何かの終わりは何かの始まり -4-

「まず、おかしいと思ったのは、急な外泊をしたことで……早朝から仕事に出たのに、夜になっても帰ってこなくて……それから早馬便で手紙が届いて、『今日は帰れない』と」

「はやうまびん?」

「足の速い馬に乗って急な知らせを手紙で届けてくれるサービスのことです」


 電話がないから、そういうものを使うのか。

 なかなか不便だ。


「その時は、仕事で仕方なくだと思ったんですが、そういうことが度々あるようになって」


 それから、日勤になったり夜勤になったりと、不定期に勤務形態が変わるようになったらしい。

 ……残業や急な出張は不倫の言い訳に使われがちだ。少し、きな臭いな。


「それから、研究中に大切な資料を忘れたことを思い出して、家に取りに戻ったことがあったんですが……仕事に行っているはずのネリーがなぜか家にいたことがあって」


 仕事を早退して家に帰ると不倫現場に出くわすというのもよくある話だ。

 もっとも、その時は決定的な場面には出くわさなかったらしいが。


「ネリーは風呂上がりだったんです。真っ昼間だというのに。話を聞いたら汗をかいたから風呂に入っていたのだと……先週の話ですよ?」


 先週は、吐く息が白くなるほどに寒かった。

 というか、俺がここに来てから暑かった日はない。汗をかくような気候ではないのだ。

 毎日汗だくになるような仕事だというなら納得も出来るが、その時だけというのはなんとも怪しい。


「それでその……その時、体が、チラッと見えたんですが……手首に、縄で縛ったような痕が……」


 それはまた……なんとも際どい。


「変なことをお伺いしますが……デニスさんにそういったご趣味は?」

「あるわけありません! 僕は……普通の、その、そういうのでも、恥ずかしいのに……」


 あまり、夫婦生活に積極的ではない様子だ。


「ちなみに、ここ最近は?」

「ネリーがパートに出るようになってからは、一度も。ネリーが、『疲れているから』と」


 不倫をしている女性は、配偶者との性交を嫌がることがあると聞く。

「疲れているから」は、断りの常套句だ。


「それから、あの……僕は、あまりそういうのは詳しくないのですが、キッ、キ、キスマークと言うんですか? そういうのが、ネリーの太ももの辺りに、チラッと……」


 太ももにキスマーク……

 当然、デニスさんが付けたものではないのだろう。


「あの、アサギさん……」


 ちょいちょいと、服の裾が引っ張られる。

 ツヅリが口のそばに手を添えて、小声で尋ねてくる。


「キスマークって、なんですか?」

「…………エスカラーチェに聞いてくれ」


 説明できるか、そんなもん。

 耳元で、ウィスパーボイスで『キスマーク』とか言われた直後なら、なおのこと無理だわ。

 不可能と言っても過言ではない。


「ごほん。他には、何かありますか?」


 もう結構『クロ』に近い証言は得られたが、話題を逸らしたい一心で話を振る。

 ツヅリも、好奇心を抑え込んで、おとなしく座り直してくれた。


「ラブレターを、もらっているかもしれません」

「ラブレター、ですか?」

「えぇ。見たわけではないのですが、ネリーが僕に隠れてこそこそと手紙を読んでいて……覗き込もうとしたら隠されて……それっきり」


 日本なら、メールやメッセージアプリに該当するものなのだろう。

 それが押さえられれば証拠としてかなり強いのだが……警戒されているなら入手は難しいだろう。


「あと、男の名前を……」

「呼び間違えられた、と?」

「いえ、寝言で、なんですが……『トム』、と」


 寝言で別の男の名前、か……結構行くところまで行ってしまっているかもしれないな。

 デニスさんのことを『トム』とは言わないだろうし、聞き間違えってこともないだろう。

 ……相手はトムか。本名か愛称かは分からんが。


「あとは……その……」


 デニスさんが丸眼鏡の向こうからチラリとツヅリを見た。

 何か言いにくいことなのだろう。

 ツヅリもそれに気付いて笑みを浮かべてデニスさんに話の続きを促す。


「わたしのことはお気になさらずに、話をなさってください」

「で、では……あまり女性の前でする話ではないのですが…………ネリーは、こう、割と子供っぽい下着を愛用しているのですが……その…………かなり際どい下着を、隠し持っていまして」

「まぁ……」


 ツヅリが口を押さえて頬を薄く染める。


 際どい下着も、不倫にはまった女性が手を出しがちなものだ。

 相手の趣味なのか、自分から進んでなのかは知らんが。


「こう、まるで紐のような、お尻が丸出しになるような下着で……」

「過去、そういった下着をネリーさんが穿かれているのをご覧になったことは?」

「な、ないですよ、そんなもの!」


 ツヅリの質問に、顔を真っ赤にして首を振るデニスさん。

 デニスさんには刺激が強過ぎる下着らしい。

 紐のようでお尻が丸出しとなれば、Tバックか。

 確かに、際どいな。


 ツヅリですらそんな下着は持っていないだろう。

 もしツヅリがTバックを穿いていたら、俺でもひっくり返る。そんな下着をツヅリが…………




 思いっきり、自分の頬をはたいた。




「アサギさん!?」

「いや、すまん。なんでもないんだ。気にしないでくれ」

「で、でも、赤くなってますよ……?」

「大丈夫だから、あんまりこっちを見ないでくれ」


 こんな俺の顔を見ないでくれ。

 ……なに考えてんだ、俺は。馬鹿か? バカなのか?


「事情は、分かりました」


 話を戻す。


「デニスさんの話を聞く限り、状況はかなり悪そうです」

「……ですよね。ショックです……まさか、ネリーがそんな尻軽女だったなんて……」

「ですが、それはあくまでデニスさんの話を聞いた限りの感想です」

「そうですよ、デニスさん。わたしも、このお仕事を始めてからいろいろ見聞を広めたのですが、一人の人間が見ている世界というのはとても狭いものなんですよ」


 要するに、お前の勘違いである可能性も否定できないと、ツヅリは言っているのだろう。


「離婚を決めるのも、悲観的になるのも、わたしたちの調査が終わるまで待っていただけませんか?」

「しかし……」

「愛して、いらっしゃるのでしょう? ネリーさんのことを」

「…………」

「信じたいと思っている――そんな風に、わたしには見えましたよ?」

「…………確かに、出来ることならネリーを信じたいです。でも、状況証拠が……こんなにも出揃っていては……」


 弱気になり、見るものすべてがネガティブに見えているのだろう。

 デニスさんは今にも泣き出しそうな表情を見せる。


 少しだけ、発破をかけておくか。


「イチリア族は研究種族なんですよね?」

「え……? えぇ、まぁ」

「なら、結果を究明するまで、諦めるのはやめましょう。まだ早計です」

「…………はは。これは手厳しい」


 ここに来て、初めてデニスさんが笑顔を見せた。

 苦しそうで、今にも泣き出しそうな儚い笑みではあったが。


「分かりました。もう少しだけ、結論を出すのは待ちます。どうか、よろしくお願いします」


 デニスさんはテーブルに手を突いて、もじゃもじゃの頭を深く下げた。





「さて、どうするかな」


 少々わざとらしくそんなことを言ってみたが、返事はなかった。


 デニスさんが帰り、事務所には俺とツヅリの二人きりだ。

 見送りまでは普通にしていたツヅリが、今はソファに座ってボーっとしている。

 空になったティーカップも出しっぱなしで。

 いつもなら、俺が気付くより早く片付けを始めているのに。


「カップ、下げるぞ」

「あ、すみません! わたしが」

「いいから」

「……すみません」


 ボーっとした状態でカップなんか洗わせたら、きっと割ってしまう。

 手早くカップを洗い、ソファへ戻ると、先ほどとまったく同じ格好でツヅリがボーっとしていた。


「何か気になることでもあったか?」

「え? あ、いえ……たいしたことではないのですが」


 言いにくそうに言って、こちらをチラリと窺う。

 なんだ?


「目に見えないと、不安になるのでしょうか?」

「ん?」


 ネリーさんの浮気を疑うデニスさんの話か?


「まぁ、分からないから不安になるんじゃないか?」

「でも、何もかもを知っているわけでは、ないですよね?」


 こちらを見つめるツヅリの目は、まるで縋るように必死で、それでいてとても弱々しく見えた。

 ヘアテールが不安げに震えている。


「秘密があるのと、信用できないのは別なんじゃないか?」

「別、ですか? 秘密を抱えているから信用されないのではないんですか?」

「まぁ、それは状況によりけりだろうが……」


 なんだ?

 ツヅリは何を求めているんだ?


 ネリーさんの話であれば、ネリーさんは何かしらの秘密を持っているのだろう。

 ラブレターやトムという名の男の存在。

 正体の分からない者の影がちらついたからこそ、デニスさんは不安になっているのだ。


 けれど、秘密を持っている者が全員信用できないかと言えば、それはNOだ。


「俺だってお前に言ってないことはあるし、エスカラーチェなんか謎だらけじゃないか。お前は、そんな俺たちを信用できないか?」

「そんなことは……っ! ……つまり、状況によりけり……と、いうこと、なんです、よね?」


 まぁ、そうとしか言いようがないんだが。

 どうにもツヅリは納得していないように見える。


「もし何か不安なことがあるなら話してくれるか? 俺に出来ることなら協力するが」

「いえ、大丈夫です。たいしたことでは……ありませんから」


 まだ話をする踏ん切りはつかない。……そんな顔だな。

 なら、無理やり問い質すようなことはしない。


 ただ、ツヅリが何かを不安に思っていることは確かだ。



『目に見えないと、不安になるのでしょうか?』



 その言葉がキーになっている気がするのだが……正直、よく分からない。

 自分が誰かを信用できないと思っているのか、自分が信用されていないと不安になっているのか、はたまた単純にデニスさんに感情移入し過ぎて深く考えてしまっているのか。


 踏み込めない以上、今は深く考えるのはやめておく。

 注視して、必要があれば行動を起こす。それしか、俺に出来ることはなさそうだ。


「とりあえず、ネリーさんに会いに行くか」

「そう……ですね」

「デニスさんの住所は聞いてるし、今回はエスカラーチェの手を借りなくてもなんとかなりそうだな」

「そうですね。毎度毎度巻き込んでは申し訳ないですからね」


 デニスさんに書いてもらった用紙を片手に出発の準備を始める。

 今回はすんなり話を聞くことが出来るだろう。


「ツヅリ。日中も寒そうだから上着を持ってきた方がいいぞ」

「いえっ」


 咄嗟に。そんな雰囲気で首を振り、そして、意識的に声を落として、ぎこちない笑みを浮かべてツヅリが言う。


「わたし、寒いのは平気ですので、このままで大丈夫です」

「……そうか?」


 窓の外を見れば、木枯らしが吹いている。結構寒そうだけれど。


「さぁ、一緒に行きましょう。アサギさん」

「お、おう」


 ぎゅっと俺の手を掴み、ツヅリが歩き出す。

 俺は引っ張られるようにして事務所を後にした。






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