離婚相談所の業務内容 -2-
それも覚えてらっしゃらないのですか。
無理もありませんね。異なる文化、異なる言語、そして異なる大気に異なる食事。それらをなんの違和感もなく体と精神に馴染ませるため神様の御力が魂を満たし、この『世界』へ順応できるよう作り変えられるのですから。
魂の浅い部分に刻み込まれた記憶がこぼれ落ちてしまうことは少なくありません。
まずはその説明をして差し上げるべきでしょうか?
記憶の欠如というのは、きっととても心細いものでしょうから。アサギさんの不安を取り去ってあげなければいけません。
「アサギさんは、神様を信じますか?」
「え……宗教法人?」
『しゅーきょーほーじん』とは、なんでしょうか?
どうしたわけか、アサギさんの顔がものすごく不安そうに歪んでいます。不安を取り除くはずが、まさかの逆効果だったようです。
「お仕事は宗教とは関係ありません。ただ、記憶の混在が起こる仕組みやこの『世界』のお話をする上で、神様は外せませんので、それで」
「神ってのが勝手に俺をこの『世界』に連れてきたのか?」
「はい。そうなりますね。そもそも、世界というのは幾億の異世界に分かれていまして、神様がお
「平和のために俺の上にセスナを落としやがったのか?」
せすな……というのがよく分かりませんが、アサギさんはあまり神様に対して快い感情をお持ちではないようです。
「こちらの『世界』と元の異世界、両方にアサギさんの魂が同時に存在することは出来ませんので、こちらへ来るために必要だったことなのだと思います」
「そーかい」
興味もなさそうに呟いて、呆れたような息を漏らすアサギさん。
いろいろ思うところはあるようですが、こうして落ち着かれているあたり、とても強い方なのだと思います。
多くの方が「元の世界に戻りたい」と取り乱されると聞いていますから。
「アサギさんは、元の世界へ戻りたいと、思いますか?」
「別に……。向こうに誰がいるわけでもないし」
そう言ったアサギさんは、無表情でした。
それが、まるで泣き方を知らない子供のような空虚な表情に見えて――
わたしは立ち上がり、そっと、アサギさんの頭を抱きしめました。
「……へっ?」
短い息を漏らすアサギさんの頭を胸に抱き、その黒く艶やかな髪をゆっくりと撫でます。
つらい時は泣いてもいいんですよ。
その代わり、たくさん泣いたらまた笑ってほしいです。
そんな願いをこめて。
「なっ、にを、している!?」
わたしの腕を振り払い、アサギさんがソファから転げ落ちるように逃げていきました。
窓際まで移動して、壁に張りつくような格好でこちらを凝視しています。
なんだか警戒されている様子です。
あ、もしかして。
「体温が高くて不快でしたか?」
「いや、そういうことじゃなくてだな!?」
「まさか、汗臭かったでしょうか!?」
「そういうことでもなく!」
心臓が痛むのか、アサギさんの右手がぎゅっとご自身の胸を握っています。すごく力がこもっています。
「あのようにすると、人は落ち着き心穏やかになれると聞いたことがありまして、それで、アサギさんにも穏やかになっていただければと思ったのですが……」
「全然落ち着かない……むしろ興奮……いや、なんでもない」
今度はご自身の口を力いっぱいに押さえつけます。
気分を悪くさせてしまったのでしょうか?
「あの……申し訳ありません……ご不快な思いをさせてしまったのでしたら、謝ります」
わたしの独善的な行動が、アサギさんを不快にさせたのでしたら素直に謝罪をするべきです。
せっかく、仲良くなれると思ったのに……これでは、嫌われてしまいます……嫌われたら…………また、独りぼっちに……
「あぁ……いや、その」
頭を下げると、アサギさんは焦ったような声を上げ、そして音がするくらいの勢いで息を吸い込まれました。
顔を上げると、顔を逸らしたままですが、はっきりとこちらへ声を向けてくれました。
「……適度に、たのむ」
適度に。
適度というのはいい塩梅でという意味で、わたしはようやくアサギさんの訴えに思い至りました。
つまり、わたしの抱きしめ方は力が強過ぎたのです。
あぁいった場面では、もっと優しく包み込むようにするべきでした。
母親が、赤子を抱きしめる時のように。
わたしは、大人の男性を抱きしめた経験がないので、その力加減を見誤ってしまったのでしょう。
痛い思いをさせたのかもしれません。
言われてみれば、アサギさんは肩を大きく上下させていました。
なるほど。息苦しかったのですね。
「分かりました。今後は適度に抱きしめます」
「いや、だから……っ!」
何かを言いかけて、アサギさんの視線がわたしの頭へ向きました。
ヘアテールを上下させると、つられてアサギさんの視線が上下しました。
そして、「はぁ……」と、アサギさんはため息を吐き、「座るから、どいてくれ」と、ソファへと腰を下ろされました。
「話を戻すが――」
わたしが対面のソファに座るまでじっとこちらを見ていたアサギさんが、咳払いをしてから話を再開させます。
心持ち、視線がこちらを向いていないような気がするのですが?
顔を覗き込むと視線が逃げていきます。……むぅ。
「電気はないみたいだが、ガスも水道もあるようだし。こっちでも慣れれば暮らしていけるだろう」
「でんき、がす? ……なんでしょうか、それは」
「電気は、いろいろあるんだが、たとえば夜に部屋を明るくするものだ」
「ランプがありますよ」
「……だよな」
幾分がっかりした様子で肩を落とし、それからハーブティーの入ったカップを指さしました。
「ガスってのは燃える気体で、お湯を沸かしたりする時に使うやつだ」
「お湯を沸かしたのは魔法の力で、ですよ」
「魔……法?」
「はい。魔導コンロです」
魔力のこもった魔石をセットすると、ボタン一つで火が起こせる便利な魔導具です。
「水道は、捻れば水が出てくるヤツなんだが」
「捻るんですか? どこをでしょう?」
「……じゃあ、この水はどこから持ってきた?」
「水瓶です。井戸がこの下にありまして、そこから汲み上げています」
おや?
アサギさんが目を覆うように額を押さえてしまいました。
どうやら、アサギさんの住んでいた異世界とは大きく異なるようです。
「じゃあ、もしかして……トイレは汚物を溜めて捨てに行くのか?」
「いえ。それは下水を伝って浄水場へ」
「下水はあるのかよ!?」
不意に立ち上がり、「じょーすいどー!」と叫ばれました。
なんなのでしょうか? 下水はお嫌いなのでしょうか?
「まぁ、トイレが清潔なのはいいことだな」
「はい。いいことだと思います」
すとんと腰を落としてソファに座り直し、取り繕うように澄ました声で言うアサギさん。
ちらりと視線がわたしの頭へ向いてほっと息を漏らされました。
「こちらでの生活は出来そうですか?」
「まぁ……戸惑うことは多そうだがな」
「そういう時は、遠慮なくわたしを頼ってくださいね。近所にあるいいお風呂屋さんもご紹介しますし」
「……風呂ないのかよ」
いえ。いいお風呂屋さんがあると申し上げているのですが?
ふと、アサギさんの目が細められました。
どこか遠くを見るような、それでいてどこも見ていないような目で、アサギさんは不安げに呟きます。
「……なぁ。巻き込まれたヤツって、どうなったんだろうな」
「巻き込まれた方、ですか?」
おそらく、アサギさんが『世界』へと統合される際に異世界で起こった出来事のお話でしょう。
それは、わたしにも分かりません。
「すみません。分かりません。この『世界』に一緒に来られているか……」
もしくは、元の異世界で……
「……そうか」
それだけ言って、アサギさんのまぶたが静かに閉じました。
どなたかを思っているのでしょう。
大切な方、だったのでしょうか。
今は、そっとしておきましょう。
邪魔にならないように、音を立てないように、ハーブティーのカップを手に取ります。
そっと口を付け、一口飲む。さわやかなハーブの香りが鼻腔を通って抜けていきました。
カップの中のハーブティーを見ていると、「ところで」と、アサギさんが明るい声で話しかけてきました。
顔を上げると、アサギさんはわたしの頭を見ていました。
……あ。
そこでようやくわたしは気が付いたんです。
アサギさんは、わたしのヘアテールを見ていたのだと。
嬉しい時は勝手にパタパタ揺れてしまうわたしのヘアテールですが、少し気分が落ち込んだ時はしゅんと垂れ下がってしまうという自覚があります。
アサギさんの前でも、わたしのヘアテールはそうだったのでしょうか。
そして、そんな些細な変化を、アサギさんは気付いて……そして、わたしに気を遣ってくださっていたのでしょうか。わたしとお話をしている間、ずっと。
わたしには何も告げず、気付かれないように。さりげなく。
もしそうなのだとしたら……アサギさんって…………
「話の途中だったな。この会社のことを教えてくれ」
「アサギさんって、いい人ですね」
「え、そんなに話したかったのか、会社のこと?」
なんでしょう?
アサギさんの頬が少し引き攣っています。
わたしは何かおかしなことを言ったでしょうか?
アサギさんはとてもいい方だと思いますが、少しだけよく分からない方でもありますね。
これから、お互いをもっとよく知っていければ嬉しいなと、わたしは思います。
「では、この事務所のお話をしますね」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます