沼津幻海録~ぬまづげんかいろく~
澄ノ字 蒼
第1話 カモメと幻想海
一年半勤めた会社を退職した。辞めてから一度行きたかった静岡県沼津市に遊びに来た。熱海駅まで出てそれから電車で何駅かだから結構楽だった。どうして沼津に来たかというと美味しい海鮮を食べたかったのもあるし、港町を取材して小説や絵を描く題材にしたいから、あとは某アイドルアニメの聖地だからである。僕は青春モノに弱い。泣くのをこらえて健気に頑張っている姿を見るとこっちまで泣きたくなってしまうし応援したくなる。
沼津駅に到着して、まずは沼津港に行く。おいしい海鮮丼を食べさせてくれる店がたくさんあるからである。それにアニメに使われた水門というものを見てみたいからである。
水門が見える桟橋に来ると、何枚も写真を取った。水門はコンクリートでできていてまさしく海につながる門であった。そこには綱で結ばれた何艘もの白い船が水面を漂っていた。ぴ~ひょろろ~、と何とも呑気な鳴き声も聞こえる。目を凝らすと遙か上空に円を描くようにして茶色い姿のトンビが飛んでいる。
コンクリートの上から海を眺めると何種類もの小魚たちがきらきらと輝く身体をくねくねとくねらせながら泳いでいる。コンクリートに波が打ち付けられ、ぱしゃぱしゃ、ぱしゃぱしゃ、と心地よいリズムを奏でている。
近くにあった石に腰掛けると目を閉じてそよそよと身体を通りすぎていく風を感じる。
ぴ~ひょろろ~
ぴ~ひょろろ~
ぴ~ひょろろ~
トンビが鳴いている。
きゅーきゅーきゅー
きゅーきゅーきゅー
カモメも鳴いているのが分かる。
すると一匹のカモメが上空から舞い降りてきて近くにやってくる。逃げられないように、そおっと、筆箱とスケッチブックをかばんの中から取り出す。筆箱の中から鉛筆を取り出しスケッチブックを開くと目の前のカモメのスケッチを始めた。頭の位置、身体の位置などを軽く描いていく。かもめはこっちを向くと目をぱちくりと瞬き、そして銅像のように動かなくなった。
「おーし、動かないでね」
なかなかカモメをうまく描けない。悪戦苦闘していると、ふと声が飛んできた。
「イケてるカモメに描いてな」
思わず声のした方を見る。例のカモメしかいなかった。カモメがじっとこっちを見ている。まさかカモメがしゃべったとか。
まさか、疲れているだけだ。疲れて幻聴が聞こえただけだ。景気づけに炎印のエナジードリンクを飲み干し少し休む。そしてまた絵を描き続ける。そして絵を描き上げる。うれしくなってカモメに話しかける。
「カモメ、カモメ、君の絵が出来上がったよ。まあ出来はいまいちだけど」
帰ろうとすると、
「モデルやってやったんだから絵ぐらい見せてよ」
カモメがぐいっと絵を覗いてくる。そして、ふふっ、と笑った。僕は恥ずかしくなって絵を隠す。するとカモメが、
「なんで隠すの?」
「だって君笑ったじゃないか!」
カモメはもう一回、ふふっ、と笑うと、
「笑ったのはね。君の目にはこの世界がこんな風にみえているのか、って胸がわくわくしたんだよ」
「カモメも絵を描くの」
「ちょっと筆を貸してごらん」
筆箱の中から筆を取り出すとカモメに渡す。カモメの目が妖しく輝く。筆の先から輝く虹色のなにかがほとばしり始めた。カモメは空に、ささっ、と何かの魚を描く。魚が虹色で輝いている。虹色魚が、きゅーい、きゅーい、と鳴いている。
「何の魚?」
「カツオだよ。見て分からないの?」
「いやカツオは、きゅーい、きゅーい、と鳴かないだろう」
思わず突っ込んでしまう。カモメが僕のことをじっと見ている。そして、
「カツオだって、きゅーい、きゅーい、と鳴きたくなることもあるだろうよ」
虹色カツオが僕とカモメを背中に乗せる。いつの間にかカモメが骨の存在だけになる。カツオは勢いよく空を泳ぎ出す。
カツオガオソラヲトビマシタ、トサ
カツオがオソラヲトビマシタ、トサ
ワッショイワッショイ
ワッショイワッショイ
ユウヤケコヤケ
ユウヤケコヤケ
カツオガオソラヲトビマシタ、トサ
カツオガオソラヲトビマシタ、トサ
今度は、虹色カツオが海へと潜っていく。
「待ってよ。待ってよ。溺れちゃう。死んじゃう。死んじゃう」
パニックになってしまう。降りようとするがここは広大な海のど真ん中だった。骨カモメはにやにやと笑っている。そしてそのままカツオと僕たちは海へともぐりこんでしまった。目を閉じて息を止める。
「安心しな、息できるから。ここは幻想海だから」
骨カモメの声がした。それでも息を止めている。苦しくなって息を吸う。息が吸えた。
「空気がある?」
「だから言っただろう。ここは幻想海だから」
「幻想海って?」
カモメは、はあっ、って顔をゆがませる。
「幻想海は幻想海だよ。ほら太平洋とか大西洋とか日本海とかあるだろう。それと一緒だよ」
地図は詳しくなかったので素直に感心してしまった。
「へええ! そんな場所があるんだ」
「世界は広いからね」
八本足のたこが屋台でたこ焼きを売っていて、釘を口にくわえたリュウグウノツカイがはちまきを締めてサンゴで出来た屋敷の門の寸法を虹色に輝いている長い定規で測っている。あれは鯛だろうか? 踊り狂いながら小さい太鼓を叩いている。飴売りのふぐが
「飴、飴はいらんかね」
と言いながら飴を売っている。カモメが呼び止める。
「いくらだ」
「5個で100円」
「ほらよ」
カモメは飴を受け取る。
「まいど」
ふぐは腹を大きくふくらますとお辞儀してどこか行ってしまった。カモメは飴を口に放り込む。そして、いう。
「下手だとかうまいとかそんなに大事? いかに自分の作品に真剣に取り組んだかということだと思うよ。そして自分の歌を高らかに歌い続けたかということだと思うよ」
なんとなく骨カモメの背中に後光が差しているように見える。ほへえ、と感心していると、
一匹の歩くエビが
「アジの”まご茶漬け”はいらんかねっ」
て叫びながら屋台を引いている。
「おおい桜エビの旦那! 二杯アジの”まご茶漬け”をくれ」
「へい! 旦那!」
骨カモメは目をきらきらさせて僕を見る。
「まあせっかく沼津に来たんだったらアジのだし茶漬けを食べて行きなよ」
桜エビの旦那は生け簀の中からアジを取り出すとさばき始める。そして目の前にほかほかのお米と上に分厚いアジの刺身とわさびとが乗ったどんぶり、そして、やかんと薬味が置かれる。薬味はショウガ、ネギなどが刻んで小皿に乗って置いてある。
「お兄さん! いくらだい!」
「1200円だよ」
カモメは羽根の中から財布を取り出すとお金を支払う。僕も払おうとするとカモメがさえぎる。
「いいってもんよ」
僕は何度も頭を下げる。
「それよりこりゃうまそうだ」
と言ってアジの刺身に食らいつく。
「ほれほれ、お前さんも食べなさい。沼津に来たからにはこれを食べないと」
僕も食べる。アジの刺身のぷりぷりした歯ごたえをかみしめる。桜エビの七味唐辛子も振りかける。今度はぴりっとした辛さが口の中に広がる。癖になりそう。カモメは半分ほどアジの刺身丼を食べると、薬味をどんぶりの中に入れ、やかんの中のダシをアジの刺身丼にかけ始めた。
「これがまたうまいんだ」
「やってみな」
僕も、どんぶりの中に薬味を入れると、やかんの中のダシをかける。アジの刺身丼がダシの湯でほかほかになる。アジの刺身が熱いだし汁で身が引き締まる。生の刺身の時とは少し変わって、少し身が引き締まる感触になる。
食べ終わって一息つくとカモメは爪楊枝を使ってくちばしに挟まっているアジの肉などを掃除し始めた。カモメは言う。
「沼津最高だろ」
「うん」
「こんなもんじゃないぜ。沼津はよお、海鮮丼に舟盛りにみかん。桜エビ。いっぱいあるぜ」
カモメの目がきらきらと輝いている。
カモメが空に筆を勢い込めて振り上げ大きいクジラを描く。クジラは描かれた瞬間から虹色の水を吹き上げる。そして、ぷおーっ、と叫ぶと海を駆けていく。カモメはクジラを眺めながら、
「そうだな。やっぱり好きに描いて良いんだよ」
骨カモメが、へへっ、と笑う。顔には筆の墨がついていた。僕も、へへっ、と笑う。骨カモメの姿がぼやけてくる。
「いい青春を! いい旅を! そして沼津を楽しんで!」
骨カモメに触れようとするが、もう骨カモメは半透明になっていて触れられなかった。
「待って! まだ話足りないよ」
「じゃあね。同志よ」
気がつくと一人ぼうっと先ほどいた港のその場に座り込んでいた。頭がぽうっとする。何が起こったのか分からないまましばらく座り込んでいるとどこかのお店の店員さんであるおじいさんがやってきて
「大丈夫かい」
と声を掛けられた。
「ここはどこですか?」
おじいさんは心配そうに見つめてくる。
「ここは沼津港だよ。ねえ、あなた本当に大丈夫?」
「大丈夫です。大丈夫です」
と答えて慌てて立ち上がるとお辞儀をしてその場を立ち去った。歩くとベンチがあったのでしばらく座って休んだ。
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