33恥目 その日まで

「おはよう、要」

「おはようございます、中也さん」


 次の日の朝、隣同士の布団の上で目が覚めた。僕は2人分の布団の距離がやけに近い事に緊張して、一睡も出来やしなかった。

 ちなみに全僕があの後をご期待しただろうが、特に何もない。手を繋ぐ事も、キスも、何も、ありませんでした!


 ドラマとか漫画ならあの後、2人で体のどっかをぶつかり稽古させて、甘ったるい時間を過ごすだろうに。しかし、何もなかった! 微塵も!――あるのは僕の下心だけ! はあ、恥ずかしいね!


 清々しい程爽やかな朝、布団を畳ながら考えていた。 勘違いだったのか? 女性としての居場所になってくれるって、つまりその、男女として付き合う的な関係ではなくて、もっと別な感じだったということか?

 中也さんは僕の事が好きということではなく、本当にただの対象者的な扱いなのか?そういえば、昨晩は彼の気持ちまでは聞いていなかったような……。

 女性としては見るけど女性として好きとは一言も言っていない、とかだったなら益々恥ずかしい。殺してくれ。


 勘違いは嫌だから、布団を押し入れに突っ込んでいる中也さんにすかさず声を掛ける。


「中也さん」

「今日は7時から豆腐屋だって言ってたね。送ってこうか?」

「んえっ」


 何それ。この世界中の皆さんに聞いていただきたいんですけどね。僕は今、特に豆腐屋に用事もない中也さんに「店まで送って行こうか」って言われたんですよ。

 顔面赤面、朝から体温が上昇しているのはそうなんです。これって、彼氏が彼女に言う言葉なんじゃないですか?

もうなんだっていいや! ここは素直に感情に従って、「はい!」と返事するしかないと思うんです。


 そしたらちょうどよく、本と資料の入った袋を抱えた先生が僕らの寝室に入って来てしまって。


「あ、要さん。今日荷物があるので途中までいいですか?」

「ああ……はい、いい、です、よ……」


 肩を落とし、やる気のない返事をしてしまう。だって、タイミングが悪すぎる。

 テンションが下がる僕を見て、「風邪でも引きました?」と、急に惚けた顔をする先生を、必ずや末代まで祟ることにした。

 けれど助けてもらった恩もあるし、仕方ないと荷物の半分を持って下駄を履く。玄関から仕事に行く僕ら2人を、学生2人が部屋から見送る。登校まで中也さんと居れる吉次が心底羨ましい。もっと話したかったし、近くに居たかったなあ。


僕らは「行ってきます」と、朝の眠気を残した声で家を出た。アパートの住人や大家さんに挨拶をして、帝大までの道を歩いた時だ。先生が急に「それで?」と切り出してくる。


「それで、中也さんとはどうなりました? チューくらいしました?」


 なんだ、そういう事か。資料を持って欲しいなんて言って、実際は昨晩の事が気になっていたんだ。やっぱり期待しますよね。チューの1つくらい。


「するわけないじゃないですか。友達のまんまです」

「進展無しですか!?」

「左様でございます」


 先生の反応を見る限り、やはり僕が期待していた事と全く同じ事を考えていたようだ。アドバイス的な助言をくれたが、セクハラめいていて参考にもなりやしない。ちなみに「脱いでしまえばよかったのに」が助言。参考になるわけがない。


「ていうか、中也さんの気持ちがわかんないんですよ。揶揄われているような気がして」

「えー、そうですかぁ? 僕にはそう見えませんでしたよ。だってレストランでずっと要さんの事見てましたし、何を言うにも優しい顔してるじゃないですか」


 脳内で記憶を巻き戻し、レストランでの中也さんの顔を思い浮かべた。えっと……優しい顔、ありました? 悪戯に揶揄う美しい小悪魔にしか見えませんでしたけど。


「要さんがお手洗いへ席を外した時に言ってましたよ。聞こえないように言ったんでしょうねぇ、僕には聞こえましたけど。“かわいい“って言ってるのがね。もうやだぁ、リア充じゃないですかぁ」

「げ、幻聴でしょうに」


 東大付近に着くまで、リア充扱いされて、あれやこれやと聞かれた。リア充なんて久々に聞いたな。


 が、一切昨日の晩の事は話さなかった。 もちろん先生の事は信頼していてる。ただ、好きな人の話をするのはその人をよく見せてしまうのではないかと心配になるのだ。

 その人をいい人に見てほしいのは確かな事。でもそれが原因で他の誰かが好きになってしまったら? それを考えると話したくはない。皆は皆が知っている中也さんだけを知っていればじゃないか、と思う。


 帝大に着く頃にはネタも尽きて、天気の話に変わっていた。僕の恋愛話なんてそんな物だ。


 寝不足だからか普段はなんてことない先生の荷物を東大の事務室のテーブルに置いた。重さのある音が体に響く。何が入っているんだと、手提げの隙間から人差し指を入れてみると全て紙のようだった。

 冷える部屋を温めるため、先生はストーブに付きっきり。これの紙は見てはいけないのかもしれないが、こっそりとその中の一枚だけ盗み見てみた。


 足尾銅山の記録と書かれた資料は、土が擦れた跡がいくつもあってボロボロだ。


「これなんですか?」

「古在さんと過ごした日々の記録ですよ。あと1年と半年。僕と古在さんが会える時間はそれだけです」


 また何枚か紙を拾いあげる。報告書と書かれているが、私情が紛れすぎていてまるで日記のように感情や行動が書かれていた。

 この土の汚れも、埃っぽいのも、古在由直もいう人物を対象者とした先生の思い出の一部なんだろう。


「先生は、古在さんが亡くなったら帰るんですか?」


  口では遠く感じる最後の日までの年数は、ボーっとしていたら平気でそこまで来てしまう時間だ。先生はどうするのだろうと、興味と参考の為に聞いておきたかった。


「僕は古在さんが死んでも残ろうと思います。せっかく友人が沢山出来たのに勿体ない気がしますし、平成に帰っても、また自殺するんじゃないかなって。昭和は願ったら叶う事ばっかりなんで、居心地いいですよ」


 平成は辛かった。先生は酔っぱらうと口癖のように語る。司もそうだ。ここまで来たら、昭和で墓を建てると笑いながら土地を買うと言っている。

 2人共、口を揃えてそういうんだ。何がそこまで辛かったのか。何故あの親父は僕らを選んだのか。理由がわからない。僕らの疑問は未だに少しと解決はしていないんだから。

 

 だから平成に帰ることも選べない、と。いつか来る「しゅーさん」のその日が来たら、僕は何を選ぶんだろう。

 今の僕には判断出来ない。余裕がないからだ。


「そうだ。昨日、修治さんが僕の所に来ましてね。これを要さんにって」

「うわ」


 使い込まれた革の手提げのから出てくるのは分厚い原稿用紙の束。思わず顔がひきつった。紙の量が嫌がらせのように多い。中也さんから貰った原稿用紙の束の倍、3倍はある。


「なんか言ってました?」

「見ればわかると思いますよ。僕の予想ですけど、多分、全て読み切ったら要さんは五反田に帰ると思います」

「借用書?」

「あはは、もっといいものですよ。僕なら流しちゃいますけど、要さんはそう行かないでしょうから」


 原稿用紙をパラパラと捲ると、人に読ませる気のない汚い字が並んでいる。添削した上に、また何かを書いているから解読不可能な物まである。


「それで要さん、手伝って頂いて悪いんですけど、豆腐屋遅刻ですね」

「えっ!?」


 事務室の時計をみると7時はとうに過ぎていた。少しでも稼ぎたいのに、痛恨のミス! 事務室の机や椅子を倒しながら出口へ向かい、先生へ挨拶もせずに事務室を飛び出した。


「どけろー!」


 登校する学生達が廊下を歩いてくるのを声で圧して道を作る。東大では、もう誰も動じない当たり前の日常がここにはある。賃金を確保するため、僕は走ります。


「要さん、間に合いますかぁ!」


 後ろから遅刻を心配する先生の声が聞こえてくる。


「間に合う、間に合わぬの問題ではない!」


 唐突に口から出た台詞。あれ、これは誰のなんだっけ。走れば走るほど、抱えた原稿用紙が顎を触る。

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