2恥目 ムラサキケマンの花言葉

 状況は最悪だ。また鼻が不快なのだ。


 さあ次はどうしたか、といえば「車」である。

 車はガタガタ道を左右にグラグラ揺られて走って行く。白黒写真でしか見たことのない車体ばかりなのが、過去に来てしまったことを認識させてくれる。これが良いんだか、悪いんだか。

 ああいう車が、なんというのかは知らないが、クラシックカーとかそんな感じだろうか。私には車の知識がさっぱりない。


 正直に言うと、自分の愛車の車種も曖昧で、二駆か四駆かどうかすら判らない。9万円で買った中古のオンボロ軽自動車に鞭を打ち、限界ですとキィキィ鳴く車を無理矢理走らせているんだ。

 

 そんな私でも解る事と言えば、排出されるガスがやたらと臭いことだけだ。こんなガスを吐く車が平成の街を走ってみろ、後続車の運転手は間違いなく車内で咳き込むだろう。


 しかし、最悪だと思わせるのはそれだけではない。それは私をモノ珍しそうに見る周囲の視線。その理由は一目でわかる。

 現代、つまり平成でも不自然ではないモダンな格好と和服が入り乱れる街でも、私の格好はどうも目立ってしまっているようだ。

 薄手の原色に近い青のカーディガン。それに下ろし立てとわかるワイシャツ、七部丈の黒スキニーとスニーカー。そして背中に大きな黒のリュック。


 この格好では外国人にもなりきれないだろう。瞳も髪も赤茶色だけど、明らかに日本人の顔。海外の人のものじゃない。


 見たことのないモノを、ジッと見つめる興味の目。周りの反応は演技ではない。万人が演技できるかと言ったら、そうじゃない。

 つまりその目は、此処が平成の世でない事を嫌でも思い知らせてくれるのだった。


 このやや浮いてしまう半端な格好が怪しいのかもしれない。

 ならば馴染む格好を! と思うが、この時代に来て服を手に入れようにも手段がない。 スキニーの後ろポケットに入った財布を取り出しても、福沢諭吉と野口英世が1枚ずつこんにちは。


 1930年でこの金を使ってみろ。すぐに偽札だと騒ぎになって、警察がすっ飛んで来るぞ。金はあるのに価値がない。つまりこれは紙同然。これもタイムスリップにおいてはよく聞く話だ。諭吉や英世に感謝しないのは今日が初めてだ。


 何も分からない1930年の日本を痛んだ足で駆ける理由は勿論、「現代への戻り方」を探すためである。方法に見当は付いている。これも映画やドラマの影響だが、あの川を探して飛びこめばきっと戻れるはずだ。

 あの白髭親父は、私があそこにたまたま居なければ、川へ突き落として時代を遡らせる事なんて出来っこなかった。

 悪い夢かもしれないが、夢なら夢なりに夢が覚める方法を探してやるのだ。


「すみません、玉川上水って何処にあるか知ってますか?」


 この時代にスマートフォンなんて使える訳がない。ジロジロ痛い視線を送られながらも勇気を振り絞り、道行く人に川の場所を尋ねる。こっちが丁寧に立ち止まって尋ねているのに、誰1人答えはしない。

 全身を見るだけ、見て終わりの見られ損。手がかりゼロ、疲労感100。あぁ、シンドイ。


 ドタキャンをされた後よりも歩いたし、走ったろう。いつの間にか陽は落ち始めていた。周りは家路を急いでいる。

 私は平成よりも大きく見える、それはそれは絵になる夕日に向かって足を進めるしかない。スニーカーはさらに汚れ、砂埃のせいですっかり黄色に変わっていた。


「マジでどうしよう」


 酷く絶望している。ポキッと心が折れて、その場に座り込み、顔を伏せた。腹も減ったし、喉も乾いた。休みたいし、頼れる人が欲しい。溜め息ひとつ吐く。

 けれど、解決するものは1つもございませんでした。座り込んだせいで、かえって疲れが増した。座ったことを後悔し、けれども直ぐに、ここで落ち込んだりしていても仕方が無いと自分に言い聞かせて立ち上がり、また歩く。


 下を見て歩いていると、此方が避けなくてもすれ違う人が避けてくれていたのに、どういうことか1人だけぶつかった。

 というより、立ち塞がってきたように思えたが、勘違いか。私がよそ見をしていたので、怒られるのも嫌だったので、目も合わせずに「すみません」と疲れた声で言ったが避けてはくれない。

 

 相手が本気で怒っているのかもしれないと思い、頭を上げて顔を見ると、おかっぱの可愛らしい顔をした少年が、手紙を持ってこちらに差し出していた。


「こ、これ落ちました」

「え……あぁ、どうも」


 記憶に無い紙を渡され、中は見もせずにカーディガンのポケットに突っ込む。どうせレシートか何かだ。朝にコンビニでパンを買った。きっとそれだ、うわぁ。要らない。こんなのは何の役にも立たない。

 しかし、少年は「その紙は、み、見たほうがいいです」と恥ずかしそうに体をモジモジさせて言うのである。


「だって、ホ、ホントウは落としてなんか無いんですから……」

「は?」

 

 なんで嘘をついた。嘘を吐いた意味はなんだ。顔を赤くして、照れてる場合か。

 決して立ち去ろうとはしないので、さっさと済ませようと仕方がなくを見ると「東大に来てください。支援します」と細く綺麗な字で書いてある。


 東大というと、恐らく東京大学。日本で一番頭のいい学校。平成にだって縁のない場所が1930年に来てみたら縁がある、なんてことがあるのだろうか?


「渡す相手を間違えてない?」


 からかわれているのだと、そう思った。


「いいえ、先生があなたって。う、噂になっている変な人、変わった格好だからすぐにわかると言われました。だって、あなた、へ、変だから。せ、先生が荷物を背負った人を探して呼びなさいと。す、すぐに判りました。だって、その、誰よりも変ですから」


 ちょっと、変って何回言った? オドオドしながら、曇りのないキラキラした目をしやがって。悪意がないのが腹立たしい。そう言いたいが、こっちが申し訳なくて怒れないじゃないか! 

 

「初対面なのに随分と毒を吐くんですね」と嫌味たらしく一言。

「ああ、すみません! 唾がかかりましたか?」


 毒って――違う、唾ではない。嘘はつけないタイプなんだろうが素直すぎる。出会って2分くらいで、名前も知らないこの子の悪気のない素直さが、傷ついた心に塩を塗ってくる。


 1930年の髪型なんて気にしたこともなかったが、男の子にしては長く、ツヤツヤで、実にキューティクルが眩しい。その輝きが純粋さをさらに引き立ててしまうから罪深い。

 顔は夕陽に照らされているのもあるとはいえ、真っ赤に恥ずかしがっているのがまた可愛らしく見えてくる。憎いのも顔が可愛いとチャラになるのか。


「あ、あのぉ、一緒に来て頂けますか? 先生が帰ってしまいます……」


 その子の後ろの夕陽が、だんだんと傾いていくのを見るとついて行った方がいいのだろう。それなら「東大の先生」だというのだから一般人よりは信頼できる。根拠は――頭が良さそうだから。それだけです。

 今日もこれからも、私のは帰る場所はない。誰も頼れないのなら、この縁にしがみついた方が良いはずだ。


「わかった、行こう。どっちに行ったらいい?」


 小学校高学年くらいの少年に案内してほしいと手を差し出すが、 その手を見るなり不機嫌な口調になって「こちらです」とスッパリ言い、石で出来た道を先導していく。

 何だ、恥ずかしがり屋なだけでしっかりしているのか。彼に言われるがままについて行く。


「ぼ、僕は体も気も小さいですが、今年で14歳になりますから」


 少年は大きな声で不機嫌の理由を言った。少年に悪いことをした。きっとプライドを傷つけてしまったんだろう。

 特に14歳は難しい年齢。私もそうだったかもしれないし、今でも若く見られてしまうのが少しコンプレックスだ。悪いことしたな、少年。


「ごめん、10歳くらいだと思ったんだよ。あのさ、私も若く見られるよ。もう22歳なのに18歳くらいにね」


 笑って言葉を返すと、少年はすぐに止まって回れ右。そうして目と目が合う。その目は丸く見開いていた。


「な、何?」

「あなたを、そのぉ、2つくらい上だとばかり……」


 どの時代も人の見方は変わらないのだろうか? この時代の14歳には、私が16歳に見えるらしい。

 「まじか」と返すが「まじか?」と繰り返しながらキョトンとされた。お互い、間違いを恥じたのか、話題を絞り出すようにして会話を繋げつつ歩いて行く。


 途中、そう言えばとお互い思い出したかのように名前を聞き合った。どうやらこの少年は吉次と書いて「よしじ」と言うらしい。平成にもいそうな名前に、遠い時代に来たと思っていたが、自分が思うよりそう遠いところでもないのかと、また意味もなく勝手に安心した。

 それだけで少し気持ちが軽くなった。本当にほんの少し、だけ。

 

 大学が近づいて来たのだろう。さっきよりも学生服やいい着物来て歩く青年たちが増え、すれ違う殆どがその割合を占め始めた。私を珍しいと見ているのは、きっと年の近い人達だ。

 彼らの手には分厚い教科書が複数冊握られている。東大というくらいだから、皆さん頭が良いんでしょう。


「大学に近付いて来たのか。ねぇ、先生は何してる先生?」


 吉次に尋ねる。


「せ、先生は、先生です。何をしてるかと言うと……あ、かっ、角を曲がればすぐですよ。か、要さんは困っていますから、先生に会ったらきっと助けて頂けます。早く校舎に入りましょう」


 答えになってねぇよ……と言いたくなったが、吉次は自分より大きい学生らにビクビクと怯え、緊張していた。

 ヤンキーに絡まれてビビっているいじめられっ子のように。なぜわかるかって、それは私も同じだから。 ガタイのいい人は力で勝てないと分かっているから。無駄に関わりたくないものだ。


 角を曲がる少し手前。左手に握っていたムラサキケマンが突然気になった。この花の名前も落とされる時に初めて知ったのに。

 花言葉は何だったか、あの親父はなんと言っていたか、思い出せないでいる。何となく頭には記憶の塊のようなものがある。それがモヤがかっているだけなんだ。きっとあと少しなのに、思い出せない。


「要さん、こっちです」


 吉次が角を曲がる。私も思い出しながら角を曲がる。そうして知らない誰かとすれ違った。そしてその人と目が合えばもう、きっかけはそれだった。


「私はあなたの助けになる!」


 知らない人の右腕を突然に掴む右手。ほかの学生よりも背の高い、眉の太い男の腕を掴んで言った。


「はあ」


 相手は突然の出来事に困った顔をしている。当たり前だ。今、私はあの親父となんら変わらない不審者になっている。

 この人は時代も違う、全く知らない赤の他人だ。

 

 でも、どこかで会った気もする。まただ、モヤモヤ。モヤモヤ。考え始める頭は面倒に動く。そのくせ思い出せない、鈍臭海馬。それでもこの男性の顔は、身近でいつもどこかにいた――気がするんだ。


「知り合いか?」

「いや」


 男の連れが聞くと手を払われて、歩いて行ってしまった。

 遠ざかって行く姿を見つめていると、不思議なことにさっきまで生き生きしていたムラサキケマンは萎れていた。


 吉次はビビって曲角に隠れ、「要さん、要さん」と私を呼びながら震えている。

 160センチ近くある私が見上げるあの男を、私よりも背の低い吉次が見たら小水を催してしまうかもしれない。


「ごめん、でも喧嘩を売ったんじゃないよ。多分、見たこと……いや、気のせいか。うん、ごめん。行こう」

「はひぃ」


 1930年に来て知り合いなんているはずはない。


 けれど、どうしてだろう。ムラサキケマンの花言葉を思い出せたことと、あの人に花言葉を伝えたことが、底知れないエネルギーになっていく。私はあの顔を知っているんじゃなかろうか。


 力無い声を出す吉次の背を撫でながら、東京大学改め、東京帝国大学の敷地に入る。


 夕陽はさっきよりもずっと西に傾いていて、すぐそこに夜が顔を見せていた。

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