12恥目 世話好きと別荘
僕らが知っている歴史が正しいとは限らない。もしかしたら、教科書で習うそれは、都合がいいように後書きされ、エピローグのような伝わり方をしているのかもしれない。
しかし、それも定かではない。昨日の記憶も曖昧な僕らが、語る歴史は空想世界を連想させるのだ。語り継がれたヒーローは事実よりもヒーローらしく伝わって行く。そして、一回の狂気は、それまでの人生全てが狂気出会ったかのように伝わって行く。
歴史とは事実と空想の世界と、それから、レッテルで作られているのだ。誤解されたまま語り継がれた歴史は、事実とは異なっていても事実になってしまう。
歴史とは、不確かに正しい。矛盾したものである――。
*
白飯、白飯、白飯。掻き込んで、ハムスターのように頰を膨らまして。塩味の効いた白色の沢庵は、噛む度、口いっぱいに実家のような安心感をもたらす。葉入の味噌汁は、椀に口をつけて啜ると体に暖かさがじんわり染み渡った。続いて、焼き魚、煮物、おひたしと次々におかずに手を伸ばす。
白飯とそれらを、喉が痛むくらい口に詰めて一気に沢山飲み込む――。
「うまい!」
ごくん、と飲み込んだ後はこの一言に限る。疲労と空腹が良いスパイスになって、ご馳走が五臓六腑に染み渡り、僕を舌を唸らせた。僕は今、鎌倉駅で出会った平成の人間、藤重司の家に来ている。場所は鎌倉から離れた小田原。鎌倉駅でどうにか頼み込んで連れて来てもらったのだ。
「人ん家に来て図々しい奴じゃのぉ」
藤重は眉間に皺を寄せながら、空になった茶碗に白飯を盛ってくれた。
「文句言う割りには大層なもてなしをするじゃないか。俺には人付き合いを選べなんて言って、司はお人好しだね」
「ちが、クソ! 強引に雪崩込んで来たんじゃろ! オラ!」
中原さんにからかわれると、顔を真っ赤にして茶碗を乱暴に手渡した。どんなに腹が立ってもしっかり手渡し。中原さんの言う通り、彼は文句を言うわりにしっかりもてなしてくれる。
その証拠に。藤重の家に着いて早々、袴を脱げと言われたかと思えば風呂に入れられた。中原さんが外で焚き付けをしてくれると言うんで任せて風呂に入っていた、が。
「おい! 熱いのか、ぬるいのか!」
風呂場の窓から顔は覗かせずに温度を聞いてくるのは中原さんではなく、藤重なのだった。それで中原さんが「やりたかったんだけどな」と独り言のように呟けば、「俺ん家じゃ!」とキレる。
風呂から上がると真新しい手ぬぐいと、綺麗に畳まれた灰色の着物と袴が脱衣所に几帳面に置かれていた。 吉次から貰った袴を着慣れたせいか、自分の体にぴったり合うサイズ感に少し違和感を感じた。そして風呂場を出ると藤重が待ち構えていて、荒々しく僕の手を引き、茶の間と案内してくれる。
その際「お前の汚ない袴、洗うちゃったけぇ。後は自分で取り込めよ!」と言うんで、バッチリ洗濯までしてくれていた。
そうして今、藤重が手際よく作った食事を何もない胃袋にたんまり入れさせて頂いているんである。空いた椀にはすぐ何かが盛られる。まるでわんこ蕎麦みたいだ。本当に藤重は面倒見がいい。
「こんなにうまいご飯が作れて、家事が出来て……お前はいい嫁になるぞ」
自然にこんなセリフが出るくらいだ。コイツは絶対にモテる。顔も悪くないし、家事が出来て面倒見がいいなら尚更。欠点はすぐ怒る、だろうか。ああ、そこはモテないなあ。
「だっ、だれが嫁じゃ!」
藤重は顔を真っ赤にして怒っていた。それを見ていた中原さんは酷く手を叩いて笑う。この空気は居心地がいい。友達の家でワイワイガヤガヤ、楽しく集まっているようだ。初対面の人の家なのに超楽しい。
友達といえば……そういえばこの2人は友人同士。約束があると言っていた。
「そういえば2人は待ち合わせしてたんだろ? 悪いね、邪魔してしまって。ご飯おかわり」
僕は息をするように椀を差し出した。
「本当に図々しい奴じゃのぉ! 中也さんに読み物を貸しちょったんじゃ、それを受け取りに鎌倉へ行った!」
「あ、そうだ」
藤重の言葉に中原さんはカバンから本のようなものを取り出した。その本には「古稀庵記」と書かれていたが、僕にはさっぱり何のことかわからない。
「こきあん?」
「そうさ、古稀庵。これは鴎外先生が執筆したんだよ」
「森、鴎外でしたっけ。好きなんですか?」
「好きも何も、中也という名前は鴎外先生がつけてくれたんだよ。これを誇りにしないでどうするっていうんだ」
「へえ……」
本当かよ。怪しいな。中原さんは満たされたようなため息をついて、本を手のひらで撫でていた。そして何かに酔いしれている顔。本当に幸せそうだ。その顔がとても綺麗で、素敵で、中原さんの目が輝いていて。
僕はその目に魅入られてしまったようだ。
「おい、箸が止まってる! 早く食え!」
「あっ、はいっ、すいません!」
藤重が焼き魚の骨を綺麗に取り除きながらキレてきたことで、僕は我に返った。
「まるで母親だな」
中原さんはまた笑っていた。なんでかなぁ、体が熱いや。あれだけ止まることがなかった箸が急に進まなくなった。
*
食べ終わって一息つくと、藤重は文句を言いながら茶の間に戻って来た。
「まったく、人ん家の台所にのこのこと……」
「後片付けぐらいしなきゃと思ったんだよ! ごめんってば」
「俺は台所に立ち入られるのが嫌いなんじゃ。何か欲しけりゃあ俺に言え! 何もしんさんな!」
台所に一歩踏み入れただけで、こんなに言われるのだ。よく母親が、台所を自分の仕事場をするために踏み入れたくないらしいと聞くがそれなんだろうか。
世話になっておいてアレだが、本当に小言が多い奴だ。中原さんもそれを面白がって茶々を入れて楽しんでいる。僕はそういえばと、気になっていた事を問いかけてみた。
「それはそうと、さっきの古稀庵記って言うのは何が書いてある本なんだ?」
僕は「古稀庵」という言葉を初めて聞いた。庵と言うんだから、建物の事なんだろうが平成では似た言葉すら耳にしなかった。
「名前の通り、古稀庵の事が書いてある。古稀庵っていうのは、今お前がおる場所の事、つまりこの家じゃ」
ちょっと何を言っているのかわからない。この建物の本ってこと? 建物の歴史とかが書いてある的な?
「ここに来た時に何か見えなかった? って言っても、あまくせさんは空腹で朦朧としていたね」
「お恥ずかしい」
中原さんの言う通り。僕はこの家に上がるまで、空腹でどうしようもなくふらつき、体を支えられていた。なので、何を感じたかと言われても「風呂も良くて、ご飯が美味かった」としか感想は言えないのだ。だからヘラヘラ笑って誤魔化した。
「なら初めからじゃ! 馬鹿野郎!」
藤重に袴の襟を強く捕まれて立たされたかと思いきや、下駄もきちんと履けないまま外に連れ出され、景色は高速で過ぎ去ってはあっという間に門の前。
「あまくせさん大変だね、これからが長いぞ」
中原さんが言う事はさっぱりだ。藤重は襟から手を離されたら「回れ右!」とまるで軍隊の掛け声のような張りのある声で言うので、体が勝手に反応した。
回れ右をしてすぐに目の前に現れたのは、茅葺き屋根の門。その門は素人目にでもわかるほど、高級感漂う造りだ。門にかがけられた額には「古稀庵」の文字がある。
「本当に僕が居た場所か?」
「さっきから言いよるじゃろ、俺の家じゃ!」
同年齢くらいの奴が、門の佇まいからもわかってしまうくらいの豪邸に住んでいるだと! 僕は駄菓子屋と豆腐屋でアルバイトをしていて、貯金と先生へ渡すお金だけでヒィヒィ言っているのに!
「どうやって建てたんだよ! 金はどうやって稼いだんだ!」
藤重を問い詰めると、さっきまで怒りは何処へやら。悲しそうな表情をしている。少し下に目をやり、藤重の手を見るとギッシリと握られた拳があった。
「俺が建てたんじゃない。有朋さんが別荘として建てたんじゃ。俺はここを守っちょるだけ。この扁額の文字は有朋さんのじゃ」
「有朋さん?」
「お前は有朋さんも知らんのか」
藤重は呆れていたが、僕はなんとなく察しがついた。鎌倉駅で藤重は「対象者は死んだ」と言っていたからだ。この悲しい顔はきっと、その人を思い出したからなのだろう。別荘を作れてしまうくらい偉くて、お金もあった人なのかもしれない。
「山縣有朋、国軍の父と呼ばれた軍人で政治家さ。あまくせさんには馴染みがないか」
「ごめんなさい、政治に疎くて」
有朋さんのフルネームを言われてもピンとこなかった。僕が知らないだけだろう。藤重は何も言わず、また1人門をくぐって中へ入った。
「司。あまくせさんは何も知らない未来の人だろう? お前が知っている山縣有朋を話してやればいいじゃないか。俺はお前の話を聞いてから、世間が言うような悪人だとは思わないぞ」
中原さんは藤重を気遣っていた。しかし今、さらっと未来の人なんて言わなかっただろうか。もしかしてさっきの会話聞こえてたのか!?
「まだ話す仲じゃない。けど、どう話そうかは考えちょるさ。中也さんにだってしばらくしてから話したじゃろう。俺は有朋さんの……どねぇしたら誤解は解けるんじゃ? 誤解さえ歴史にしてしまうのか? ああ、結局何も出来んのかもな」
門から小怪を歩く2人の会話を後ろで聞いているしか出来ない僕は、藤重の後悔を妄想で考えるしかなかった。誤解ってなんだろう。想像もできなかった。
「俺は庭園の手入れと家のことをやるために留まっているようなもんじゃ。寿命の前借りまでしたのに、ただ8年をなんとなく過ごして来てしまった」
藤重が立ち止まった場所には綺麗に手入れされた、日本庭園があった。毎日掃き掃除をしたりきっと大変だろう。藤重の努力は細やかで些細な事なのかもしれしない。
彼の後悔はどんなに大きいかわからないが、亡き人の大切にして来たものを、また大切にするだけで充分な気もする。
「やっぱり、俺1人じゃ大きい物には敵わないんじゃ」
「1人? あまくせさんが居るだろ? なあ、あまくせさん」
中原さんが突然話を振るので、体がビクンと跳ねる。
「ん、そうだよ! 一宿一飯の恩義があるぞ、藤重!」
藤重の顔があんまりにも曇りがちなので、わざとはしゃいで敬礼してみせた。僕は山縣有朋を知らないが、藤重司の手助けなら出来るかもしれない。
一旦しゅーさんの事は置いておいて、きちんと司へお礼をして帰ろうじゃないか。僕だって人脈を広げた方が、今後きっと役に立つ。それに同じ平成の人間が苦しんでいるなら放っておけない。
「お前、ええのか。お前にだって対象者はいるじゃろ。勝手に泊まる気満々なようじゃが、帰った方がええんじゃないか」
「それがぁ、そのですね」
帰れと言われても、僕は帰れやしないのだから。言うなら今だと腹を括る。
「金がないから帰れないんだ、だから、金貸して?」
手を合わせ、お願いとウィンクしてみせた。藤重はため息をついたかと思えばすぐに、「男のウィンクなんて気色悪いわ! お前は本当に図々しいで! しっかり働け! 馬鹿野郎!」と怒り狂うのだった。藤重は金は貸さないなんて言わなかった。
彼の過去に何か影が見えるが、真面目で根は優しい奴なのだろう。彼と親交を深めることは、これからの僕にとって心強いのだ。
*
そして同日。その頃の東京では――。
「ええっと、あの、要さん、をですか?」
「修治が世話になったと聞きまして。訪ねてまいりました」
飴屋に方言のアクセントが強い男性が2人、僕を訪ねてきていた。
「か、要さんはまだ帰って来ていません、よ……?」
吉次はドギマギ。きっと僕に早く帰って来て欲しいと強く願っただろう。
「申し遅れました。私、修治の兄の津島文治と申します」
「鎌倉で要さんにお会いしました、中畑です」
僕を訪ねて、しゅーさんの親族が上京して来ていた。
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