金魚

あべせい

金魚



「ホントよ。いましゃべったのッ!」

 と、OLの木川希美(きかわきみ)、32才。

「バカ、言ってンじゃないよ」

 と、昔の流行歌の歌詞そのままに、希美に応えたのは、同棲中のカレ、義埜寿鷹(ぎのとしたか)35才。

 希美が、もう一度、

「ホントにしゃべったのォッ!」

 と、言って指差すのは、直径30センチほどの水鉢のなかを優雅に泳ぐ金魚だ。

 金魚がしゃべるなンて聞いたことがない。テレビや雑誌では、うちの飼い犬や飼い猫は「しゃべるンよ!」と言って自慢する、ひとりよがりの飼い主が、時折紹介されているが、金魚がとりあげられた例はない。

 希美が飼っている金魚は、よく見かける流金。尾びれが吹き流しのように分かれていて、体を左右にユラユラと揺らしながら、華麗に、ゆったりと泳ぐ。

 流金は2匹。赤と白が混在したのと、全身白一色のだ。希美は、赤と白のブチのほうを「アカネ」、白いほうを「シロハ」と名付けている。そして、しゃべったのは、シロハよりほんの少し大きい、アカネのほうだ。

 希美と寿鷹は同棲して半年。しかし、希美は、寿鷹と同棲する2年以上も前から、アカネとシロハを飼っている。

 アカネとシロハが棲む金魚鉢は、希美がフリーマーケットで見つけた磁器製水鉢だ。

 水鉢としては小ぶりだが、ガラス製の金魚鉢と違って、上からしか覗くことが出来ない分、金魚にとってはストレスがかかりにくいのか、2匹ともこれまで一度も病気知らずできている。

 希美はこのアカネを駅前商店街の、とある店で手に入れた。有体に言えば、買ったのではない。店主からプレゼントされたのだ。

 その店は商店街の外れにあり、間口が1間半、奥行きが2間ほどの小さなスペースしかない。

 扱っている商品は、陶器が中心だから本来は陶器屋といったほうがいいのだろうが、店先の看板には「陶器と金魚の蟻坂」とあり、店の中が見通せるウインドウと、シャッターの間の奥行1メートル弱、幅2メートル弱の細長いスペースに6基の水槽が、金属製の3段の棚に置かれている。

 水槽は1基、縦25センチ、横90センチ、深さ30センチのいわゆる90センチ水槽。そのそれぞれの水槽に、和金や流金をはじめ、いろいろな金魚とメダカが、種類ごとに入れられている。

 その下の床は、横長の薄茶色のタイルが敷き詰められているのだが、希美がその店の前を通ったときだった。何かが、そのタイルの上で跳ねた。

 よく見ると、体長数センチの小さな赤っぽい金魚だ。

 希美は慌てて、店の自動ドアを開け、

「タイヘン! キンギョが!……」

 店の中に向かって叫んだ。

 すると、奥から、

「いらっしゃいませ」

 と、まずはのんびりした声が聞こえ、

「何か、ありましたか?」

 そう言いながら、中年の男性が入り口に立つ希美のほうにゆっくりとやってくる。

「表で、キンギョが、跳ねています」

「はァ?……」

 現れたのは、40才前後のオジさん。店主の蟻坂だろうが、商売に身が入らないのか、希美の緊張した声にも、反応が鈍い。

「キンギョです。オジさん、お店の金魚が水槽から跳び出たンですよッ!」

 希美は、たまらず蟻坂の手をつかみ、表の水槽の前に引っ張り出した。

「アッ、これですか」

 蟻坂はようやく事態を理解したらしいのだが、

「いや、これはうちの金魚じゃない」

 と言って、踝を返す。

 そんなバカなッ。希美は急に腹が立った。かといって、店の前のタイル張りの上で跳ねている金魚を、そのままにしておくわけにいかない。

「待ってください。この金魚を水槽に戻さないと、死んでしまいますヨ。オジさん、それでも、あなたは、生き物を扱うお店のひとですかッ!」

 希美はそう言うとたまらず、その金魚を手の平に掬いとり、

「どの水槽ですか。戻しますから……」

 3段に積み重ねてある6基の水槽を順に見て行く。

「わかりました。こうしましょう」

 蟻坂は、店内のどこに隠してあったのか、細くて赤いビニール紐のついた、葉書大の小さなポリ袋を取り出すと、中段の水槽のひとつに漬け、ポリ袋をその水槽の水で満たした。

 そして、

「この中に入れてご覧なさい」

 と言って、ポリ袋の口を両手で開いて希美のまえに差し出す。

 希美は手の平のうえでグッタリしている金魚を、急いで、そのポリ袋の中に落とした。

 すると、金魚はたちまち息を吹き返した。いままでの苦しみようがウソだったかのように、ポリ袋のわずかな水のなかを、ゆっくりと泳ぎ始めた。

「お嬢サン。それ、お持ちください」

 蟻坂は、やりかけの仕事でもあるのか、奥に目をやりながら言う。

「エッ!? い、いッ、いいンですか? おいくらですか?」

 希美は心のなかで、その金魚を飼わざるを得ないとすでに思っていたから、蟻坂のことばに逆らう気持ちはなかった。

「うちのじゃないから、お代はいりません」

「そんなッ。それはいけません」

「あのね。言っているでしょ。そいつはうちで売っている金魚じゃない、って……」

「そんなことが、どうしてわかるンですか」

「それはね……」

 店主は言いかけたが、店の奥のほうを振り返って、

「いま忙しいから、こんどお来しになったときに、お話します。じゃ、私、忙しいから……」

 そう言い残すと、奥に消えた。

 ひとり店の前に取り残された希美は、赤いビニール紐で吊り下げられたポリ袋の金魚を改めて見つめた。

 それが、アカネとの出会いだった。

 希美がアカネを見ていると、アカネはチラッと希美を振り返り、何か言いたげに口をパクパクさせた。


 翌日、希美は会社帰りに、「蟻坂」に立ち寄った。アカネは、昨日希美の帰宅後、間に合わせに台所にある透明のボールに入れられた。

 アカネは元気だ。でも、何かが足りない。食べ物……。

「ごめんください」

 希美の声に、まもなく店主が昨日と打って変わって、にこやかな顔付きで現れた。

 希美の顔を思い出したらしく、

「あァ、昨日の……何か?」

「金魚の餌をいただきたくて。それに水草も……」

 希美はスマホで金魚の飼い方について調べた。その結果、固形の餌のほか、カモンバと呼ばれる水草なども必要とわかったからだ。

「そうですか。あの金魚、お飼いになっていただいているのですか」

「ハイ、わたし、いままで生き物を飼ったことがなくて。見ていると、とても心が落ち着いてきて、自分の生活に足りないものが見つかったような気持ちがして……」

「そうですか。それはありがとうございます。餌と水草でしたね」

 店主はそう言い、ドアの内側の商品棚から、小さな箱に入った餌と、発砲スチロールの箱の中からカモンバを1束取り出してポリ袋に入れ、希美に寄越した。

 こんどは、勿論料金は請求した。

 希美は支払いをして帰ろうとしたが、そのとき、ハッとして昨日のことを思い出した。

「あのォ……」

「エッ?」

 店の奥に戻ろうとした店主が振り返る。

「蟻坂さん、ですね」

「そうですが……、私は、蟻坂羽尾(ありさかはねお)と言いますが……。何か?」

「昨日いただいた金魚、『アカネ』と名付けたンですが、どうしてこちらの売り物じゃないとおっしゃったのでしょうか?」

「アカネ、ですか。いい名前だ。わかりました。お話します。いまはちょうど、娘は塾に行っていていないから。そこの椅子で……」

 昨日は娘の相手で忙しかったのだ。

 店の奥に、居間に通じる素通しのガラス戸があるが、陶器が並ぶ商品棚のちょうど脇に、応接用なのだろう。小さな丸いテーブルを挟んで2脚の肱掛椅子が並んでいる。

 希美は勧められるまま、そこに腰掛け、蟻坂と1メートル弱離れて対面した。

 心理学では、個人が見ず知らずの他人と隣り合わせになっても許せるギリギリの間隔、すなわちパーソナルスペースは概ね45センチとされている。

 希美は、蟻坂という人物に関心はあるが、相手は40男だ。警戒する気持ちも働いているから、最初2脚の椅子はテーブルを挟んでも50センチしか離れていなかったため、20㎝ほどそっと後ろに椅子をずらして腰掛けた。

「あの金魚、アカネちゃんはね……」

 蟻坂は、そんな希美の胸中に気がつくはずもなく、次のような話をした。

 その1ヵ月ほど前だった。

 蟻坂の店では、金魚が飼えなくなった人のために、引き取りサービスを行っていた。

 海外に長期出張するとか、離婚して飼えなくなったとか、さまざまな事情から、店の前に「不要になった金魚を無償でお引き取りします」という貼り紙を出したところ、週に少なくとも一人の客が引き取って欲しいと数匹の金魚を持参するようになったという。

 このため、蟻坂は、6基ある水槽の1つを、真ん中に仕切り板を入れて、引き取った金魚専用のものに変えた。しかし、引き取る金魚の数は、週を追う毎に増える。

 引き取った金魚は売ればいいのだが、タダで仕入れたものを売りつけて儲ける、といった行為は、蟻坂の性格が許さない。商売人として、タブーを犯していると感じられるからだ。

 では、どうすればいいのか。このサービスを始める前に、そのことを考えておくべきだったことが悔やまれた。

 彼は、当初、「捨てられる金魚を救う」という思いつきに飛び付いた。彼は、走る前に考えるのではなく、走りながら考えるタイプだった。

 蟻坂は、やむなく、引き取りサービスを3ヵ月で中断することを決めた。このままでは、引き取った金魚で、水槽があふれかえる恐れが出てきたからだ。

 「しばらくの間、引き取りサービスを休止させていただきます」の貼り紙を店のドアに貼り出した、その日の午後だった。

 朝から晴れていた空が一転、にわかに黒い雲に覆われ、30分もしないうちに雷鳴が轟き、激しい雨が降ってきた。商店街のレンガ敷きの歩道にも、たたき付けるような雨が降り注ぎ、蟻坂はそのようすを見ようと店の入り口のドアを開けた。

 すると、大粒の雨が勢いよく跳ね返る歩道に、体長数センチの1匹の金魚が、ピチピチと元気よく跳ねている。

 一瞬、蟻坂は水槽から跳び出たのかと思ったが、各水槽の金魚の数は、彼の頭に入っている。数に問題はなかった。

 それに第一、その金魚は流金だが、赤と白のぶちの配色が、彼には見覚えのない金魚だった。あと考えられるのは、「引き取りサービス」を中断したため、だれかが無断で店の前に置いていった、いや捨てて行った、ことになる。

 蟻坂は、引き取りサービスが招いた悪しき結果だと考え、その1匹を引き取り用の水槽に入れた。それが、アカネだった。

「蟻坂さん、アカネは、この店でお売りになったものですか?」

 希美は、ふと湧き起こった疑問を口にした。

「それがよくわからないンです。うちでは流金は2基の水槽に、その大きさで分けて入れていますが、アカネちゃんには見覚えがない。かといって、うちにいた金魚ではない、という自信もありません」

 蟻坂は、そう言って天を仰いだ。


 希美は、寿鷹に、アカネを飼うようになったいきさつを話すと、もう1度水鉢の中のアカネを見つめた。

 アカネは雷雨とともに空から降ってきた。そして、希美が「蟻坂」の前を通る瞬間を狙い、水槽から跳び出た。だから、アカネは希美が天から授かった金魚、いや天使かも知れない。希美はそう思うことにした。

 シロハは、アカネに遅れて1年の後に、「蟻坂」で購入した。最初数センチだったのが、いまではアカネとほぼ同じ体長7、8センチにまで成長している。

 アカネとシロハの2匹は、まるで連れ添う夫婦のように、仲良く寄り添って泳いでいる。

「こいつら、オスとメスなのか?」

 寿鷹が大して興味もないのに、そうつぶやいた。

 金魚にも、もちろんオスとメスがいる。ネットで調べると、「追星(おいぼし)」と呼ばれる白い小さな斑点が出るほうがオスらしい。しかし、アカネにもシロハにも追星は見られない。まだ、繁殖期ではないということなのか、それとも両方ともメスなのかもしれない。

 金魚のオスとメスが同じ水槽にいると、繁殖行動としてオスがメスを追いかける行動をするが、それもいまのところない。

「わからないわ。両方ともメスかも知れない。でも、仲がいいでしょう?」

 寿鷹は返事をしなかった。

「アッ、またしゃべった」

 アカネを見つめていた希美が、つぶやく。こんどは、斜め後ろにくっついているシロハに話しかけているように、口をパクパクさせたのだ。

「オイ、いい加減にしろよ。いったい、こいつが何をしゃべったというンだ?」

 寿鷹が腹を立てたように言う。

 希美は思う。本当のことを言ったら、ケンカになる。

 最初にアカネが言ったのは、

「早く、別れなさい」

 だった。

 そして、いまアカネが後ろからついてくるシロハに言ったのは、

「うちのご主人、日和見だから……」

 だった。

 希美は、日和見と言われて、ショックを受けた。自分自身、煮え切らない態度に、嫌気がさすことがよくある。

 シロハは、そのことばに対して、口を閉じている。シロハはまだ希美の耳に聞こえるほどしゃべることができないのか。それとも希美に似て、日和見なのかも知れない。

 希美が寿鷹と同棲するようになったのは、希美の意志からではない。簡単に言えば、寿鷹が希美のアパートに転がり込んできたのだ。

 半年前まで、2人は中規模の運送会社の、同じ支店の同僚同士だった。その支店には従業員が約30名いた。

 現在は、寿鷹が別の会社に移り、コンビニの配送ドライバーをしている。

 その日、運送会社近くの居酒屋で、新人歓迎会が開かれた。新人歓迎会といっても、3ヵ月もたてば、2、3人がやめ、同じ数だけ補充採用されるから、数ヵ月に一度は、従業員の半数ほどが出席して、歓迎会が開かれている。

 呑み助には都合のいい会だが、お酒に余り興味のない希美は、毎度のことだから、気が向いたときにしか出席しないようにしていた。

 しかし、その夜は、新人に2才年下だが、彼女好みの男性が新人ドライバーとして入社してきたので、ちょっと出てみようかという気になった。

 希美には当時、恋人はいなかった。2年前好きになった男から、交際を始めて数ヵ月後、耳の当たりを拳で力一杯殴られ、耳が聞こえづらくなったことがあった。

 以来、希美にとって男は信用出来ない存在になった。その男は、その後、ATM荒らしを重ね、いま服役している。

 新人歓迎会が始まり、1時間ほどしてから、希美の気になる新人には、同棲している彼女のいることが発覚して、彼に対する希美の関心はすぐになくなった。

 歓迎会はだいたいいつも2時間で終わる。飲み足りない連中は、二次会と称してハシゴをする。希美は、まだ会の途中だったが、「用事を思い出したの」と、親しい女性の同僚に言って、席を立った。

 アパートに帰れば、化粧を落としてシャワーを浴びて寝るだけの、侘しい日常が待っている。

 希美には、ほかに楽しみがない。でも、アパートには、アカネとシロハがいる。アカネとシロハを見ていれば、時間が過ぎるのを忘れることが出来る。

 ところが、その夜、居酒屋を出ると、後ろから声を掛けてきた男がいた。

 それが、寿鷹だった。寿鷹の年齢は希美の3才年上。寿鷹については、それまで、嫌いでも好きでもなかった。希美にとって、寿鷹は、全く気になる存在ではなかった。だから、仕事以外の話はしたことがない。それも、週に2、3度、「これ、お願いします」といった、短い会話をかわす程度。

 希美は配達依頼を受け付けるカウンター業務、寿鷹は配達する2トントラックのドライバーだ。

「どう、コーヒーでも飲まない?」

 寿鷹は軽い調子で誘ってきた。しかし、顔を見ると、緊張している。

 希美は腕時計を見た。午後9時少し前。11時までに帰れば、明日の仕事に支障はない。

「いいわよ」

 2人は、駅に行く途中の喫茶店に入った。テーブルも椅子も小さい、長時間は居辛い、格安コーヒーのチェーン店だ。

 寿鷹は、趣味の話をした。彼は、パソコンをいじるのが好きで、ネットオークションで買い物をしたり、全国の名産を取り寄せていると言い、希美の反応に関係なく話し続けた。

 職場での寿鷹の評判は、可もなく不可もないといったもので、目立つ存在ではない。仕事は人並みにできるが、飛び抜けて出来るというのでもない。ただ、彼を悪く言う者はいなかった。職場の女性との浮いた噂もなかった。モテるタイプではないのだろう。

 しかし、希美は寿鷹の話を聞いているうちに、ひとのよさそうな彼の笑顔に好感を抱いた。つきあっても、いいかな、と。暴力さえ振るわなければ、許そうか、と。

 こうして希美は寿鷹と交際を始め、1ヵ月余りで同棲を始めた。

 寿鷹はそれまで勤めていた、希美のいる運送会社をやめ、いまの職場に移った。

 寿鷹は、先月から、

「おれたち、そろそろ結婚しないか?」

 と、しきりに言うようになった。

 希美も、結婚を考えないことはないが、いまは、寿鷹とは、どこか、何かが、合わない気がしている。しっかり避妊しているのもそのためだ、と自分では思っている。

 寿鷹の、どこが気に入らないのか。いや、どこがよくて、彼と一緒にいるのか。

 希美は、もう若くない。32才は、ひと昔前なら、もう婚期を逸している。35才の寿鷹も、男としてラストチャンスだと思っているかも知れない。

 しかし、でも……。希美は、いまの生活を振り返り、こんな生活が続くような結婚なら、願い下げだと思う。

 ウキウキ、ワクワクすることがないのだから。いまの寿鷹は、ふつうの、世間によくいる男にしか見えない。希美はもっともっと、刺激が欲しい。もっと、わたしを興奮させてくれる、何かを持った男と結婚したい、と思うようになっている。しかし、希美はそのことを寿鷹に言ったことがない。

 寿鷹は、希美と同棲する前までいたアパートを引き払って、希美のアパートに越してきた。希美のアパートは、1DKだ。2人の生活には、手狭すぎる。

 希美は考える。いま寿鷹が出ていっても、わたしは困らない。戻って欲しいとも思わない。わたしは、決して、彼のあとを追いかけないだろう。むしろ、出て行くことを望んでいるのかも知れない。

 ある朝、目覚めると、いつもそばにいた男がいなくなっていた。希美は、そんな朝が来てもいいと思っている。

 アカネが、希美のことを「日和見」と言ったのは、的を射ている。希美は優柔不断で、決断力に乏しい。かといって、嫌いなことには手を出さない。自分の考えを押し通すことはしないで、損をしないように、右左を見ながら暮らしている。

 だから、当然、心からの満足はない。

「希美、金魚のことはあとにして、ちょっと真面目に聞いてくれないかな」

 寿鷹が、水鉢を覗き込んでいる希美の肩にやさしく触れてから、そう言った。

「なァに?」

 希美は、アカネから視線を外さずに応える。

「この前から言っていることだが、結婚だよ」

「ケッコン?」

「おまえにその気がないのだったら、おれはここを出て行くかも知れないゾ」

「そォ……」

「止めないのか?」

 希美は黙った。

「止めないわよ」と言いたいのだが、それを言うと、たいへんなことが起きそうな気がする。だから、口を閉じ、アカネを見つめたままでいる。

「おまえは大事な話になると、いつも黙るよな。答えないのは、ノーということだろう?」

 希美はそれでも無言のままだ。

「それなら、それでいい。おれにもおれの考えがある」

「考え、って?」

 こんどは、寿鷹が黙った。

 そのとき、アカネが口を開いた。

「もう、2人とも、やめたら……」

「エッ!?」

 寿鷹はびっくりして、水鉢のアカネを覗いた。

「こいつ、いま何か、言ったか!」

 希美は、

「ううん。何も。わたしには聞こえなかった」

「そうだよな。金魚がしゃべるわけがない」

 寿鷹は納得したのか、それっきり、ノートパソコンに向かい、その画面に没頭した。


 翌日、希美が帰宅すると、ダイニングの小さなテーブルに、紙切れがあった。

「おれ、出て行く。荷物は後日、取りにくるから」

 と書いてある。悪筆だ。寿鷹の字であることは一目でわかる。

 希美はホッとした。なぜか、心の底からうれしくなった。寿鷹の荷物といっても、着替えくらいだから、段ボール2つもあれば詰められる。ノートパソコンは持っていったらしく、いつもの机の上からなくなっていた。

 希美は、水鉢を覗きこみ、話しかけた。

「出て行ったみたい。アカネもシロハも、それでいいと思っているンでしょ」

 すると、アカネが、

「金魚はしゃべらない。でも、寿鷹にどうして聞こえたのだろう。あの男、危険だよ」

「どうして?」

「わたしの声は、希美の深層心理。だから、このままだと、寿鷹はいつの日か、希美の心のなかを覗きだす……」

 希美は、アカネの声が、自分の深層心理から出たものだと知って、気が遠くなるのを感じた。

                 (了)

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金魚 あべせい @abesei

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