鋼鉄に守られた繊細な心 -2-

 まださほど話はしていないが、それだけでも十分に分かるのは、このアレイさんが本当は離婚なんかしたくないと思っているということだ。

 自分に自信がなく、ご主人が寡黙ゆえに意思の疎通がうまく取れていない現状を悪い方へと解釈し過ぎているように思える。


 このマイナス思考と、名前を褒められただけで照れてもじもじしてしまう様子から察するに、アレイさんはあまり男性に慣れていない。

 いろんな経験を積んで視野は広がっていく。それが、アレイさんには圧倒的に足りていないのではないだろうか。

 内向的な性格が災いして、愚痴を言ったり相談したりするような相手がいないのかもしれない。

 だから、不安を全部自分の中に溜め込んでしまっている――そんな感じがする。


 だとすれば、今抱え込んでいる不安を全部吐き出させてそのすべてを否定してやれば、嫌われているという被害妄想から解き放たれて、離婚なんてものは取り下げるかもしれない。


 なるべく気負わなくていいように、軽い口調で明るく問いかける。


「ご主人の口数が少なく、自分に自信がないから嫌われていると? それはただの思い込みなんじゃ……」

「あの人は私に興味がないんです!」


 俺の言葉をかき消すようにアレイさんが叫んだ。

 それはまるでガラスが砕けるような甲高い音で、アレイさんの心が発したSOSのようだった。


 このままでは自分の思いが封殺されてしまう。

 それを感じ取って懸命に抵抗をした……そんな感じか。


 少し、考えを改めなければいけないな。

 下手に突けば拗らせてしまうかもしれない。


「悪かった。じゃあ、聞かせてくれ。ご主人がアレイさんに興味がないと思った理由を」

「…………」


 叫び慣れていないのか、アレイさんは胸を押さえて肩を上下させていた。

 少しの間、口を閉じて待つ。


「……あの、笑わないと、約束してくれますか?」


 しばらくして、そんな言葉を不安げな声で投げかけてきた。


「もちろんです」


 それに答えたのはツヅリで、俺も首肯して同意を示す。

 それを確認して、アレイさんは小さく頷いた。話す覚悟が出来たのだろう。

 一度俺をチラッと見てから、顔を背けて語り始めた。


「主人の気を、引こうと…………際どい、いわゆる、攻めた服を……その……お食事の時に、着て、みたり……」


 頬を両手で押さえながらぼそぼそと話すアレイさんの言葉に、「まぁ……」とツヅリが驚いたような恥ずかしそうな声を漏らす。


「下着が見えそうな、ミニスカート、とか、……す、透け透けの、ネグリジェ、とか…………は、は、裸に、エプロン……とかっ!」


 限界だとばかりに両手で顔を覆ってこちらに背を向けるアレイさん。


「そ、想像してはダメですよ、アサギさん」


 と、諫めるように真っ赤な顔をこちらに向けるツヅリ。


 けれど、不思議なものだな。

 すーっごい心が凪いでいる。

 俺の心、この話の間ずっと凪。一切の波紋も起こらず、波立たなかった。

「ふーん」以外の感想が出てこない。


「それで、ご主人の反応は?」

「え? ……あの…………無表情、でした」


 だろうな。

 俺的な感覚で言えば、お地蔵さんが赤い前掛けしか身に着けていなくてもまったく卑猥だと感じられない。そんなものなのではないだろうか。


 いやいやいや。

 ここは俺の常識が通用しない『世界』だ。

 アイアンゴーレムが存在して、あまつさえ結婚するような『世界』なんだ。

 きっと、ものすごく思いきったサービスシーンだったのだろう。俺の理解が及ばないだけで。


「もしかしたら、ただ不器用な人ってだけかもしれないぞ?」


 不意のパンチラを見て見ぬ振りするのが紳士的と言われることもある。

 妻の失態……もとい、行き過ぎた行為をなかったことにしてあげようという優しさなのかもしれない。

 朴訥な職人であれば「婦女子は清純であれ」って思想かもしれないし。


「けど…………勇気を出して……いるのに……無視されて……」


 伝わってないだけなのではないだろうか。



「それに、最近は…………暴力まで……」



 その言葉で、俺の中の何かが切り替わった。

 単純な想いの行き違い。過剰なマイナス思考。

 アレイさんを説得すればどうにかなるだろう。

 そんな甘い考えが一瞬でかき消え、音が鳴るほどに気持ちが引き締まった。


 暴力、だと?


「具体的に、教えてくれないか?」


 本気で助けてやる。

 そう思った。


「あの……最初は、無視されても、遠くから見つめていただけ、だったんですけど……それじゃダメだと思って、主人の前に回り込んで、アピールを、したんです……『私を見てください』と…………そうしたら……バチン……と」


 そっと、アレイさんの左手が左の太腿に触れる。

 そこを、殴られたのか。


「私、驚いてしまって……何かの、間違いだって、思いたくて…………何度か、チャレンジしてみたんです…………けど、毎回、……バチンって…………もう、私、『煩わしい』って、言われてるとしか…………思えなく……て……っ!」


 そうして再び、アレイさんは嗚咽を上げて泣き始めてしまった。


 無視をして、それでも健気にアピールをしてきた女性に対して、煩わしいと暴力を振るう。

 ドメスティックバイオレンス、か。


「ツヅリ、声をかけてやってくれ」

「へ?」

「『大丈夫だ』って。『もう一人じゃないから』って。『何かあったら俺たちが味方になる』って」

「それでしたら、アサギさんが直接言って差し上げた方がいいのでは? 本人の言葉の方がきっと伝わると思いますよ」

「いや……」


 蹲って震えるように咽び泣くアレイさんを見上げて言う。


「もしかしたら、乱暴な男に恐怖心を抱いている可能性もある。俺じゃない方がいい」

「あ……そういうことも、あり得ます、ね」


 悲しそうに眉を歪めて、弱々しい微笑みで頷いてくれた。


「分かりました。アサギさんの言葉、しっかりとお伝えしてきます」

「頼む」


 アレイさんの腕を撫でながら優しく声をかけるツヅリを見つめ、俺はこの後のことを考える。


 DVは許せない行為だ。

 どんな理由があろうが手を上げた時点でそいつは最低だ。

 話を聞くだけで頭がカッカしてくる。


 ……だが、これはあくまで一方向から話を聞いただけに過ぎない。

 ご主人の立場からの意見も聞いてみたい。

 そうでなければ判断が出来ない。


「ご主人を紹介してもらって話を聞くか……」

「無理です!」


 俺の呟きを拾って、アレイさんが空を劈くように叫ぶ。

 突然の爆音に体がすくんだ。


 とんでもなく必死な声だった。


「私がここに来たことがバレたら……離婚を考えているなんてことが知れたら……私、嫌われてしまいますっ! あの人に嫌われたら……私…………私ぃ……っ! もう生きていけませんっ!」


 嗚咽が号泣へと変わる。

 大きな体をぎゅっと小さく丸めて蹲る姿は、見ているこちらの胸をずたずたに切り裂くように切なげで、下手な慰めの言葉などかけられないくらいに悲愴的だった。


 アレイさんは、何よりもご主人に嫌われることを恐れている。

 嫌われたくないから離婚したい。


 そんな矛盾した結末に縋るしかないほど、追い詰められているようだ。


 しかし、離婚した後も嫌われない方法など、存在するのだろうか……


「私を…………殺してください」


 涙に濡れた、消え入りそうな声で、アレイさんが物騒なこと言い出した。


「私が死ねば、これ以上嫌われることも……疎まれることも……なくなりますよね?」

「それは、さすがに……」


 もし仮に、アレイさんが真に望むものがそれだったとしても……受け入れるわけにはいかない。


「ではせめて、『死んだこと』に……そうすれば、離婚の意思を悟られずに離れ離れになることが可能ですよね?」


 確かに、そばにいてこれ以上嫌われたくないという望みは、それで叶うだろう。

 だが……


「いいのか、それで?」


 本当に、それでいいのか?


「そばにいられなくなって。会話が出来なくなって。本当にそれでいいのか?」


 疎まれるくらいなら消えてしまいたい。

 今すぐに、そいつの目の届かないところへ逃げ出したい。


 それは、俺がガキの頃にずっと思っていたことだった。

 自分の境遇を変えるための、唯一にして最良の策だと思っていたものだった。


 けれど、それは俺のように心底離別を望んでいた場合にのみ効果を発揮するものだ。


 アレイさんはどうだ?

 あの頃の俺とは違う。

 飛び出した後、後ろを振り返らずに走り続けることが出来るか?

 アレイさんには無理だ。


 きっと彼女は立ち止まって、振り返って、ずっとずっと見つめ続けるだろう。

 過去を。

 俺とは違って、幸せだった時間があったから。


 彼女は思いを断ち切れない。

 そうでなきゃ、さっさと逃げ出して終わりに出来たはずだ。

 それが出来ないから、彼女は今ここにいるのだ。


「少し、時間をくれ」


 どうするのが最良なのかは分からない。

 離婚のコンサルティングなんか、初めてだから。

 けど……


「やるからには全力で取り組む。そして、最後にはあんたに幸せになってもらう」


 ツヅリが言ったのだ。

 ここは「幸せな離婚をしてもらう」ための相談所なのだと。


 役に立てなきゃ、俺は必要のない人間だ。

 別の世界に来てまで、自分の居場所を失ってたまるか。


 それに……

 方向性が見えているだけまだマシだ。きっと。

 そう、きっと……塩屋虎吉を成婚させるなんて難解なミッションよりかはとっかかりやすいはずだ。


「今日は帰って、こっちが連絡するまではなるべく普段通り生活を続けてくれ。ここへ来たことがバレないようにな」

「……できる、でしょうか?」

「離婚するためだと思って、頑張ってくれ」

「自信、ありません……」

「じゃあ、……ご主人を傷付けないためだと思えば?」

「…………」


 涙が流れていない泣き顔を上げて、アレイさんが無表情で虚空を見つめる。

 そして、微かに俯いて、小さく頷いた。


「……それなら…………頑張れます」

「よし。じゃあ、連絡方法はツヅリと話して決めてくれ。ツヅリ、任せていいか?」

「はい。任せてください」


 ツヅリがアレイさんと今後の連絡方法について相談を始める。

 この『世界』の連絡方法を俺は詳しく知らないので、任せておくのがいいだろう。


 それから数十分。

 離婚とは関係ない話をして、落ち着きを取り戻したところで、アレイさんにはお引き取り願った。






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