25恥目 僕の大好きな人


 病室は静かだった。

 僕の啜り泣く声が静かに聞こえるだけで、夜明けはまだ来ない。正直、夜明けは来て欲しくない。夜が明けたら、しゅーさんは青森に行って、そして、僕を此処に置いて行ってしまうから。


 長い長い汽車の旅をして、それから警察に行くんだから暫く会えなくなるのだ。

 平成なら東京から新幹線で3時間もあれば行けるだろう青森は、この時代は異国にも感じる程遠くにある。


 行ってほしくない。けれど、しゅーさんが自分で決めた大きな決断。


 邪魔するようなことはもちろんしたくない。自首なんて誰かにキツい言葉で引きづりながらでも連れて行かれないと、きっとこの人は考えもしないはずだ。

 折れていない右手を優しく握ってくれる細い手が、初めて頼りある男らしい手だと眺めていた。

 この指でペンを握って、これからどれだけの人を魅了していくのだろう。


 そうしたら、例え今回の事で離れる事がなくても、いつかは離れていってしまうのだろうか。折角、やっとの思いでこんな近くに来られたのに。また、助けてもらえると思ったのに。


 たまらず、目頭が熱くなった。さっきまで泣いていたのに、また目を腫らしてしまえば、両眼に眼帯をされてしまうかもしれない。泣かないように、僕に何か言葉をくれないだろうか。


「しゅーさん」


 彼は壁に背をもたれて下を向いて、寝ているのだろうか。返事はなかった。

 起こそうか迷ったが、夜風に揺れる不揃いな窓ガラスの音が不安を掻き立てる。


「……おやすみ」


 いいや。求めすぎたら、きっと帰ってこなくなる。

 僕は布団に体を埋めて、痛みのせいだと自分に言い訳しながら声を殺して泣いていた。



 翌朝。煩わしい程眩しい朝日が、彼を迎えにやってきてしまった。


 僕はこんなに嫌なのにしゅーさんは青森に出かけると行って、散歩に行くみたいに病室を出て行った。

 しかも笑顔で。ニッと歯を出し笑って出ていった。行っちゃった。行っちゃった。行っちゃった。


 体に自由があれば一緒に行けたのに。骨が折れてなければ走れたよ。アザなんかしょっちゅうで、頭も血が止まったなら別に大事なんかないはずだ。

 僕の唯一の武器、丈夫だと思っていた体が使い物になりやしない。


「せめて、せめて何か……帰って、来てくれる様に……」


 絶対にしゅーさんが帰ってくる方法を考えた。しかし、こんな体になっては何も出来る事がない。


 悔しい! 学も、金も、地位も名誉も僕なんかに何が出来るんだ! 自分の体を、キツく握った拳で叩かなければ、胸が張り裂けそうだった。痛みさえ与え続ければ、しゅーさんがいなくなった痛みよりずっとマシ、ずっと良いのだから。


 痛みつけた体の神経が壊れるほど感覚がなくなると、折れた方の足を庇いながらベッドから降りる。

 

 走れないならせめて、歩けばいい。廊下の壁をつたいながら、確実に一歩ずつ、受付を目指した。そこには電話がある。文治さんに話せば、わかってもらえるかもしれない。


 体に鞭を打っているのだから、傷口からまた血が溢れ出しているのがわかる。僕が歩いてきた道は赤い点々が散りばめられているだろう。


「生出さん! 何やってるの!」


 看護婦が僕の姿を見て慌てて駆け寄ってくると、肩を持って「お手洗いなの?」と聞いてくる。

違う! と強く言うと、とにかく体をこれ以上無茶させないようにぴっしりついて来た。


「電話を、借りたいんです」


 病院側の返事も聞かず、血だらけの手で文治さんに電話をかけた。

 電話の向こうの交換手と言われる女性に、文治さんの電話番号を伝えて電話線を繋いでもらった。

  昭和初期の電話にもだいぶ慣れて来たもんだ。


 おまちくださいと、交換手のお姉さんが言う。早くして、焦ったい。とにかくこの時間すらもどかしい。


「もすもす。どぢら様だが」


  やっと繋がったものの、電話口の相手は文治さんでも、男性でもない、女性の声だった。

 津軽弁独特のなまりと、よそ行きの声。変な感じだ。「文治さんを」と伝えると予想外の言葉が返ってくるのだ。


「文治さんだば、東京さ出がげでいったよ。修ぢゃんのごどで暫ぐ開げるどがだ。用件聞いでお伝えするべが?」

「なんて?」


 ダメだ、わかんねぇ。津軽弁の解読の難しさレベル高すぎでは? とりあえず、その女性の言った言葉のわかる部分を切り取る。


 ――文治さんは東京に来ている。来てくれている?


 きっと、しゅーさんの事で来てくれているのだ!今ので少し、骨がくっついた気がする。


「生出さん! 病室に戻って! あなた頭を鉄で殴られてるのよ!? あっちこっち折れてるし、もう、痛みとかないの!?」

「ありますよ、そりゃ! でも一大事なんです!」

「貴方の体が一大事です! ちょっと手伝って!」


  看護婦が別な看護婦を呼び、なかなか病室に戻らない僕を押さえつけてくる。血が滲んだ包帯の替えを持ってくる者もいた。


 わいわい、ガヤガヤ。院内は騒がしい。もちろん見せ物ではない。他の患者もこちらを見ている。体も痛けりゃ視線もいたい。


 しかし、文治さんが来ているなら、僕は会いにいかねばならない! そんな世間に恥を晒すとか、今更何も関係ない!


「まあ、兄弟揃って賑やかじゃないか」


 久々に聞くどっしりとした声に僕はハッとする。それはしゅーさんが最も恐れる文治さんのもの。

 看護婦達の間から、よそ行きの袴を来た文治さんが見えると、横にしゅーさんも並んでいた。


「あまくせ! 喧嘩なんかしてる場合か!」


 しゅーさんが僕の体を後ろから支えてくれる。


「しゅーさん! 帰ってきてくれたんだね!」

「帰ってくるって言ったろう。何時間と経ってないし、お前、騒ぐと傷口開くぞ」

「もう開いてます」


 間髪入れずに看護婦の1人が言う。苦笑いしかない。


「要さん。今回もまた迷惑をかけてしまいましたね。思ったより酷い怪我だ」

「迷惑なんて思ってません! 僕が勝手に喧嘩して怪我しただけだから、しゅーさんはなんにも悪くないんです! だから、だから」


文治さんはそれ以上言うなと唇に人差し指を当てて、口を開いた。


「修治と離れたくないと言うんでしょう。驚きました。本当に兄弟のようですね。どうやら、要さんと過ごして修治も変わったようだ」


 はじめて会った時の文治さんはもっとキツくて、怖い顔をしていたのを覚えている。今は僕らを見る目が優しい。きっとこの人は僕らを守ってくれるに違いないと思った。


「今回の事で2人を引き離す事はしないよ。昨日東京に着いて夜に飴屋で一泊するとね、学生や夜の女性達が凄い勢いで店を囲んだんだ。まるで私が悪魔みたいに見えるのかな。どうやら津島兄弟は、ちょっとした名物になっているようだね」


 聞けば、この事件を聞きつけた学生達が吉次や司と一緒になって、文治さんに兄弟を引き離さないで欲しいと頼み込んだらしい。

 アルバイトしていた平成で言う夜の風俗街のお姉様方も、初代さんから話を聞いたらしく、それに参加していたと聞く。


「しかし、修治が自首するのは変わらない。その方が津島家にとっても都合がいいからね。青森に出頭しろと言ったけど、話をつけて東京でなんとかするよ。要さん。少し修治とは会えなくなるが、私が責任を持って要さんの兄を此処に連れ帰ることを約束しますよ」

「文治さん……」


 いつの間にかこの場にいた司が、小さく「よかったな!」と親指を立てている。


「だから貴方も修治が帰って来るまで、体を治しておきなさい。さあ、出来れば早い方がいい。吉次くん、中畑さんに車を回すように言ってくれないか。修治も腹はくくったね」

「ああ」


  文治さんが吉次に車を頼むと、しゅーさんはもう迷いのない顔で病院を出る長兄の後を着いていった。


「しゅーさん!」

「ん?」


 しゅーさんはくるりとこちらを振り返る。


「全部終わったら、塩煎餅食べに行こう!」


 歯を見せて笑ってくれたしゅーさんは「そうだな」と言って病院を出ていった。


 大丈夫だ。ちゃんと帰ってきてくれる。

僕は急に体の力が抜けて立ち上がる事が出来なくなっしまった。


 看護婦や司に担がれて病室に戻る途中、しゅーさんに虫歯があったことを思い出した。終わったら歯医者に連れて行かなきゃな、と頭に思い留めておくのである。


 僕の大好きな兄は必ず帰ってきてくれるのだから。

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