47恥目 後攻、中也さん


 同じ日の夕方、玄関の扉がノックされた。この時間は借金の取り立てか、大家か、その他諸々、心当たりは沢山ある。忘れていた支払いはこのうちのどれかか。


 借金の催促ともなれば怒号は当たり前に浴びせられるので、僕も足が竦む。

 胸ぐらを掴まれるくらいならいいが、酷い時は初代さんが連れて行かれそうになったりして大変だ。


 それもあって、このノック音にしゅーさんも初代さんもビクビク怯えている。しゅーさんは酒を飲むのをやめて、書斎へ逃げて行った。事情を知らない糸魚川は「おい、なんか来たぞ」と酒を飲みながら顎で玄関を指す。


「わかってるよ。ったく、金ない時にばっか徴収に来るなぁ」


 返していない僕らが悪いんだけど。毎月生活費はカツカツで精神がすり減らされる。さらに失恋した後じゃ、追い討ちを掛けられているようで、いつにも増して扉を開けるのは気が重たい。


 最近はバイトの日数が少なかったしなぁ、バイト増やすしかないか。きっと明日からそうします。そうするので、今日はどうかお引き取りください。心の中で何度も願った。そんなんで取り立てが無くなったら、うちのお兄様はバシバシ借金します。

 とりあえず覚悟を決めて、ちゃぶ台に置いてあった大した額の入っていない財布を持ち、ドアノブに手をかけた。


 深呼吸し、扉を開ける。怒号が浴びせられるか、拳が飛んでくるか、引き摺り出されるか。あらかた経験済みだから、驚きやしないけど。


「やっ」

「えっ」


 玄関前に立っていたのは、取り立て屋でも大家でもない。今朝出て行ったはずの中也さんだった。僕は嬉しくて、嬉しくて、周りも気にせず、彼に抱きついてまう。


「何処行ってたんですか! 嫌われたのかと思いましたよ!」


 今、僕は世界で一番幸せ者だ。臭いセリフでしょう? いいんです。事実なので。帰って来てくれたって事は、嫌われてないって事ですよね。心臓、口から出さなくて済みそうです。


「待って待って、荷物降ろすから」

「あぁ、ごめんなさい。嬉しくて、つい」


 興奮を抑えて一歩下がり、中也さんを見る。同じくらいの身長の彼は目線も同じだから、見えている世界が全て一緒な気がして嬉しい。両肩に何個もの荷物、両手も塞がるくらいの手提げを持って何をしに来たのか。


 僕は荷物を何個か受け取ると、部屋へ上がってもらった。すると中也さんは「その前に」と、外側の扉に貼ってあったお札と貼り紙を剥がし、玄関先に盛ってあった塩をひとさじ摘む。


「要のお兄さんは随分ユニークな人だね。仲良くなれそうだよ」


 顔は笑ってるけど、目は笑ってない。糸魚川に向けた顔と同じだ。そりゃそうだよ。あんな貼り紙されたら誰だって恥ずかしいし、怒るよ。


 それでも中也さんは努めて冷静に部屋へ上がり、荷物を空きスペースに置いた。


「んお、坊ちゃん。そういや朝居なかったな、何処行ってたんだよォ」

「もう飲んでるのか?」


 夕方、すでに茹で蛸のように真っ赤になった糸魚川は上機嫌だ。


「姉さんが飲め飲め言うからなぁ、やっぱ女っていいぞ!元気が出る!」


 糸魚川が元気にしているのは気分だけではない。盛り上がった下半身もだ。さっきの事をまるで反省していない。コイツは多分、初代さん落とす気でいる。

 

 その隣で満更でもなさそうな顔をしている初代さんは、亭主の一大事も気にせずにお酌をしていた。

 さあ、その亭主っていうのがしゅーさんな訳で。そっと書斎を開けると、中也さんが勢いよく開ける。彼は兄の布団を取り上げた。しゅーさんは体を跳ねさせたかと思うと、低い棚の影に体を丸めて隠れた。全然隠しきれてないけど。


「お、お前、なんで戻って来たんだよ! 外の札は!」

「ああ、コレ」


 中也さんの手から、くしゃくしゃに丸った紙がゴロンと落ちた。効き目のない札、ただの紙切れ。それは今ゴミと化した。しゅーさんは腰を抜かして立ち上がれないようだ。


「あまくせ! 追い出せ、さっさとな!」

「糸魚川はいいのに?」


 糸魚川をチラッと見て、初代さんと仲良さげにしているのに胸を痛めたのか、ヒートアップする。


「俺はコイツが嫌いなんだ! 話した事はない、だけど嫌だ! 相性が悪い……そうだ、コイツを追い出さないなら、薬、薬を飲むぞ!」


 脅し文句に使おうと、慌ただしく棚のあらゆるところを開けて薬を探すが見つからない。


「お薬、こちらでーす」


 僕はだんだん楽しくなって来て、薬の瓶をかちゃかちゃと振って見せた。しゅーさん、絶望。膝をついて落ち込んだ。


「嫁に裏切られ、弟にまで裏切られるなんて、俺は悲しいよ。一日に不幸が凝縮されている。俺が何をしたって言うんだ」


 また悲劇のヒーロー気取り。本日3度目の号泣。しかし悲劇は止まらない。


「津島が俺を嫌いなのは知ってるさ。司から聞いてる。俺も嫌いだし」

「じゃあ帰れよぉ!」

「それは出来ないね。俺は下宿先を出てきたんだ。この意味がわかるか?」


 下宿先を出てきた? まさかとは思うが、その荷物の量が、そのまさかを物語っている。


「ここの家主は誰だい?」

「僕ですけど」


 僕はハイと小さく手を上げる。


「もう行く場所がないんだ、ここに住まわせてもらうよ。いいよね、要」

「ハァ!?」

「はああああ!?」


 さすがにビックリどころじゃない。何の前触れもなく、相談なしに同居発言をされたら、驚かない人はいない。しゅーさんの絶望感たっぷりな悲鳴も、痛い程理解できる。嫌いな奴同士が一緒に住むって、それはどうなのよ。彼にはただの拷問だ。


 でも――。


「中也さん、それは待って、急すぎるよ。うん、急です!」


 何これ、新手のラブコメ展開ですか? 兄が死にそうな顔で絶望し涙を流しているのに、好きな人が一緒に住みたいなんて大胆な事を言い出すから舞い上がっている私は極悪人でしょうか?


 口は急だから良くないと言っても、心の中の僕は赤べこ並に首を振って喜んでおります。


「それにうちは見ての通り貧乏で……」

「金ならある。もう母親の脛齧りじゃない、きちんと自分で稼いだ金だ。学校はとっくに辞めた、でも職もある。津島とも上手くやるよ」


 僕の両手を握り真剣な目で訴えてくる。死ぬ。心臓が死ぬ。脈爆上がり、死ぬ。


「は、坊ちゃんって仕事してんのか?」

「まあな。だから朝にさっさと行って来たんだ。それから下宿先に荷物を取りに行って、ここへ来た」


 えっ、何? 好き。仕事してるんですか? ちゃんと稼いでお金を持って来れると。当たり前なのにかっこいい。


 布団に丸まってピーピー泣いてる人とは大違い。あ、いやいや、ダメダメ。ここは公平に行かないと、またしゅーさんが拗ねてしまう。一番反対してる彼は必死だった。


「お前がなんと言おうと、国の長兄が許さないね! お前みたいな性格の悪い部外者に弟が脅されてると言ってやれば、絶対この話はない! 第一、俺が許さないね!」


 確かに、文治さんは許してくれるだろうか? 僕を弟にして欲しいと言った時とは訳が違う。それを考えると、急に一緒に住むと言われたら抵抗はある。いくら好きな人とはいえ、しゅーさんのこの先に影響があったら――と、兄側に考えが傾きつつも、まだ気持ちは揺らいでいる。


 それでも中也さんは引き下がらない。


「いいや俺だけじゃない、糸魚川も働かせてここに住まわす。なんでこんな事するか教えてやろうか? 要、国のお兄さんに電話しに行こう。きっと許してもらえるはずだ」

「俺も働くのか!?」


 酒を豪快に吹き出した糸魚川は口をあんぐりと開けている。


「お前、要に借金してるだろ。返せよクズ」


 糸魚川の負け。ほんと、返せよ!


「まっ、待ってください。なんで一緒に住もうと思ったんですか?」


 僕は電話を借りに行こうと玄関へ向かう中也さんの前に出て、どうして同居するのか問い詰めた。


「家事も仕事も、借金の返済も全部要に押しつけて、当の本人はのらりくらりと好き勝手。それに常に死なないように見張ってなきゃいけないなんて、そんなの苦しいだろ」

「でもこれは僕ん家の問題です。中也さんだって、わかってるでしょう? 僕はしゅーさんの弟なんです。それも覚悟で側にいるんです。全て僕の責任で、最期までやり遂げるって。気持ちは嬉しいですけど、困ります」


 中也さんと糸魚川が住んで、お金を入れてくれたら、楽かもしれない。

 借金も多く返せるかもしれない。それから睡眠時間も確保出来るし、とっても助かる。


 でもしゅーさんと初代さんの意見を聞かずして決められないし、2人とも嫌だと言うだろう。文治さんの意見だって聞かないと。そうなれば僕は、この話を断るしかないんだ。自分の色恋より、家族を優先しなきゃ。


「だから、その時間を」

「私はいいわよ。要ちゃんが楽になって、怪我や倒れる心配も減るなら、いい事じゃない? それに引っ越せば、ボロでももう少し広い所はあるだろうし」


 僕が時間をくださいと言いかけると、初代さんは意外にも賛成だった。


「ハツコ、お前二度も裏切るのか?」


 しゅーさんはそれにまたショックを受けている。初代さんは大きなため息を長くついた。


「裏切るって、散々私の事裏切ったくせに。それに、今回みたいにおかしくなってもらってばっかりじゃ困るわよ。嫁なのに情けないけど、要ちゃんが居なきゃこのうちは回らないわ。それはあなただってわかってるでしょう?」

「それとこいつら2人が住むのは別の話だろ」


 夫婦喧嘩っぽくなってきた。どうやら僕が入る隙間はなさそうだ。しゅーさんもそう簡単に「そうだな」とは言わない。

 が、初代さんの方が強かった。


「この2人が一緒に住んで要ちゃんが楽になるなら、うちは安泰じゃない? このままじゃ、どうせ大学に行ってないのがバレて仕送りも減るでしょうし? もうお兄さんに聞いちゃいましょう? お兄さんもあなたがちゃんとする方を選ぶはずでしょ」


 奥様は言ってしまった、という顔をした。初代さんも電話を借りに行くためにさっさと家を出て行った。糸魚川と中也さんも一緒に行ったが、僕はしゅーさんを置いていけないから、家に残ることにする。


「……大学に行ってないのは聞いてないよ」

「大学には行ったよ。講義に出てないだけで、図書館には行った」

「それは屁理屈だね……うわあ、僕も文治さんに怒られちゃうかな」


 しゅーさんは何も言わずに立ち上がって、彼もまた、扉のドアノブを握った。


「ハツコが良いって言うんだ。もう決まりだ」

「しゅーさんはそれでいいの?」

「なるようにしかならん、腹を括れ」


 初代さんが文治さんに言うと言っただけで、借りて来た猫みたいに大人しい。本当に同居生活が始まってしまうんだろうか。だとしたら、嬉しいような、そうでないような、複雑だなぁ。

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