上書きと救済
狐
2009年
渋谷。夜。人混み。スクランブル交差点を抜けて、原宿方面に移動している途中だった。パルコの前の信号待ちで声をかけられた。
「おねえさん、どこいくんですか」
いつものことだと放っておいた。渋谷はナンパや勧誘の数こそ多いが、無理やり連行されたり、罵声を浴びせられたりすることはほとんどない。無視を決め込むのが一番穏便な方法だった。
「おねえさん、」
信号が変わるまでの辛抱だと思った。
「ねえ、」
声が途切れたのでどこかへ行ったのだろうと横をみると、こちらを見ている柔和な顔立ちの若い男がいた。まずい、まだいたのか、と思ったのも束の間
「、…う、」
男がぐしゃ、と表情を崩して嗚咽を漏らしたのでさすがに慌てた。これがよくなかった。
「え、」
大丈夫ですか、と声をかけるまでもなかった。見るからに大丈夫ではない。自分とは無関係の人間だ、放置しても咎められるはずはなかったが、そのままそこに置いていくのは気が引けた。周りの視線も痛い。
「大丈夫ですか?」
大通りから少しはずれ、宇田川町のあたりにある人気のない駐車場に男を置いて、コンビニであたたかい缶のコーンポタージュを買ってきた。何をやっているんだろう、と思わないでもなかったが、心配だったのだ。あんたはお人好しすぎる、というのは自分の親友の談で、自覚はなかったがあながち否定できないのかもしれないな、とぼんやり考えた。
「すみません」
男は申し訳なさそうに身を縮めて謝った。何があったのか知らないけれど、少し落ち着いたようだ。コーンポタージュを差し出す。これを渡したらもう帰るつもりだった。
「はい、じゃあ私行きます」
ね、と最後まで言えなかった。コーンポタージュを差し出したその腕をぐい、と引っ張られる。完全に予測していなかった方向に力を加えられたので、身体は簡単にバランスを崩されて男の方へ倒れ込んだ。
引き寄せられ、耳元で男が薄く笑うのが聞こえて、今までの全部が演技だったのだと分かった。
どうして。なんで私が。こんなところで。この人は誰。どうして。こわい。助けて。何か意味のある言葉を、大声を、と思うのに、自分の喉からはひゅ、と呼吸の通る音しかしなかった。男の手が服の裾から入ってくるのを感じる。
「油断したね、おねえさん」
本当に怖い時、何も声が出ないのだと知った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます