その一言ですべてが報われる -3-
「トラキチさん」
トラキチさんが結婚に対し強い意志を持っていた理由も教えてくださいました。
トラキチさんの大切な思い出に触れられたような気がして、とても満たされた気持ちになりました。
この感覚は、おそらく相談員のものなのでしょうね。
過去を聞かせていただけるというのは、それだけ信頼してくださったという証です。
結果は残せませんでしたが、少しはお役に立てたのでしょうか。
そうであれば、嬉しいです。
「もう一つ、お話があります」
初めてだったかもしれません。
嬉しいことはたくさんあったのですよ?
担当させていただいた相談者様がご成婚された時や、数年経ってお子さんの誕生を知らせる手紙が届いた時など、本当に満たされた気持ちになりました。
けれどやっぱり、初めてだったのだと思います。
この仕事をしていて、お見合いに同席して、同じ時間を、同じ空間で過ごせることが――『楽しい』と感じられたことは。
「とても楽しかったです」
「え? あ、はい。僕も楽しかったですよ。料理も美味しかったし」
「いえ、今日のこの時間が、ではなくて」
姿勢を正し、一度深く頭を下げます。
もう一度顔を上げた時には、トラキチさんの表情が変わっていました。
微笑みはそこにはなく、微かな緊張と、何かを悟ったような物悲しげな表情。
それは、私の願望がそう見せているだけかもしれませんけれど。
「突然のことでご迷惑をおかけするかと思いますが、今後、トラキチさんの担当者が変わります」
トラキチさんは息をのみ、それでも、何も言わずこちらの言葉を待っていました。
ですので、最後まできっちりと報告をします。
「私、本日をもって結婚相談所『キューピッツ』を退職いたします。これまで本当に、お世話になりました」
もう一度頭を下げ、感謝の気持ちを表します。
たっぷりと十秒ほど頭を下げて、顔を上げると――
「こちらこそ……ありがとうございました」
泣きそうな顔のトラキチさんから、お礼をいただきました。
もしかしたら謝られるのではないかと思ったりもしたのですが、感謝の言葉をいただけて本当によかったです。
その一言ですべてが報われました。
「ありがとうございます」
ありがとうと言ってくれて。
その後、残っていた料理を食べ尽くして、私たちはレストランを出ました。
そして、もう間もなく終業時間が訪れます。
私は自分のデスクを綺麗に掃除し、愛用のティーポットを洗って、片付けを終えました。
塵一つないデスクは美しく、同時に少し寂しく見えました。
「いや~、このお尻も見納めかと思うと寂しいなぁ~」
などというふざけた言葉と共に、私の臀部に伸びてきた幼女の腕を捻り上げる。
「痛い痛い痛いっ! 上司に対する敬意を持ち給えよ、カサネ・エマーソン君!」
「たった今業務時間が終了しましたので、もうあなたは私の上司ではありません」
お~いたた~と、大袈裟に腕をさする幼女所長もこれで見納めです。
……なぜでしょう。まったく寂しいという気持ちが湧いてきません。
「見飽きましたね、その顔は」
「随分と酷い別れの言葉だね」
折角キレイにしたデスクに紙の束を無造作に置いて、私の椅子へ腰掛ける所長。
……ちゃんと片付けてくださいよ?
「それで、この先の予定はあるのかい?」
「特には考えていません。しばらくはのんびりしてみようかと思っています」
「こっちは人手不足で休む暇もないというのに……嫌味かい?」
「では所長も退職されたらどうですか? 喜ぶ女子相談員は結構いると思いますよ」
「……それ、上司イジメになるから気を付けてね? 割と引き摺る方だよ、私?」
まさか。
所長がそこまで繊細なわけがありません。
これはきっとジョークでしょう。
仕方ありませんね。今日で最後ですから、快く笑ってあげましょう。
「……ふっ」
「う~っわ、すっごい蔑まれてる」
失敗です。
そういえば作り笑顔などこれまでしたことがありませんでした。
ぶっつけ本番でうまくいくわけがありません。初心者なのですから。
「酷く傷付いた。明日からの仕事のやる気をなくした。ただでさえ人手不足なのに、このままじゃ当相談所は倒産の危機だね、ふん!」
子供のようにお子様が拗ねています。
このお子様所長がヘソを曲げて困るのは他の相談員たちなのです。
同僚に罪はありません。
仕方ないですね。機嫌を取ることにしましょう。
「何をすれば機嫌を直していただけますか?」
「さすがカサネ君だ! 話が早い」
にっこ~っと満面の笑みでこちらを向いた所長。
……機嫌はもうすでに直っているように見えるのですが?
「一つだけ頼まれてくれないかなぁ? ちょっとしたお仕事のお手伝いだ。書類整理やクレーム対応みたいな面倒な仕事じゃない、少し相談者と会って話をするだけなんだが……いいよね?」
相談者様とお話をするのはずっと行ってきたので、特に面倒と感じることはありませんが……
「はぁ……仕方ないですね。けど、これっきりにしてくださいね」
「助かるよ、カサネ君! じゃあ、明日の朝、ここで待ってるからね!」
ぴょ~んっと椅子から飛び降りて、こちらの返事も聞かずに所長室へと駆け込んでいくちびっ娘所長。
……やれやれ。
退職したはずなのに、あと一日だけ仕事をする羽目になりました。
そしておそらく無給なのでしょう。
……まぁ、ここまでお世話になった相談所への恩返しだと思って諦めましょう。
なんて、考えたのが間違いでした。
あのちびっ娘所長…………許すまじ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます