第9話 母獣の過去と決意


 一人娘、ルーナは人として育てる。

 両親は、そう決めていた。

 そして、それには理由があった。


 − − − − − − − −


 ルーナの祖母は、「パリの狼」だった。

 1450年、城壁に守られたパリに狼の群れが侵入し、40人を喰い殺した。

 当然のことながら、住民は怒り狂った。

 その群れは、ノートルダム大聖堂の前に誘導され、その全匹が槍と石で殺されたという。

 群れは赤毛の狼が多く、スペイン北部に住むイベリア狼だと思われた。


 ただし、そのうちの1匹は、身重だったために仲間からはぐれ、ただ1匹ノートルダム大聖堂の前に辿り着けなかった。

 仲間をことごとく殺されたことを知った身重の雌狼は、人間に対する復讐を誓いながらパリを離れ、日の沈む方向に進みながら到るところで人を襲った。

 そして、ついに年配の修道士に捕らえられた。

 罠にかかり、宙に釣り上げられた赤毛の雌狼は、凶暴かつ虚しく空を噛み続けた。


 修道士は、絶望に荒れ狂う狼に優しく話しかけた。

「お前は殺さないよ。

 お前の怒りはわかる。

 だけどね、お前には人の怒りもわかって欲しいんだ。

 お前は100を超える人を殺し、いにしえのガレノスのいう生気プネウマを体内に溜め込んできた。

 私はその生気プネウマを誘導し、お前に、知恵と長寿を与えよう。

 私は、C.R.C.。

 お前は人と獣を繋ぐ存在ものとして、これからはその両方の怒りを背負って生きていきなさい」



 赤毛の狼は、自分がなにをされたのかの理解はできなくても、人語を解すようになった。さらには、人の姿を取ることすら可能になった。


 人とは、狼の、羊や牛の狩りを妨害する生き物ではなく、羊や牛を育て、増やしてきた者だと理解した。

 人の立場を理解すると、狼と相容れない立ち位置にいることも理解することができた。

 そして、殺し合う以外の道を選ばなければ、狼に未来はないことも、だ。


「私は、これからどうしたら良いのでしょうか?」

「これから生まれるお前の子たちも、お前と同じ力を受け継ぐだろう。

 このまま狼の生活に戻ってもいい。

 もはやお前は、人を襲うことはないだろうから。

 学ぶのであれば、母子ともども私と一緒に来るがいい。

 私もまだ道半ば、だ。

 エルサレム、イエメンで学び、モロッコからドイツに帰る途中だが、やはり生まれた地のドイツから世の中をより良く変えたいと思っている。手伝ってくれたらありがたいな」


 よくよく見れば、修道士は年配と言うより、もはや老人と言っていい。身にまとう雰囲気は若々しいのに、肉体には相応の労苦を刻まれてきたのだ。

 その修道士が、狼に対して怖がることなく、温和な眼差しで照れたように語る。


 人語を解するようになったとは言え、赤毛の狼は狼の質も残っている。

 赤毛の狼は、その質のままに、この修道士を自分のリーダーとして認めた。

 凶暴なまでの強さではなく、その温和な眼差しに対して服従を決めたのは、それでも狼の質が幾分かは変化したからかもしれない。



 その後、赤毛の狼は、生み育てた子とともに影に日向にこの修道士を守り続けた。黒い森シュヴァルツヴァルトの闇からも、人為による悪意からも、だ。

 そして、修道士がついに106歳で亡くなったあとは、手元に残った1人の娘とともに、その墓所を120年に渡って守りきったのだ。



 − − − − − − − −


 母親は、父親に語ったことがある。

「私の母は、C.R.C.とともに、狼と人の間を生きたの。

 私の子供時代は、C.R.C.の後半生とともにあった。

 私は、300年以上を人として生き、もう狼に戻ることはないと思う。

 娘もきっと同じ。

 ならば、人としてよりよく生きて欲しい。

 きっとそれは、100人を喰った母の贖罪にもつながるから」

 と。

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