った1人の人生を数時間で変えてやる魔法を持っていた。

 俺が気に入らない奴は電子空間の中で、一生消えないタトゥーを刻み葬る事が出来る。


 つまらないクソアニメ、クソドラマ、クソ映画、クソ小説、会社、男、女、生き物、物、エトセトラ、エトセトラ……。


 気に入らない。俺がそう思ったなら、消してしまえばいい。

 日本には言論の自由がある。個人の思想は自由に表現されていい。


 叩かれた? 誹謗中傷? 何だそれ、知らないね。


 俺は自分の事を「不快」から守るために、心の自己防衛しているのさ。それを御伽噺のような綺麗事並べて、文字の羅列を見せられても。


 部屋に何台もあるパソコンとキーボード。

 長年使ったマウスはコードが断線して使えないゴミとなり、山のように重なっていた。


 常に誰かと戦う準備は出来ている。電子世界の中だけじゃない。学生の時は調子に乗ってる人気者へ匿名の手紙、社会人になってからは企業への匿名メール、ボイスチェンジャーを使ってクレームの電話。


 みんな青ざめて消えていったなぁ。と、言っても全ては「ご意見」なんだから。誤解されちゃ困る。お前はこうであったほうがいいんだよという、有難ァいアドバイスだ。


 だから今のもそうだ。俺と街ゆく中に居るはずの俺と同じ考えを持った弱者の為に、悪を成敗してやったのさ。


 自分の思い通りに世界が動く――飯が食えなくても、こんなんメシウマだろ!


 赤い糸、黄色の糸、青い糸。

 幸せを繋ぐ糸は、大嫌いだから、全部俺が切ってやろう。




 糸魚川が居なくなってから一月は経ったろうか。

 俺達が青森から帰って間も無く出て行った彼は、この寒空の下でどうしているだろう。


 アイツ1人が居なくなっただけの我が家は、とんと騒がしくなくなった。これで以前より執筆活動に専念出来ると思いきや、そうではない。


 糸魚川が残した借金が、何故か要に降り掛かって来ている。 アイツは勝手に要を連帯保証人にして、責任をすっぽかしたのだ。「俺達にはアテがある」と笑い飛ばしていたが、まさか本当にアテにしているとは。


 人のことを言える立場じゃないが……。


 要は一度取り立てが来てから毎日家を空けるようになった。中原も同様、要までとはいかないが仕事の量を増やした。


 俺の借金と、糸魚川の借金。もう首が回らない。寝る間も惜しんでアルバイトを増やし、疲れた、などと言うことも一切ない。

 せっかく貰ってきてやった津軽三味線に触れる時間もない。物置場にあった時と同じように埃を被るだけ。


 体が痩せ細り、生活を失っていく弟。そんな弟に、働かない自分が出来る事。

 三味線の埃を拭き取る事と、金を借りている連中に頭を下げに行く事くらいしか浮かばなかった。

 働こうとも思ったが、どうせ続く訳もなく、かえって負担になると思った。


 大学の帰りに、自分の足で金を借りている者の家を何軒か回った。チャラにしてくれとは言わない。せめて待ってくれ、と。


 あんなに働いてばかりいられては、いつか死ぬ。中原は睡眠時間を削り、要はそれに加えて連日の重労働で体を酷使しているんだ。体の傷も多くなった。


 本当に死んでしまうかもしれないと、何度も考えた。そうなれば長兄に叱られるどころでは無い。

 仕送りもなくなり、本格的な勘当を受けるだろう。こんな時も弟を気にしていると言って、結局は自分の事。なんて"恥ずかしい"。


 だが、すごい事が起きた。俺が殴られたのは、まあ仕方ない。

 しかし、要の日頃の行いからか、「借金は待ってやるから、これで要さんに何か」と金をくれる奴がいたのだ。


 要のための金。手に握られた臨時収入。頭によぎる、“酒“の文字。金に余裕がないからしばらく飲んでいない。生唾をごくりと飲んだ。


 偶然通りかかった飲み屋街の暖簾が俺を誘う。寒い冬に熱燗を読んだらどれだけ美味いか。潜っておいでと、風が暖簾を捲る。


 一杯だけ。誘惑は怖い。ダメだと分かっているのに足が勝手に飲み屋に向かう。


 これは要の金! これは要の金! これは酒の金! あっ、違う! 要の酒! 馬鹿! 違う! 要の金!


「あっ、しゅーさん」

「アッ」


 神様は見ている。俺の悪事をしっかりと見ている。どこから共なく要を連れて来たのだろう。

 それとも、偶然通りかかったのか。偶然にしちゃあ、偶然が過ぎて寒気がする。


「飲み屋に行くの? あんまり、飲んじゃ、ダメだよ」


 どこで仕事をして来たのか、顔が泥まみれで服もさらにボロボロ。下駄の高さも不揃いで歩きづらそうったらありゃしない。


 傷だらけの足と痩せた体。脱げばがたいの良い要の体を知っているからか、その細さにグロテスクすら感じる。


「飯食ってんのか」

「食べてるよ。ほら、8日は持つんだ。浅草で綺麗な人に貰ったの」


 汚れた着物の袖から出すのは、濡れた後に乾いたようにボロボロの箱。さらにその中から、ポロポロと出てくる白い紙に包まれた四角いキャラメル。

 栄養なんかない。ただの娯楽に等しい、甘味だ。


「これは飯じゃないだろ! お前は、もう! 来い!」

「いや、これから、仕事の面接……」

「んなもん行かなくていい!」


 いつも叱られる側の俺が、声を張り上げて要の手を握り、飲み屋に入っていく。手を引いた途端、風に飛んで行きそうな軽い体。

 店屋の店主にさっき貰った金を叩きつけて、「この金で食える分だけ出してくれ」と荒々しい注文をしてやった。


「ねえ、それは誰のお金?」


 また借金をしたのかと、不安な顔を露わにする。


「心配するな。お前の為にって言われた金だ。借りたわけじゃない」

「そっか……なら、いいんだけど」


 金の心配をするのはわかる。それは俺も責任がある。踏み倒す事も出来るのに、こいつはきっちり返すと決めた。善人だ。

 労働の疲れや苦しさからか、浮かない顔をしてテーブルの木目を見つめている。


 らしくない。家に明るさや活気がないのは、要が居ないせいか。口煩く何かを言われないのが寂しいのかもしれない。

 なので、中原とも必要最低限の事でしか口を聞かなかった。


 何を言ってやればいいか、言葉選びに時間がかかる。そうして悩んでいるうちに次々と飯は出て来る。


 麦と白飯と桜海老、それから油揚げを混ぜたご飯が一杯に盛られている碗が出て来ると、要の体がピクっと反応した。

 茶碗を持って来た店主の嫁らしき割烹着を来た女性が、要に湯気のたったおしぼりを広げて差し出した。


「ほら。お兄さん、顔の泥を落としたら綺麗な顔なんじゃない?」

「僕は、傷だらけだし、そんなこと……」


 すっかり自信をなくした要の代わりに俺がおしぼりを受け取り、泥がよく落ちるように力を入れて顔を拭いてやった。


「んぶっ! 痛いよ!」


 息が出来ないと、おしぼりから逃げる。


「うらさい! 逃げるな!」

「痛いってば! バカ!」


 やっと要らしい「バカ」が聞けた。

 顔を力強く拭かれた痛みに怒って、おしぼりをぶんどり自分で顔を拭く。粗方綺麗になった顔をみて、女性は「女の子みたいに可愛い顔ね」と微笑んだ。


「ほんっとうに、食っていいんだな!」

「ああ」


 箸を持ち、鼻で大きく息を吸い込む。

 開始の合図がなったように、テーブルいっぱいに並べられた料理を見る見るうちに平らげていく。


 余程腹が減っていたんだ。キャラメルを1日1粒と水で腹なんか満たせる訳がない。

 弟は飯を掻き込み過ぎて蒸せたり、美味いと何度も呟いたり、人間味を取り戻していく。


「俺の借金は大丈夫。減額もあれば猶予も出来た。だからもう帰ってこい」

「それなら尚更返済しないと!」

「馬鹿。俺が殴られて来たんだぞ。俺が殴られれば糸魚川の方だけで済むんだ。そっちだけ返せばお前も生活できるだろ」

「でも……」


 こんな痛い思いをして来たのに、コイツと来たら頑固で簡単に頷きやしない。


「でももへったくれもない! お前に倒れられたら、また俺が青森に呼ばれて怒られるんだよ!」


 最低な事を言っている自覚はある。長兄に叱られるのが嫌な事も事実。反省はしてない。仕送りが止められるのが嫌なだけ、反省する演技だ。


 だが、真っ直ぐで曲がりのない要が、裏切られて絶望し、意識せずとも死に向かう姿は見ていられない。


“人間は不幸のどん底につき落とされ、ころげ廻りながらも、いつかしら一縷の希望の糸を手さぐりで捜し当てているものだ。“


「僕の事を助けてくれてるんだか、なんだかわからないな」


 唇を尖らせながら、漬物をがじりと噛む音を聞く。よかった、間に合った。死なせずに済んだ。


 その糸に、今回は俺がなればいい。

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