第96話 衝撃・呆然・現実。

 本日は、新しい施設担当の内科医さんを受診。

 どちらかというと無口だった夫は、待合室でやたらと饒舌。


 それは良いのですが、とにかく頼みごとが多い。

「腕時計持って来て」

(デジタルの置時計、お部屋に置いてますよー)


「スマホ持って来て」

(用意したタブレットはどうしたん? タブレットの方、画面大きいよ)


「DVDプレーヤー、長男と次男に買ってもらえ」

(なんで命令系? 第一、DVD自分じゃ入れられないでしょう……)


 そんな感じなので、話を変えました。

「そういえば、字は書ける?」

「うん!」

「おぉ~。じゃ、これに名前を書いてみて」


 メモ用紙に名前を書く夫。

 うん? 微妙に漢字間違っているけれど、敢えてそこには触れません。

「書けるようになったんだね。凄いね」


 褒められたことが嬉しかったのか、夕方、施設に着替えを持って行くと

「筆記用具、ここに置いて」

 と夫が言いました。


 なにか、書きたいようです。

 枕元にメモ用紙とボールペンを用意すると、夫はボールペンのペン先の出し方が分かりませんでした。


 私は驚きましたが、ボールペンの頭を押してペン先を出して夫に渡しました。

 ちょっと目を離してから、夫は何を書くのだろうと視線を向けると――


 夫は、ボールペンの頭を歯で噛んで、ペンをグルグル回しています。

 その光景に大きな衝撃を受けたのですが、咄嗟にボールペンを取り上げます。

「なにしてんの⁉ 歯がかけちゃうよ」


 夫は、ポカンとしています。

 私は、全身が凍りつくような衝撃を受けてます。


 そう、私はコロナ禍という陰で、短時間の面会しかしていなかったので、夫の現実を知らなかったのです。一年以上も気づかないまま過ごしていたのです。

 以前とは違う、それはわかっていました。でも、日常の動作を忘れてしまう程変わっているとは思っていなかったのです。想像できないような行動を取るとは思っていなかったのです。


 ボールペンが危険だとわかった私は、枕元に置いておくことはできずに引き出しにしまい部屋を出ました。呆然としたまま……


 二階のエレベーターの扉が開くと、可愛らしいおばあちゃまが出てきました。

「あら、私、間違ったみたい。三階に行きたいのに……。私、わからなくなっちゃうの」


 エレベーターは一階に向かっています。おばあちゃまは二階で降りて、またエレベーターに一人で乗って三階に行けるのでしょうか?

 なんだか、ほおっておけなくてエレベーターを上行きに設定し、一緒に三階に行きました。

「お部屋の番号はわかりますか?」

「それが、わからないの……」


 わからないを繰り返しながら、付き添う私に何度もありがとうを言って下さる可愛いおばあちゃま。なんだか温かくて、ショックで萎んでいた私の心が少しほぐれていきます。こんな気分の時に、可愛らしいあばあちゃまに遭えたことは奇跡でした。おばあちゃまをスタッフさんにお願いして、私は施設を後にしました。

 

 頭の中では、夫がボールペンを噛んでいた映像が何度も浮かんできます。


 夫の現実を知らなかった方が幸せだったとは思いません。

 ただ、この現実に心がついていかないのです。

 以前、友だちが言っていた言葉が浮かんできました。


「母がね。全く違う人なの……。私の知っている母がいないのよ。それが辛い」


 そうだね。

 今なら、その気持ちがよく理解できるよ。

 私の夫もそうなったみたい。

 

 続いて昨年の医師の言葉が蘇る。

「手術しても寝たきりの可能性があります。このまま手術しなければ、心臓は止まります。手術しますか?」


 手術をせず夫を亡くしていたら、私は「夫を見殺しにした」という罪の意識に一生苛まれる。そんな十字架を背負って生きるのは嫌だった。私は、その罪の意識から逃れるために手術をお願いした。


 でも、夫はどうだったのだろう?

 夫は今の生活を望んではいなかったはず。


 夫に申し訳ないことをした。

 でも、過去は変えられない。

 この現実を受け入れながら、生きていくしかない。


 夫から全ての楽しみが消えたわけじゃない。

 今の生活の中でも、小さな灯を燈すことはできるかもしれないのだ。


 



 

 

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