人間のアシェイムド

陸前フサグ

 対象者と遂行者

1恥目 三鷹で見たかった景色

 突然だが、私は静かにキレている。東京は三鷹市、三鷹駅でキレている。

 周りから見れば駅内で呑気に缶コーヒーを飲みながら歩く若者でしかないが、私はキレている。


 自販機に120円を入れて頭をスッキリさせようかと考えながら、怒りを鎮めようとして買ったものの、かえって逆効果だった。久々に飲む缶コーヒーの苦さは胃も感情も荒らす。


 むしゃくしゃしているからといって、ラインアップを碌に見ず、適当に商品ボタンを押してしまったのが悪い。ブラックコーヒーなんて飲めないのに、今なら飲めるだろうとプルタブを開けて飲んだのも悪い。

 さらに色の印象か「悪」を飲んでいるようで、機嫌はますます悪くなった。


 飲み慣れないブラックコーヒーを無駄にするわけにもいかず、缶を傾けながらの早歩き。狐のように目を釣り上げ、すれ違う人を皆憎むような目つきで歩いているのだから、ただの若者ではない。

 下手に触れられたら感じの悪い態度しか取れないだろう。悪態をついて、もしかすると勢いで知らない人に平手打ちをしてしまうかもしれない。


 まあ、そんなことをしたら警察がすっ飛んで来るから絶対にやらないけれど。今が特別に機嫌が悪いだけで、普段は大人しくて目立たない人間なのだから、そんな度胸もない。

 

 そもそも怒りの原因は何か、と。気になりますよね。これがまた腹立たしい理由なんですよ。


「ごめぇん、彼氏が今日休みだったの忘れちゃっていてぇ」


 型落ちのスマートフォンから聞こえてくるのは、語尾を伸ばした甘ったるくて高い声。通話相手である三鷹に住んでいる友人はそう言った。忘れていたからなんなのだ。

 その続きはあえて言いやしないが、察せというなら「今日の予定はキャンセルで」という意味だ。ふざけている。だからキレている。


 ふざけんな! と、一言言ってやれば気が済んだかもしれないのに、相手に強く言えない気弱な性格が災いして「いいよ、全然」と言うしかなく、咄嗟に三鷹市内に知り合いがいるからと嘘をついた。畜生。三鷹に知り合いなんかいるもんか。知り合いなんてこの友人しか居ない。


 ムカついたと一言、本音を言えない自分にも苛立っている。

 

 こっちは宮城からはるばる東京まで会いに来たっていうのに、アイツは彼氏を優先した。

 3ヶ月前から約束していたのにも関わらずだ。まじでムカつく。ブラックコーヒーのせいで胃も痛いし。これは自分の責任だけど、そもそも飲むつもりなんてなかった。踏んだり蹴ったりだ。


 怒りに任せてコーヒーの缶を道端には投げてやろうか――なんて事はせずに、スチール缶専用のゴミ箱に正しく放り込む。キレていてもルールは守る、だって拒んでも年齢は大人だから。


 しかしまあ、この連休のためにどれだけシフトを調整して来たかわからないだろうか。いや、わかっておくれ。お互い社会人ならわかるはずだろう。

 頭の中でお花を育てていそうなアンポンタンにはわからないのだろうか? わからないだろうねぇ。偏見なんだろうけど、女っていうのはつくづく男に狂う生き物だと思う。私も女だけど、その気持ちは理解できない。恋愛経験ゼロなもんですから。僻みでしょうか。悲しいですね。


 見知らぬ土地で1人にされた私の気持ちなんて、アイツは考えもしないだろう。

 今日で永久に友達を辞めてやる。


 例えば、ブラジリアンワックスで鼻毛を取って、恥ずかしい動画を全世界に公開して謝罪すれば話は別だ。そのくらいの事をして謝ってくれれば、許してあげよう。

 可愛らしい顔の友人だから、ついでに常に欲しがっているSNSのいいねとやらが沢山貰えて良いんじゃないか? 


 想像したら少しだけ気が収まって来た。少し冷静になると、早歩きも疲れてくる。県境を跨いで来たのに、いつまでもこだわってキレている場合ではない。


 せっかく取れたホテルと新幹線の切符。1人だろうと東京を満喫しなければ元が取れない。そりゃいかん。今日という日は何としてでも、人生は悪い事ばかりじゃ無い! と自分に教えてやらねばならないのだ。


 と、なれば。この待ち合わせ場所だった三鷹市にだって、何かしらの縁があるわけで。この街をスルーして有名観光地の渋谷だ新宿なんて、あちこち浮気する訳にはいかない。

 これは絶対的な意地である。グルメ、観光、なんだっていい。ドタキャンされた事を一発逆転してくれるような大きな事が1つあればいい。


 しかし考えても私の頭では浮かばない。となれば頼るのは街の案内版。きょろきょろとあたりを見渡し、観光協会に入ったりしてみて、たまたま目に入った「玉川上水」に興味が湧く。


 初めてではない字の並び。何かあった気がする、と胸にモヤモヤとしたものを感じた。きっとそこへ行けばこのモヤモヤも晴れるだろう。


 行先は決まった。スマートフォンにある地図アプリに頼りながら歩き出したは良いものの、「玉川上水」とはなんなのか。ナビの矢印はあっちへこっちへ、感情を持ったかのように頼りない案内ばかりしてくる。


 おいおい、しっかりしてくれ。途中で投げ出して「大体この辺です」とか言うんじゃないぞ。えぇ、次はこっち? 待て、これは駅に向かって歩いていないだろうか。いいや、駅でもない、公衆便所か? いや違う。何でもない民家だ。


 わからん! と大声で叫びたくなった。検索欄に「玉川上水」とただ打ち込んだだけではどうにもならないのか。漢字から読み取るに、水がある公園とか、川とかそういうものを想像していた。

 ひょっとして、この解釈自体が間違いなのか? 歩き回るばかりで、ちっとも到着する気配はない。この日のために下ろした、真新しい白色のスニーカーは黒くなり、踵の靴づれが悪化していくだけ。


 頼りないナビを信じて歩くこと1時間。結局それらしい場所はわからないままだ。

 とうとう足の痛みに耐えられず、川沿いのベンチに腰を下ろして靴を脱いだ。踵を見ると、真っ赤に擦れて出来た傷があり、靴下に滲む程の血も出ていた。


「痛ぇ……」


 萎びたもやしの様によれた絆創膏を貼りながら、見知らぬ土地で痛みを耐えている虛しさ。こんな筈ではなかった。思い出してまた、イライラしている。ドタキャンされて、足をボロボロにしながら何かもわからない場所を探し回って。


 私は東京に何をしに来たんだ。


 もう全てが嫌になってくる。悔しい。友人にドタキャンされる自分も、東京に来て何も出来ない自分も、イライラしている事にイライラしてしまう自分も。


 虚しさだけが襲う平日の昼前。周りに人も少ないからか、かすかに川のせせらぎが聞こえて来る。自然に触れれば気持ちも落ち着くかな。癒しを求め、音のするほうへと足を庇うように進み、橋から川を覗く。期待通り、湿った土の匂いは心を癒したようだ。


 高ぶった感情が消えていく。自然は凄いな、偉大だ。


「でも……しょぼ」


 自然にせっかく癒して頂いたのに、川と言う割には少ない水量に独り言を漏らしてしまう。もしかして川ではないのかもしれない。

 もしも落ちてしまったら、溺れるのではなく、打撲等の蹲るような鈍い痛みに襲われそうだ。それでも、打ちどころが悪ければ痛みもなく一瞬で死ねるかもしれない。

 

 ――そうしたら全部0になって楽になれないかなぁ、なんて。


 そう思ったら、一瞬。左腕にかかる他人の体重。体温。そして、独特の匂いした。人の家の線香臭い。それに香水のような息苦しさを混じえている。鼻が曇った匂いというか、意味不明な表現が1番的確だと思う。


も、好きなの? 死にたいの?」

「えっ」


 突然の問いかけに顔が引き引き攣り、体は固まる。恐る恐る隣を見ると、腕に手を回してくるのは、知らないおじさんだ。人に纏わり付きながら、柵に寄りかかる知らないこの人は誰だ。


「生きる? 死ぬ? それとも好きだから死ぬ?」


 線香臭いこのおじさん、誰なんだ。誰か教えてくれ!


「イライラしてる? 好き? ねえ、好き?」


 訳のわからないことを言いながら、女が彼氏に甘えるように頬ずりしてくるじゃないか。怖い。気色悪い。それ以外の感情が出てくると思うだろうか? 本当に最低な気分だ。


「や、やめてください……」


 私は拒絶した。力一杯、離れようとしたのだ。どれだけ振り払っても、体を揺さぶっても離れやしない。なんて力の強いおじさんなんだ。周りに人が居ないから、誰にも助けを求められない。大都会東京のくせに、人が居ないなんてことあるのか?


「離せよ! 警察に電話するぞ!」


 声が荒くなるが、それでも離そうとはしない。柵に背負うリュックのチャック部分が当たる度にカンカンと音がする。大きく体を左右に振っているからだ。やはりべったりとくっついてそのまま。とにかく匂いが不快だ。離れてほしい。死ぬか生きるかを執拗に聞いてくるのも実に気味が悪い。


「怒ってるねぇ、全部嫌だねぇ、だからここに来たんでしょう?」

「意味わかんない!」

「私はただ迷って此処に着いただけだ!」と言ったら、おじさんは「いいえ」と私の顔を見る。


「あの人もここで死んだからねぇ、全部嫌になってねぇ、薬を飲んで死んじゃったよぉ。ここに来る人はみんな、あの人のことを追うんだねぇ」

「あの人? 誰が死んだ所なんですか?」


 人の死に場所なのに心臓がドキドキしてしまうのは何故だろう。そのだれかの死に場所が堪らなくロマンを感じてしまう。理由はわかっていると体は鼓動で訴えてくるが、頭は何も思い出してくれない。

 それなのに、鼻息がすごい。ふんがふんが。口角がゆるゆる、思わずヨダレが垂れる。此処で“あの人“がどうして亡くなったのか知りたい! と、意味も解らず身体中の血がそう騒ぐ。


「きもいねぇ! 情緒どうしてるの?」


 おじさんはようやく離れた。満面の笑みで、私を気持ち悪いとドン引きして。お前が引くな。我に返って、きつく締められて苦しかった左腕を少し回す。何か言ってやろうとおじさんに目をやった。

 離れてようやくわかったことだが、このおじさんの服装が変だ。ベージュのタキシードに帽子の洋装で、手にはレトロなステッキ。絵に描いたような、白くてくりんとカールした髭。まるで古いアメリカ映画から出て来たようなおじさんである。


 東京には色々な人がいるが、この人の雰囲気は異様だ。コスプレや仮装とも違う。気持ち悪いと思っていたのが一転ガラリと変わり、このおじさん1人だけが別な空間に居るような不思議な空気を纏っている。

 容姿は印象をガラリと変えてしまう。単純なもので、気になっていた不快な匂いは、線香より上品な香りに思えた。


 おじさんというより「叔父様」の方が似合うくらいの――って、ダメダメ! 不審者に違いないんだから!


「キモいって、あなたに言われたくないですよ。この、ふ、不審者!」

「ええ私は不審者! 友達に約束を破られ、不貞腐れて缶コーヒーを飲み、1時間誰かもわからぬ誰かの死に場所を探し、三鷹市を歩き回る宮城県出身の男子のような女子に絡む不審者!」

「なんで知ってんですか! ずっと見てたってこと!?」


 今さっき初めて会った人間に、おおよそ1時間程の出来事を把握されている。もしかしてストーカーなのか? これは立派な恐怖だ。ゾゾゾと鳥肌が立つ。確かにドタキャンを超える大きな出来事を望んだ。

 だけどこういうのではない。望んでいた展開はホントにコレジャナイ。犯罪臭のする出来事は望んでいない。誰だってそうだろう?


 やはりこのおじさんは上品なんかではないのだ。立派な変態さんで、犯罪すら笑って犯すヤバイ人間に違いない。足が竦む。恐怖からか尿意まで催してきた。

 ああ、逃げなきゃ。ついでにトイレも行かなきゃ。

 思った時には靴擦れした足の痛みなんて御構い無しに走り出していた。歩き疲れた重たい両足を交互に出して、川沿いを全力で走る。


「助けてください! 誰か!」


 絶対に振り返らない。前だけ見て走るのだ。しかし、走れど走れど人なんて1人も居ない。まるでこの街に私しか居ないような静けさだ。これがゲームや映画なら、ゾンビが出てくるんじゃないだろうか。ホラージャンルは見たことがないけれど、大体そんな感じだろう。

 あぁ、もしかしたらこれは夢なのか? 電車の中でいつの間にか眠っていて、ひどい悪夢を見ているのだろうか?


「はぁっ、ゔっ」


 けれど現実は残酷だ。夢じゃない。この息苦しさは絶対に――。


「夢じゃなーい!」

「そう! 夢じゃない!」

「ダッー! びっくりしたぁ!」


 一直線の道、突然現れたのはあのおじさん。スイッチで電気を点けたように、パッとどこからともなく現れたのだ。

 それに―—どういうことだ。辺りを見渡すと、走り出した場所に戻って来ているじゃないか。もしかして同じところをぐるぐると回っていたのか?

 勘違いだとまた走る。そして、振り返ると絶対にあの川の上にかかる橋の柵がある。走っても走っても、同じ場所だけを周っている。

 

 なるほど、意味不明!


「そんなに走って……満足しました? 残念ですが、夢じゃありませんよ。かといって黄泉の国でもない。さて、どこでしょう……なんて聞いてもわからないよねぇ」

「み、三鷹市でしょう! 新手のドッキリなのか!?」


 最近は素人にドッキリを仕掛けるテレビ番組があるくらいだ。ほら、ここ東京だし? きっとどこかにテレビカメラがあるのだろう。そうだと思って草木の中に手を突っ込んでカメラを探すが、溶けるようにすり抜けてしまう。まるでファンタジー。ヒゲの親父は柵の上に腰掛けてニタニタと手を叩いて笑う。


「ブブー! ドッキリじゃございませーん! えぇ、常人にはわかりませんよ。生出要おいでかなめさん、あなたには今からちょっと昔に行ってもらうね。私の……まあ、何というか、うーん……あ、趣味! 趣味に付き合って欲しいんですよ。歴史にちょこっと悪戯してね」


 ちょっと昔に行ってもらう。歴史にちょこっと悪戯する。まあ、随分頭の悪い発言だ。あまりにアホくさいので、話だけは黙って聞いてやることにした。きっとボケてるんだ。よく見るとおじさんというより、爺さん顔だ。言葉の受け取り方によって印象が変わる。

 きっと話し相手がいなくて寂しいんだ。ここは同情して、可哀想なおじさんに付き合ってやることにする。


「全てが嫌で玉川上水に来たんだから、いいよねぇ。そのリュックの中にはね、死ぬのが好きが沢山詰まっている。さあ、それが何か思い出せないねぇ。要さんの大事な記憶も、忘れたいことも今は0にしてあげました! 僕が丸ごと全部消しちゃいましたからね! そのほうが生き易いでしょう。なぁに、心配しなくて大丈夫! 今からちゃんとあなたと、死と向き合える。何かは――」


 ヒゲのおじさんは何もない掌から、人参の葉に似た青紫色で可愛らしい花を手品のように咲かせて見せた。それを私の胸に抱かせると、深く帽子を被ろ顔を隠す。


「これはムラサキケマン。花言葉は喜び、それから、あなたの助けになる」


 そのまま笑みを浮かべながら柵に背中を押し付けられると、柵はさっきの草木のように溶けてしまう。もちろん支えがなくなるのだから、体は川に落ちていく。


「生出要さん――どうか、どうか、次こそは――」


 このおじさんはやはり訳のわからない人だった。成す術もなく、されるがままに、打撲か、もしくは「死」を受け入れなければならない。

 ムラサキケマンを抱きながら、眩しい太陽の光に目が眩む。


「”要”でいられるように」


 どこかで聞いた声がした。しかし誰の影も見えないまま、体は降下していく――。



「痛……くないな」


 死を覚悟したはずだった。


 賑わう街の真ん中で尻餅をついている。目に入る街並みは見慣れず、教科書で見たような古さも感じてしまう。三鷹市とは明らかに違う、見知らぬ街だった。古いのに現代で現代的というか、昔と今の境にいる気分だ。なんて現実味のない景色。


 左を向くと、掲示板のような木板に「娘売買相談・人探し」と書いた紙が沢山貼られている。首を右に向ければ、モダンガールにモダンボーイ、というのだろうか。洋装と和装の人々が混じって道を歩いている。


 パニックも超えると声が出なくなるらしい。口をポカンと開け、ムラサキケマンを握り締めた手は強張って開かない。

 あのおじさんを探してキョロキョロ見渡しても見当たらないし、歩けど歩けど、落ちたはずの場所はない。


 歩き続けて見つけた川は玉川上水とは違う、水の多い川だった。どうしてよいか判らず、とにかく人の多い道を選んで歩いた。暫く歩くと学生らしき若者が多い街に着いた。建物から推測するに、此処は古さと新しさが混ざり合う都会の成りかけなのだ。


「何処だよ、ここ……」


 道行く人に珍しそうに見られながら、道に落ちていたボロボロの新聞紙を拾い上げる。


「1930年、4月……?」


 1930年4月。新聞には確かにそう書いてある。何度見てもそう書いてある。ああそうか。理解はしないが理解した。


 ――ちょっと昔に行ってもらうね。

 ――歴史にちょこっと悪戯してね。


 頭に響くように聞こえる言葉を思い出した。


 世の中には普通に生きていれば信じられないようなことが、時々起きたりするのだろうか。

 常人には嘘だと笑われてしまうようなことが、平気で誰かの身に降りかかってしまうのだろうか。


 私の名前は生出要。今年で22歳になります。

 信じられないと思いますが、信じてください。


 私はえらく神経の通った夢で、1930年に突き落とされてしまったようです。

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