ストロベリーフィールド ー 消えゆく世界 ー
永易侑真
第1章 見えない世界 ― ある男のある日の回想
空には奇妙な月が見えていた。三次元で球体であるはずのそれは、作り物の舞台のセットか、二次元世界の背景画のようにも見える。コンパスで中心から等しい長さに線を引いたような見事な円形だ。なんとも不自然に見えるのは、その色のせいかもしれなかった。揺らぐ雲が、その黄色い月を覆うと、辺りは一瞬濃い藍色に包まれた。わずかに角度が付いた月の位置から考えると、恐らく時刻は真夜中の零時を少し過ぎた頃だ。
さっきまで前方には小さな人影が見えていた。その影はもうかなり長い間動いておらず、華奢で小柄な影だった。俺たちは、少し離れた位置からその影を見つめていた。雲に覆われ月の光が遮られる度、その影は濃い藍色の世界の中で、大きな木の幹の影と同化してしまう。暗闇の中で懸命に目を凝らしていると、雲の隙間から黄色のまっすぐな光が差し込み、スポットライトで照らされたかのように前方の影を明るく包んだ。その影が、小さな子を胸に抱いていることに気づいた隣の男、猫背の相棒が、突然驚いたような声を発した。
「あ、あ、あれ、赤ん坊じゃないすか?」
「大きな声を出すな。やっとここまで来たんだ」
「でも、あんな小さな子を抱えていったい……。もうずっとあのままですよ。赤ん坊なのに何時間も声出さないし、泣き声ひとつしないっすよ。ひょっとして、もう……。あれって妙な
背中を丸めて弱々しいかすれ声を出した猫背の相棒は、上目遣いで懇願するようにこちらを見つめている。
「いや、何かある。間違いない。あの赤ん坊は確かにずっと動いてはいないけどな。俺たちが追うべきターゲットはそっちじゃない。証拠さえ見つければこっちのもんだ。何が起こるか分からんぞ。気を抜くな」
囁くような声で、けれど有無を言わさぬ圧力を含んだ声で発した俺の答えを聞くと、隣の相棒はしょんぼりと縮こまった。
ひたすら待つだけの時間が、これほど興奮するものだとは思わなかった。辺りには枯草の上を舞う風の音だけが聞こえる。満月の灯りは途切れた雲の間から幾つもの筋となって、前に続く道と高い丘を照らし、そのはるか向こうには、黒い影だけの森が広がっているのが見えている。
その森へは何度か行ったことがあるが、必ず同じ道に戻ってきてしまう不思議な森だった。前を行く影は、どこまでも続く森の手前を一日中歩き続け、決して森には入ることは無かった。そして突然立ち止まり、全く動かなくなった。後をつけていることに気づかれたのかと
目の前の道は周りの畑よりも少し高い位置にあった。道の両側は緩やかな下り坂で、下にある畑までつながっている。あの影から少し離れてはいるが、斜め後ろから地面に腹ばいになって下から見上げるには、最適な傾斜だ。それにしても、目の前の砂利道は、村の外れにあるというのに、ずいぶんと道幅が広い。かつては多くの人々が隣国へと往き来した道らしいが、今ではその面影もない。明るい時間帯でさえ、俺たち以外は誰も歩いている者を見かけなかった。道の先にあった隣の国は、疫病で数年前に消え去ったと聞く。
あの女はこんな所で一体何をしているんだ。ここに身を潜めてからというもの、見ている景色は一向に変わらない。そろそろ首が痛くなってきた。深夜にうつ伏せの姿勢で何時間も動かずにいるのは、さすがに堪える。この興奮は、そんなことでは治まらんが。しかしこの男、あれほど怖がっていたくせに、うたたねを始めている。まあ、うるさいよりはいいか……。
そんなことを考えながら、隣にいる相棒の寝顔を見つめて呆れていると、眠り始めた男の肩の上にいた鳥が、倒れてくる男の頭を面倒くさそうに避け、反対側の肩へと移動し始めた。その時だった。突然、地面が揺れ始めたのだ。全身の神経を張り詰め、地面に密着した腹の下から押し上げてくるような微かな振動を感じた。その揺れは徐々に大きくなってくる。振動し続ける地面から胸を離し上体を起こして前を見た。何かが近づいて来ているはずなのだ。けれど、月明かりに照らされた広い道の向こうには何の影も見えず、全く何も近づいて来る様子は見えない。ただ、地面の振動だけが体に響いている。眠る男の背に乗っていた鳥は、威嚇するように頭の毛を逆立て始めた。
「おい、起きろ。何か来るぞ」
揺り動かされた相棒が薄目を開きかけた時、道の前方に小さな渦を巻く黒い影が現れた。何かの動物の影が月に照らされて映っているのかと、辺りを見回したが、前方に見える大木と枯草が広がる大地以外はやはり何も見えない。その小さな円は、辺りの月明かりに照らされた景色より数段深く暗い色をしていて、見る間にその渦を広げ始め、渦を巻く真っ黒な丸い円の中心から目が離せなくなった。その渦巻く円が発生している場所の少し後ろに立っていた小さな影が、円の中心に向かって身体を動かそうとしていることに気が付いた時には、もう手遅れだった。
腹ばいの状態から慌てて立ち上がった時、目の前にあったはずの小さな影は、その腰のあたりから上を、回転する渦の刀でバッサリと切り落とされたように見えた。腰から下の部分だけが、ゆっくりと前方に倒れ込み見えなくなる。目の前に広がる恐怖の光景に、一瞬身動きが取れなくなった。ほんの一瞬だ。そして一歩後ずさりしたところに、運悪く、立ち上がろうとしていた中腰の状態の寝ぼけ顔の相棒がいた。まったく、この男は俺の邪魔をするのが仕事のようだ。相棒の男の肩につまずいてバランスを失うと、ふたりして畑の中へ転がり落ちた。鳥は、大きな羽をばたつかせて畑の真ん中まで逃げ飛んでいく。慌てふためきながら態勢を立て直し、畑の斜面を上がろうともがく俺たちの目の前で、渦巻く漆黒の円の外周が、一瞬、地面に着くほどの大きさまで波打つように大きく広がった。
その刹那、轟く音と共に四頭立ての馬車が二台、続けて暗闇の円の中心から飛び出してきて、一瞬で通り過ぎて行った。二台の馬車はあっという間に村の方向に向かって小さくなる。畑の下から見送った馬車の荷台には、相当な荷が積んであったように見えていたのだが、夢を見ているようでしばらく魔法にかかったように呆けて動けなかった。数秒ほど遅れて周りに激しく舞った砂ぼこりに咳き込むことになって、ようやく今通り過ぎたものが実在していた物であることを理解すると、我に返って追ってきた影のことを思い出して慌てて砂利道へと駆け上がったのだが、前方にあったはずの人影は完全に消えていて、切り落とされたはずの胴体も脚もそこにはなかった。つい先ほどまで黒い渦が見えていた場所まで走り、周りを見回しながら手を振り回し、地面に這いつくばって手探りしても、もうあの黒い渦はどこにもなくなっていた。さっきまでの物々しい騒音とは対照的な、柔らかな香りだけが辺りに漂っている。
「くそっ! やられた」
「……今の、夢……じゃないすよね。あの女、真っ二つに切られて……どこに消えたんすか? それとも、さっきの馬車に乗せられたんすかね? あれ、これ何の匂いでしょう」
「ライラックだ」
「こんな夜中に、花の配達って。あ、市場にいくんですかね。こんな夜中に?」
「おそらく、密売だ」
「密売? どこにでもあるような花をですか? あの馬車、どっから……?」
「分からん……が、女はおそらく……あの黒い穴の中だ」
「やっぱり、さっきの夢じゃないんすよね」
「お前は、ぐっすり寝ていたからな。まったく」
さっきまで眠りこけていた男の帽子のつばを上から軽く叩くと、いつの間にか主人の肩の上に舞い戻って来ていた忠実な鳥は、驚いたのか大きな羽を広げバサバサと羽音を立てた。さっきの轟音に身構えていた鳥は、まだ興奮したように頭の毛を大きく逆立てたままだ。
「まぁいい。すぐにその
前の道は、遠くの黒い森へと続いている。目の前の緩やかな上り坂と、道の左側に見えている巨木の位置を目で確認してから、目を細めて目の前の空間を見つめた。この巨木のすぐ右側、何もない空間に大きな渦を巻く穴が開いていたのを、今しがたはっきりと目撃した。夢ではないのだ。見えない世界への入り口が、ここにある。空に浮かぶ満月は、相変わらず黒い森のすぐ上で辺りを照らしている。
「必ずここへ戻って来い」
それは、たった今飛び立った
あの女に出会ったのは今日のことなのに、もうずいぶん前の気がする。
今朝、いつもどおりの巡回へ出かける前、『三連泊している一人旅の若い女性がいる』という話を鷹使いの相棒から聞かされた。小さな村でよそ者は目立つ。『若い女性の一人旅は最近の流行らしいが、こんな観光地でも無い所に何しに来たのか。いかにも胡散臭いので、念のため一緒に確認しておかないか』と誘われたのだ。相棒は、《観光地でも無い所に何か月も滞在している自分たち》が、村人にどう思われているか、については考えないようだ。相棒の男の目的は分かりきっていた。取り締まり目的などではなく、ひとりでいる若い女を見たいだけだ。そして、隙あらば、などとよからぬことを考えているに違いなかった。その女には大した興味も無かった。が、特にすることも無かったし、暇つぶしにはちょうど良い、くらいに考えていた。
不正輸出の取り締まりという名目で、生まれた国から遠く離れた同盟国の国境近くの村外れに赴任してからというもの、観光客を装って村々を訪れるだけの、毎日何ごともない日々だった。交代要員はいつまで待っても来なかった。長い休暇だと思って過ごすにはあまりにも何もない国で、さすがに滞在して三か月を過ぎるころにはもう見る場所もなくなった。なぜこんな辺鄙なところを見張らせているのか見当もつかなかった。他国での潜入捜査と言えば聞こえはいいが、これじゃ左遷のようなものだ。そもそもそんな密輸の話も、こんな何もない村では、本当かどうかさえ疑わしい。と、今日の昼までは思っていた。
相棒は鷹使いの名手という噂だったが、偵察や伝書用に鷹を飛ばしたことなど一度もなかったし、この国中を旅して、各地の絵葉書に『何事もなく皆元気です』と書き、それを報告書として時折国へ送ることが、国とのつながりを感じることのできる唯一の仕事だった。傍目には、異国の金持ちの若者が旅先で遊んでいるようにしか見えなかっただろう。
けれど、暇すぎることを除けば、俺はこの仕事が嫌いではなかった。すっかり旅行気分で毎日を満喫し、上官の監視の目も無く、のんびりした村で時間を気にせず悠々自適に暮らして給料をもらえる仕事は、出世欲のない俺たちにはこの上なく快適な職場だった。そんな俺たちふたりの目の前に、突然夢のような奇跡が舞い降りた……。
今日の正午が女のチェックアウトの時刻だと聞いて、相棒と共に宿までやって来て早くから宿の外で待ち伏せたのは、今朝のことだ。ようやく宿から出て来た女の荷物があまりに少ないのを見て、これは密売ではなさそうだと最初はがっかりした。
あれはいつもなら気にも留めず通り過ぎるような場面だった。あの女のフード付きのマントのような前開きのケープコートがわずかに開いて、女がドアに伸ばしていた手と反対側の、ケープに隠れていた腕の中に、小さな《包み》を抱えているのが垣間見えたのだ。あの時、声をかけるべきだった。けれど、声をかけようにも、ここに赴任してもう半年近くになるというのに、俺は、自分が自国の言葉しか話せないということを思い出した。それは鷹使いの相棒も同じだった。こんな辺境に送られて来る者に未来のために見えない努力をするような者などいない。そもそもが、世界の大半が我々の属国となり同じ言語を使っているのだ。『こんなところの言葉を覚えても役に立つことなど一生無い』と、いつも相棒と笑い合っていた。それが間違いだという事は明らかだった。どんなことでも、身に着けておいて損になることは無いのだ。
女を止める適当な理由が思いつかず、自分が目にした《包み》を見せろとも言うこともできないまま、それを女が隠さねばならないその理由について、俺は考えを巡らせていた。コートの下に見えていた《包み》は、まぎれもなく《赤ん坊》だったのだ。おそらく、生まれてから半年にも満たないだろう。どうやらさっきの相棒の様子からすると、あの時は俺にしか見えていなかったようだ。けれど、なぜ、こんな辺境に?
宿の外に立っていた俺たちに気が付くと、あの女は一瞬たいそう驚いた顔をして見せていた。それから近寄る俺たちに向かって、何故か、とても親しみのある優しい笑顔でほほ笑みかけてきた。どう見ても、まだ幼さの残る少女のようなあの顔つきは、十代後半くらいだろう。フードの下から覗く髪は、輝くシルバーのような淡い青色で、瞳もまた吸い込まれそうな青い色だった。迂闊にも笑顔でほほ笑みかける女の姿に見とれてしまった俺は、やっぱり男だったということだ。あんな風に見つめられると対応に困る。視線に耐え切れず女から目を逸らし後ろを見た時、相棒はただただ鼻の下を伸ばしてにやけた笑いを見せていた。
「あんな華奢な、まだ少女みたいな女が、密売なんかしているとは思えないっすね。あの、話しかけないんすか? あ、そっか、言葉できませんよね。俺たち」
「そんなんじゃない。そもそもあの女が、どこの国の言葉を話すかわからんのだから」
「いや、あの人が、どこの国から来た人であろうと、俺たち、自分の国の言葉以外できないからの間違いっしょ。でも、IDで身分を確認するくらいは……」
「一般人のふりをしている俺たちが、どうやってID確認するんだ」
「だから、とりあえずナンパ……」
下品な笑みを浮かべた相棒の頭を軽く平手打ちしかけたが、女が見ていると思うと、その手を途中で止めた。もう一度女を確認しようと振り返った時、驚いたことに、女はまだ俺たちを見つめていて、今度は怯えたような色をみせてから感情を消した表情になった。もしかすると、この女は、俺たちの言語が分かるのかも知れない。そう思って近寄ろうとすると、女はもう一度優しくほほ笑んでから後ずさりし、一言も発しないまま何事もなかったかのようにその場をゆっくりと立ち去った。コートの下に赤ん坊を隠したままで。
それは、《何か、ある》と確信した瞬間だった。
「おい。あの女を追う。
「え? 何のために? 何か聞きたいことがあるんなら、今、聞けばいいじゃないっすか。言葉なんかできなくても、あんな女、捕まえて連れて行けばいいんすよ。それに、あいつ、こんな昼間から起こすと、超不機嫌になってつつきまくるんすよ」
「うまい飯を腹いっぱい食わせるとでも言っておけ。捕まえるんじゃない。後を追うんだ。早くしろ」
小突かれた頭を撫でながら、相棒の男は、女が遠ざかったのを確認した後、首から下げていた小さな笛を吹いた。静かな虫の羽音のような音が風に乗って、しばらくすると立派な茶色い鳥が、白いストライプの入った羽を大きく広げ高い空から滑空してきて、音も無く優雅な動きで相棒の男の肩に止まった。あの鳥が、あれほど立派な羽を持った鳥だったという事は、今日まで知らなかった。その鳥、
馬車の轟音に怯えながらも暗闇の中で指令を与えられるまで耐えていた
かつて電子メッセージが主流の時代があった。けれど世界がネットワークにつながってからというもの、敵に情報を察知されにくい安全な手段はオフラインだけとなった。俺たちが、電力のある世界で取り扱うオンライン上の情報は、《誰に見られてもいい情報》だけにするのが鉄則だ。いずれにせよ、この電力も電波塔も存在しない隔絶された村では、迅速かつ安全な伝達手段など他になかった。
木の根の部分を枕にして寝そべると、相棒も安心したように隣に寝ころんで、すぐにいびきをかき始めた。そうして相棒と並んで寝ころびながら、人生初の大手柄になりそうな予感でいっぱいの今の状況に興奮したまま月空を見上げ、自分の勘の良さを改めて思った。
俺は勘だけはいい。これまでだって危ない方向を察知して、いくつもの戦いを生き延びてきた。俺は卑怯者でもなんでもない。自分の命を大切にしてきただけだ。この村の仕事も悪くは無かったが、そろそろ国へ帰りたいと思っていた頃だ。出世なんて興味は無い。けれど、おかしなもんだ。俺にも野心はあったらしい。それにしてもあの女、何故、赤ん坊を抱えていたんだ。
あの子供、見間違いで無ければ、あれは紛れもなく我々と同じ種族……。どこへ行っても気味悪がられる、俺たちと同じ容姿。あの女は母親なのか。いや、種族が違いすぎる。いったいどういうことだ。今、この辺境の地で何が起こっているというんだ。
まぁ、何が行われていても、俺には関係ないことだ。俺たちがここから抜け出せる日は近い。応援が来るまでもう少しの辛抱だ。どれくらい時間がかかるだろうか。それまで、少し眠るくらいの時間はあるだろう……。
そうやって眠りに落ちる直前、不思議な光景を見た。二次元映像のような月が、忽然と、その姿を消したのだ。不思議なことに辺りは一向に暗くならず、それどころか、明るさを徐々に増してゆく。眠っている相棒の後姿に沿っていた影は、大きく伸びて移動していた。さっきまで見ていた女の影と、地面に伸びた影、消えた二次元の月、三つの位置関係の違和感にようやく気が付いた時、風が大きな音を立て枯草を揺らして、辺りがライラックの香りに再び包まれた。同時に抗えない睡魔が襲ってくる。
今日の出来事を、俺はきっとこれから何度も思い返す。この話をしっかり記憶して……帰って国の皆にこの話を聞かせよう……。その時の、俺は……きっと……英雄……だ……。
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