とある1日の寄せ集め
たんつ
大学生とレポート
夜空の月と目があった。月の目がどこかなんて、知らないけれど。
空を見上げた視線を水平に戻し、アパートの前の自販機を眺める。眼球を攻撃するような明かりにうんざりする。
光るもの。そういった意味では同じ部類なのに、上空の球体とどうしてこんなにも違うのだろう。そんな益体もないことをぼうっと考えながら、エナジードリンクのボタンを押す。210円。
高い。とは思いつつも、実際に僕はこの価格でも買っているわけだし、適切な価格設定なのだろう。だいたい、大勢の大人たちが立派な会議室で慎重な議論を重ねた結果がこの価格なのだろうから、僕みたいな若輩者が意見を言う隙は一分もない。
ガタン、と落ちてきた冷たいアルミ缶を手に取り、部屋へ向かう。スマホを見ようとするがポケットにない。部屋においてきたのか。
ため息二つ。一つはスマホを置いてきてしまったことに。二つめは、自室とアパート前の自販機の往復、そのごく短い時間さえ、スマホがないとため息が出てくることに。
そんなため息は置き去りにして、僕は部屋に戻った。パソコンの前に座り、アルミ缶の栓をあける。眼前の液晶には自分で書いたのに自分で理解できない国富論についての考察がつらつらと綴られている。経済史の中間レポートだ。1430字。あと2570字。長い。
『神の見えざる手』なんてものが本当にあるのならその手でレポートを進めてくれ。そんなことを願ってみてもレポートは一文字も進まない。神に頼るのは諦めた方が良さそうだ。
僕はひとまず文字数を稼ぐ作業に移った。違和感が出ない程度に句読点を増やし、漢字をひらがなになおす。やり過ぎると教授に文字数稼ぎがバレてしまうため、そのさじ加減、見極めが大切となる。文字数指定のレポートをこなすために大学生には必須のスキルだ(と、僕は勝手に思っている)。
1443字。時計をみると、短針が1と2のちょうど間を指している。まだ夜は長い。ひとまず休憩するか。そう思いアルミ缶を手にとったとき、机の上を振動が走る。
カフェインが回りきっておらず眠気でぼうっとしている頭は、怪奇現象かと判断しかけたが、一瞬でその判断は誤りだと分かった。スマホの画面に“やちる”と表示されていたからだ。
常識をわきまえた大人の方であれば、こんな時間にけしからん。と思われるのかもしれないが、幸いなことに常識をわきまえていない若者である僕は、空いている方の手で何のためらいもなくその電話に出た。
「おう、どうした」
何も考えず尋ねる。
「ううぅ、どうしよう」
水気たっぷりの声で呻いている。
長くなるな。そう覚悟した僕は、アルミ缶をほぼ垂直に傾け一気に飲み干した。
電話の内容はなんとも女子大生っぽい相談だった。具体的には、彼氏に浮気された。でも好きだから別れたくはない。と言った話を延々と続けていた。
「最低だとは思うんだよ、私も。でもぉ、好きなんだよねぇ」
どうでもいい。本心はこの一言に尽きるがそれを口にするわけにはいかない。適当な相槌を打ち聞き流すことに徹する。
そんな僕の豊富な相槌のパターンが20周ほどした頃だった。
「ありがとう。なんか、決心できたよ」
聞き流しすぎて何の決心かは正直全くわからなかった。だが、通話の終わり際であることだけは簡単に理解できたので
「それならよかった」
と、電話を切った。スマホの画面右上にはAM4:45の表記。パソコンの左下の表記は1443字。
空は、白んでいた。
Jポップの歌詞なんかでは、夜明けは良いものの例えとして用いられるけれど、本当にそうだろうか。現に僕は夜が明けてしまったことを嘆いているわけで。僕以外の人だって夜が明けて朝が来るとまた働かなきゃいけないわけで。
多忙な現代人にとって、夜はある種「唯一の楽園」なのではないだろうか。その終わりを告げる夜明けとは、いわば「楽園の終わり」を象徴するのではないか。あ、でも僕にとって夜はレポートをやる時間であって楽園とはいえないか。
そんな、世の中になんの効用も生み出さないことを寝不足の頭で考えながら僕は電車に揺られていた。
電話を終えた後、レポートを終わらせることを一旦諦めた僕は三時間の仮眠ののち、2限の講義に向けて学校へと向かっていた。もう夏と言っても差し支えない6月末の日差しが車窓越しに僕の体をいじめる。もちろん、太陽にいじめるなんて意思はないだろうから寝不足ゆえの被害妄想なのだけれど。
「大学前駅、大学前駅です」
名前の通り、大学の最寄駅であるその駅で僕を含む多くの学生が降りた。僕たちが降りると電車はすぐに次の駅に向かって発車した。車内は平均年齢が2倍くらいになっていそうだな。そんなことを考えて上がりそうになった口角を抑えつつ、僕は大学へと足を動かした。
駅から大学までは徒歩で10分強。大学前駅という名前なのだから、もう少し近くであってほしいという願望は電車通学の学生全員が持っているだろう。
特に今日みたいな晴れた日は、学校に着く頃には汗だくになってしまう。気位の高い女子なんかは、汗をかいたまま授業に出たくないからとわざわざ30分ほど早く学校について講義までに汗を引かせているらしい。無論、気位が高くない男子である僕は講義に間に合うギリギリの電車に乗っているので、関係のない話ではあるが。
とにかく、そんな長い道のりを経て講義室にたどり着いた僕は出席確認用の感想用紙を手に取り、席についた。講義室内は強めのクーラーが効いており、若い男子にとって最適な空間だ。
寝不足の大学生がそんな空間に耐えられるはずもなく、僕の意識は五分と持たず彼方へ消えて行った−−。
ガラガラ、ガタン! 石像が如く鎮座していた若者たちが一斉に立ち上がり慌ただしく荷物を片付け始める。
その音で意識を取り戻した僕は半分も開いていない目を左手首の円盤に向けた。12時丁度。講義が終わる時間だ。
二限の講義、公共政策学の湯出川教授、通称ゆでハゲ(ゆで卵型のハゲという残酷極まりないあだ名である)は、出席さえしていれば単位をくれるとても“優しい”先生だ。
その優しさに存分に甘えた僕は、一度も目覚めることなく90分間の惰眠を貪っていたらしい。
多くの学生が片付けを済まし、ガヤガヤとつまらない話(具体的に会話を聞いたわけではないけれど学生の会話なんて大体つまらないものだ)をしながら出口に向かっている。
2限がおわると大学は昼休みに入る。いわゆるランチタイムだ。今出て行った学生も大半は食堂へ向かったのだろう。そろそろ僕も向かおう。と、言いたいところだが、今日の僕には腹を満たす前にやるべきことがある。
幸いなことにゆでハゲのおかげで寝不足は解消できている。一つ大きく伸びをしてから、僕はパソコンだけが入ったカバンを持ち大学の付属図書館へと向かった。
附属図書館は大学に隣接しており学生は誰でも利用できる。図書館という名前に反して本を読むという目的で使用されることは少なく、自習や空きコマの溜まり場として使用されることが大半だ。なんなら、本をどかして席数を増やした方が喜ばれるのではないかと思えてくるほどである。
そんな巨大溜まり場、もとい付属図書館は、期末テスト期間はほとんどの席が埋まっているが、まだ学期半ばの六月。学生の姿はまばらだ。
二階へ続く階段を登ってすぐ左。福祉・介護のコーナーあたりの机が僕のお気に入りだ。なにせこのコーナーには僕の興味をそそる本が一冊もない。おかげで作業に集中できるというわけだ。
そういうわけで、老老介護の実態、高齢化社会の生き方、などといった暗くどんよりしたタイトルに囲まれながら、パソコンを開いた。相変わらず小難しい言葉が並んでいる。
国富論。アダム・スミスとかいう人の著作で、経済学を語る上で欠かせない本らしい。
そんなことを言っても、今後僕が経済学を語ることはないから、僕にとっては欠かしてもいいよなぁ。と思いそっとパソコンを閉じようかと思ったが、卒業に単位は欠かせないという現実にぶち当たりパソコンを閉じようとする手を必死で止める。
提出期限は今日。こんなものを書いている暇はいよいよ無い。さて、そろそろ本格的にレポート作成に移るとしよう。
そうして、僕は謎の小説紛いの文章がかかれたワードを閉じ、経済史のレポート作成に移るのであった。
終わり
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