56恥目 しゅーさんの5円

 薫が自首し、正月も終わり、1月はあっという間に過ぎていった。

 世間は2月を迎え、また一段と冷える空気に肩を丸めている。


「おはよ。あれ? 中也さんは?」

「仕事だと。お前今日病院だろ、中原の奴に言われてんだ。早く準備しろ」

「はぁい」


 朝早く起きると、珍しくしゅーさんの方が先に起きている。今日は足の怪我を診てもらう日だから、中也さんに付き添って貰おうと思っていた。


 僕は怪我をした方の足を引き摺りながら、洗面所へ向かい顔を冷水で洗い、やっと眠い目を覚ます。

 その理由は清々しい冷水ではない。キンと刺すような痛みを顔に感じるからだ。鏡に近づいて、顔の所々に切り傷や擦り傷があるのを見ると、薫や初代さんの顔が浮かんだ。


 同じ女性なのに、どうして僕の肌は傷だらけなんだろうか。キメの細かい、つやつやの卵肌とは無縁でいつもどこか怪我をしている。ガーゼを当てている場所は相変わらず汚いし、朝からため息ものだ。


「おはすー。どんだけ鏡を見てもガキはガキだぞォ?」

「なんだよ朝から失礼だな」


 独特の挨拶と酷い寝癖。

 糸魚川は鏡の前に立つ僕を尻を使って除けると、顔をバシャバシャ洗い、目を瞑ったまま手だけで手拭いを一生懸命探す。

 諦めて掌で顔の水を上から下へ払うと、その飛沫がかかり、袴を濡らした。なんてやつだ。


「気にしてんのか、顔の傷」

「まあな。怪我するたびに痕が残るし……」

「心配すんなよ。坊ちゃんはありのままのお前が好きなんだって」

「なっ、なに言ってんだお前!」


 僕は男だぞ! とお決まりの台詞を返す。

 糸魚川は軽くあしらい、引越しと同時に買った伊達メガネをかけながら、髪の毛を整えた。


「お前、寝ながら屁したろ」

「してねーわ!」

「俺は寝たフリしてたけどよ、坊ちゃんが可愛い可愛い言ってぜ。毎晩イビキもガーガーかいてるし、寝相は悪ィし、涎が垂れたら坊ちゃんが拭いてんの知ってるか?」


 顔の傷なんか気にしてる場合じゃない。

 それが事実なら、寝てる時の態度酷すぎない? 僕は仮にも好きな人の隣で寝てるんですよ。中也さん、僕、糸魚川の3人で川の字になってね。


 五反田に住んでいた頃はしゅーさんにも同じ事をして来たし、怒られても聞き流していた。だってしゅーさんも同じことして来てたもん。


「し、知らないよ!」

「まァ、どんなクソガキでも可愛いんだよ。あっついネェ」


 糸魚川に肩を2度叩かれ、彼は腕を組んで居間の方へ向かった。そうだ、肝心なことを聞かないと!


「なぁ、匂いはしたか!?」

「すっきり爽やか、ハニーレモンの香り」


 適当な返事しやがって。今日の夜はちゃんと気を遣って寝よう。

 僕ってなんて恥ずかしい女なんだ。朝から最低の気分だよ。




「抜糸するよ。痛むから、歯を食いしばって」


 大怪我をした時に世話になった医者へ、足を診せに行った。

 傷口が開かないように縫われていたが、もう大丈夫だろうということで抜糸をする事になった。


 以前大怪我をした時に抜糸の痛みは経験している。引っ張られると絶叫物。このまま糸を残してくれた方がマシだと、病室から逃げ出したくなる。


「お兄さん、処置室に入ってもらえます?」

「えぇ、はい」


 しゅーさんが呼ばれて部屋へ入ってくると、僕が座る椅子の後ろに立たされた。

そして僕の腕を抑えるように指示を受けると、その通りに僕を掴み、動けないようにされる。


「生出さん、いつも暴れるでしょう。だからお兄さんが腕を押さえていてくださいね。では一気に」


 良いか悪いか、何も聞かずに医者は僕の足の甲から糸を引く。

 病院という安心すべき場所を、今は残酷な人体を犯すとんでもない施設と錯覚してしまうほどだ。


 僕がいくら我慢しても痛いのでもがくと、医者は舌噛んだら死ぬよ! と反応を楽しんでいるようにすら見える。

 糸を引いて間もなく、医者が何か言って糸を引く手を止めた。そして無言で針と糸を用意して縫い始める。


「ちょっと早かったね」

「おい!」


 足を見ると足の甲は新しい傷が出来て、血がまた溢れていた。やっと治って来たのに。

 後ろに立つしゅーさんを見上げると、彼は苦笑いでこう言った。


「休めって事だ」


 毎日家にいるのも退屈でしょうがないのに、また先延ばし。

 何度も言うが、うちには金銭的な余裕があるわけじゃないし、僕が働かないだけでだいぶ生活は苦しくなる。

 僕はそれが心配で、診察が終わって会計待ちの待合室で貧乏ゆすりをしながら考えこんだ。


 在宅でも、できる仕事。

 もしくは、動かなくても出来る仕事。先頭の番頭を思いついたが、一度断られた事を思い出す。無理だ。行けない。


 会計が済めば更に悩む。

 財布からお金が無くなっていく。後に治療費として薫から金が戻ってくるにしても、その日1日が、毎日苦しいのだから。


「しゅーさんどうしよう。今月生活出来るかなぁ」

「中原と糸魚川が稼いでくるだろ」

「まさか糸魚川を当てにしてるの? あいつも借金あんだよ」

「うーむ……なら奥の手で金を借」

「借りません。借りないで済む方法を考えてください。まったく、1円でも5円でもいいからあれば助かるんだけどなあ」


 こんな足では自転車も漕げない。ツルツル滑る道を踏ん張るための力も出ない。なんて無力、ザコ。


「本当にどうしよう……」

「あまくせ……」


 仕事が出来ない不安は心を病ませた。

 大怪我の時は文治さんを頼ったけれど、今回も頼るのは居た堪れない。ちゃんとするって誓ったのに、なかなか上手くいかない。


 考えても解決しないことが頭を占拠する。しゅーさんに肩を借りて歩き続けると、白金台の家が見えた。


「お金が無いのも事故物件の呪いかなぁ」

「さあ、どうかな。ま、あの家を選んだのはお前だ。恨むなら自分を恨むんだな」

「酷いよぉ。少しはなぐさめてよぉ」


 こう不幸になるのは事故物件の呪いだと、正月に司に言われた事が引っかかる。

 もっと考えて選んだらよかった。そういえば事故物件の元家主の自殺理由って生活苦だった気がする。呪われてる。しかしお祓いをするお金もない。


 僕は溜息を何度も何度もついた。

 家の前に付いて、袴のポケットから鍵を漁っていると、自転車のベルが鳴る。


「あのー、津島修治さんですか?」

「あ、はい。そうですけど」

「これ、速達です」


 郵便局員が自転車で配達しに来たのだ。

 しゅーさんの名前を確認すると、カバンから一通の茶封筒を出して差し出した。そしてどうもと、受け取る。


「どっから?」

「東奥日報……? まさか」


 その場でビリビリ封筒を不器用に開けた。そこには一枚の紙と、現金5円。


「――この度、東奥日報付録「サンデー東奥」にて貴殿の作品「列車」が乙種懸賞創作入選となりました――よって賞金として5円を送金致します――えっ、えっ、えっ」

「あまくせ、あまくせ、これ、これ」


 僕らは玄関前で挙動不審になり、現実を受け入れるまでにだいぶ時間がかかった。

 つまりこれは、青森の新聞社の付録にしゅーさんが投稿した作品が掲載されるということだ。


 日付は2月19日。もうすぐそこだ。やっと理解すると、僕らは2人歓声をあげた。


「やったー!」


 思い切り抱き合って、入選を喜ぶ。

 しかも、なんだってめでたいのが、やっと「太宰治」を名乗って投稿したものが入選したのだ。


「半信半疑でこのペンネームにしたが、要の言ったとおりになったな!」

「何言ってんだよ! しゅーさんの実力! 今日はお祝いだな! 何か食いに行こうぜ!」

「とりあえず酒、それから塩煎餅だ!」


 金がないなんて言ったことを忘れて、喜びまくった。

両手を上げて何度もバンザイ。

 しゅーさんに自転車の運転手を任せて、僕は荷台に乗り、5円を握りしめて街へ祝いの品を買いに行く。


「皆さーん! 作家の太宰治ですよ! 太宰治、太宰治です、どうかよろしくー!」


 街行く人に叫んだ。僕は嬉しくって、嬉しくって、何度も叫んだ。


 その後に5円を使い切って後悔することは、言うまでもない。

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