布施くんは勉強が嫌い
透真もぐら
布施くんは勉強が嫌い
楽観的で堕落的で怠惰的な劣等生だ。人は彼をクズと呼び、彼自身自分はカスであると認知している。
では、彼がどのくらいダメなやつなのか説明しよう。
まず君は今を生きる可憐な女子高生だと仮定しよう。そんな君が布施鮮を目にすると、君は一目で恋に落ちるだろう。そうなのだ。彼は悔しく憎らしいことに顔が良い。
恐ろしく深い恋の沼にどっぷりハマった君は彼に声をかけるだろう。それはもう出来る限りの甘々な声で。すると彼はこう返すだろう。
「ごめん、僕顔が整ってる人が好きなんだ。」
大抵の女性はここで、おや?と思い、彼のことを諦めるか、もしくは嫌いになるだろう。しかし、恐ろしいことに世の中には猛者がいる。
君が猛者の一人ならば君はこう言う。
「それって私のことだよね?嬉しい!」
君は彼に抱きつかんばかりに足踏みをする。
すると彼はこう言う。
「ごめん、僕自分の顔が好きなんだよね。」
君の足は止まる。彼の美しい顔を引き合いに出されてはどうしようも無いということは5歳児でもわかるからだ。
しかしだ。しかし、もし彼レベルの顔面を誇る君が彼に声をかけたとしたならば。彼はやれやれと言った風に君を受け入れるだろう。
そして何もしないだろう。当然だ。
彼は怠惰的であり、好きになるかもしれないが現段階では興味のない異性に対して何かしようとは微塵も思わないのだ。
如何に彼の顔を眺める機会が得られる絶好の機会だからといってこうもコケにされてはプライドの高い君はたまったもんじゃない。
精いっぱいの罵詈雑言を言って彼と別れようとするだろう。それを彼はその意見はもっともだ、とでも言わんばかりの顔で聞き流すのだ。
そんなわけで彼には友達も好きな人も好きになってくれる人もいない。まして彼は学才も優れた身体能力も先立つ何かもない。
しかし彼は常に自信に溢れていた。それは彼が楽観的で堕落的で怠惰的な顔だけの男だったからに他ならない。
☆
僕は勉強が嫌いだ。白紙のノート、こてこてしたシャーペン、黒く汚れた消しゴム、どれか一つでも想像するだけで反吐が出そうになる。ただ単に勉強が嫌いなだけじゃない。僕は課題にしろおつかいにしろ、何かしなければいけない状況とやらが大嫌いなのだ。
だからと言って僕はガリ勉や部活を頑張る熱血少年を馬鹿にしてるわけじゃない。これはわかってほしい。尊敬だってしてる。ただなろうとは思わない、だって僕は勉強しなくても生きていける自信があるし、汗だってかきたくないんだから。
しかし、こんな僕だって最終から勉強が嫌いだったわけじゃない。これでも昔はガリ勉だったのだ。それなりに勉強ができたし、何度も100点をとったものだ。
それがどうして今みたいになってしまったのだろうか、と過去の僕を知るものは言うだろう。そんなの僕が一番知りたい。
ただ一つだけ確かなことがある。僕はあの頃の僕が大嫌いだったりする。あの頃の僕は度の強いメガネとへたへたの髪に伏し目ガチで猫背だった。
いわゆるところの"クソださい"ってやつだ。あの頃の僕は今みたいに女性にモテていなかった。
僕は美しいものが好きだ。霞みがかった海、綺麗な紅葉、高く高く透き通った空、そして鏡に写った僕の顔、僕は鏡を見るために身を起こし、洗面台に向かう。鏡に写った僕の顔は確かに美しかった。しかしなぜだろう、なぜかひどく退屈なのだ。
僕は今日も部屋で惰眠を貪っていた。僕が思うに、現代人は日々何かしなきゃいけないと思い過ぎている気がする。たまにはガス抜きも必要だろう。何もしない日があってもいいのだ。
嘘だ。これは僕の言葉じゃない。名前は忘れたが誰か偉い人の言葉だ。誰だっけ?
僕は本棚から詩集を取り出そうとして自分の部屋がひどく散らかっていることに気づいた。
「部屋の掃除でもするか………」
何かやらなきゃいけない状況が嫌いな僕が唯一能動的になるとき、それは突発的な思いつきを抱えたときだ。
思うがままに雲のように生きる。
何とも素敵な考え方だと自分でもうっとりするが、子供が昼間から学校にもいかず一人で掃除機をかけだすようじゃ母は気が気でないだろう。
僕は掃除機を使わず、あくまで物を整理する程度の掃除を始めた。
☆
最初に見つけたのはバンドのCDだった。
僕は普段音楽を聴くときはネットからダウンロードしたり、動画検索するのでこのCDを不思議に思った。
明らかに僕が買ったものではない。なれば両親どちらかのものだろうと思ったが、裏面を見ると文字が書いてあった。
橘律
それはひどく懐かしい名前だった。
遥か昔、僕がまだクソださい奴だった頃によく話した女生徒の名前だ。おそらく何かの折に借りたまま返し忘れていたのだろう。
「悪いことしたな。」
と口に出しては見たものの、返すあてもないし今も連絡が来ないということは忘れているか、はたまた彼女にとってそのCDはどうでもいいものだったのだろう。いや最悪の場合、僕のことを嫌い既に新しいCDを買ってしまっているのかもしれない。それもまた良いだろう。
僕は気まぐれにそのCDを聞いてみることにした。どうせすることもないのだ。
部屋の片隅にあったラジカセにCDを入れ、ボタンを押す。
ギターの爽やかなフレーズに小気味いいドラムとベース、そして綺麗な女性のソプラノ。
その音楽は僕の体を小瓶の中に水を入れていくように、ひたひたと深くまで沈んでいった。
そのとき、僕は橘律との思い出の一節を思い出した。否、僕が彼女のことを忘れる瞬間などなかったのではないだろうか。
「布施くん、おはよう。」
「橘、この時間に会うなんて珍しいな。」
「え、いやあテストも近いし、早く来て勉強でもしようかなって。それだけ!」
「はは、橘はすごいな。」
橘律は普通の女子高生だ。
いや普通よりちょっとだけ目立たない部類の人間だったかもしれないが、少なくとも僕にとっては普通に話しやすい友達だったし、当時は僕も彼女にとって話しやすい友達だったろう。僕と彼女は少しの間だけ、多くの時間を共に過ごした。
「それを言うなら布施くんだって、前回だって私よりいい点とってたじゃない。」
「……たまたまだよ。」
そういうと彼女は僕を覗き込むようにこちらを見上げた。一重の目が揺れる。
「……そ、そうだ!布施くん一緒に勉強しようよ!布施くんばっかりいい点とってズルいじゃん!」
「ズルいってなんだよ…まあ、いいけど。」
「やった!」
そう言って彼女は笑った、彼女の八重歯が無邪気に露見する。僕は彼女の笑顔が好きだった。
そのとき、よほど上機嫌なのだろう彼女が鼻歌を歌い歩き始めた。しかし僕の知らない曲だった。
「なんだその曲?」
「え?布施くん知らないの?前よくテレビで流れてたじゃん。話題のドラマの主題歌でけっこう人気だったんだよ?」
「僕あんまりテレビ見ないからな、橘はその歌が好きなのか?」
そう言うと彼女は僕を不思議そうな顔でちらと見て、また前を歩き出した。
「まあ嫌いじゃないけど……なんでそんなこと聞くの?」
「良い歌だと思って。」
本当にいい歌だと思ったのだ。
しかしなぜだろうその時彼女の口から初めてその歌を聞いたときほどの感動はあのあと何回聞いてもなかったように思われる。
前を歩いていた彼女がハッとしたようにこちらを振り向いた。
「あ、あの布施くん。私この曲のCD持ってるから、良かったら貸そうか?」
その時僕がどう返したのかもう忘れてしまったが、僕は後日、テストの後このCDを受け取った。ちなみにテストはその時も僕の勝ちで彼女は頬を膨らませていたものだ。
僕はCDのパッケージを覗き込んだ。彼女は今何をしているのだろうか。彼女は僕のことを果たして覚えているのだろうか。どうか忘れてくれ、と僕は願った。
☆
次に僕が見つけたものはピヤッサーだった。
僕がメガネを外し、パーマをし、服装にも気を使うようになったころ、ピアスの穴を開けるために買ったのだ。当時は随分と穴を開けることを怖がっていた。
今思えば耳たぶに穴を開けることの何が怖かったのだろうか。今はもう僕の耳たぶには深々と穴が開いている。
でも、確かに初めて穴を開けたときは相当痛かったかもしれない。僕は耳たぶに開いた穴を触る。もはや痛みなどなかった。
「あんた、どうしたのよ。この前だって、急に髪なんか染めてパーマもかけて。」
「別に。することもないし、気分転換でもしようかなって。」
僕は母さんに丁寧な作り笑いを向け自分の部屋へ向かう。僕はカバンから先ほど買ったピアスの穴を開ける道具を出して、鏡の前に立った。
僕はゆっくりとボタンを押す。多分もう少しで針が体に届く。 届く。
「ダメだ」
僕はボタンを押す親指をすんでのところで止めた。この穴を開けてしまってはもう戻れない気がしていたのだ。
当時、生きることに絶望していた僕は本屋でファッション誌を見つけた。その時僕は自分も最大限に着飾れば少しは容易く生きることができるのだろうか、と考えた。今にして思えば幼稚な考えだと思う。しかし、あの頃の僕はそんなものしか縋り付くことなど出来やしなかったのだ。
僕はベッドに身を投げ込んだ。
その思いつきのあと、衝動的に髪を染めパーマをかけた。今はもうかつてのしなった髪質の面影もない。
ふと僕は先ほど投げたカバンの中から覗く白い箱にきづいた。あの中にはコンタクトが入っている。メガネを止めるために視力を測り買っておいたのだ。しかし、なかなか使う踏ん切りがつかず今まで放っておいたものだった。
なぜだろうか。そのとき僕はあることを思いついた。
あのコンタクトをつけて街を歩こうと思ったのだ。思えばこの日から僕の生活は一変した。
メガネを外したまま外へ向かうのは、久しぶりかもしれない。心なしか頭がすっと軽くなっているような気もしていた。
「行ってきます。」
「ちょっと鮮!どこ行くの?」
「散歩。」
僕はそう言って家を出た。
平日の商店街はそれほど混んでいなかった。
当たり前のことだが、学生の姿はなく、それがまた僕を安心させた。
僕は何をするでもなく街を歩いた。
そういえば、うんと子供のころは友達と目的もなくこの商店街を歩いたものだ、ちょうど今のように。
それが最近はこの通りに何か買いにくるか、バス停への近道に使うぐらいだった。
僕は子供の頃に戻ったかのような気分でこの街を進む。
美味しそうなコロッケの匂いがする肉屋に中学の制服を買った呉服屋などその全てがコンタクト越しに新鮮に写った。
塞ぎ込んでいた僕の心がふと軽くなったような気がした。
やっぱりあのファッション誌を買って良かった。そうでなければこんな感動は味わえなかっただろうな。
そんなことを考えていた僕はやがて一つの小道を見つけた。
そこは幼少期、大人たちに通るのを咎められていた場所だった。なぜその道を通ることを窘められていたのか、今ならわかる。
「帰ろう。」
僕はその日、家に帰った。こんな風にいうのは少し子供っぽいのかもしれないが、帰り道もとても良い気分だった。
しかし、その日の夜僕は家を飛び出した。じんじんと痛む頰が痛かった。僕は思い切り泣いた。
父が僕を殴ったのだ。
父は厳格な人だった。真面目で頑固な人で、仕事が忙しいからと家にいないことが多かった。そしてたまに帰ってきたと思ったら僕に機械のように勉学の大切さと自分の誇らしい過去を話すのだ。
子供心に僕はこの人が苦手だと思っていた。
そんな父だからこそ久しぶりに会った髪を染めパーマをかけた僕の姿は道を外れた異端者のように見えたらしい。
「いつからそんな風になってしまったんだ!お前は家で大人しく勉強していればいいんだ!」
彼は問答無用で僕の頰を叩いた。
僕は流れ出る涙を袖で拭った。僕が泣いているのは父に殴られたからではない。
変わった僕の姿を、晴れ晴れとした僕の姿を彼は汚物を見るように見たのだ。
そのとき、この人は自分の息子というレッテルでしか僕を見ていないということを僕は悟ったのだ。
あの人は僕という人間が自分と違う考え方を持つことを許してくれはしないだろう。これからもずっと僕のことをわかってくれやしないのだろう。
僕はそのことがたまらなく悔しかった。
僕は夜の街を走った。ただ我武者羅に走って、気がつくと僕は昼間の小道の前にいた。
「どうしたの?」
僕はぐしゃぐしゃの顔で振り向いた。一人の女性がそこに立っていた。その時見た金色の髪に赤いサンダルをよく覚えている。
名前をミユキさんと言った。
「泣いてるの?」
そう言って彼女は僕の方に近づいてきた。やけにラフな格好の彼女は少し酒臭かった。
「いえ、すいません、大丈夫です。」
僕はそのとき、しまったと思った。
当時僕はプライドが高く、人に泣き姿を見られることをとても恥ずかしいことだと思っていた。
僕は流れ出る涙を止めることに躍起になった。僕は小道の入り口の自動販売機に寄りかかり、ひたすらに深呼吸を繰り返した。
何分だっただろうか。僕は落ち着いた呼吸と共に、顔を上げた。その時僕はその女性が何も言わず僕のそばにいたことを始めて知ったのだ。
「………あの、なんですか?」
「別になんでもないけど。ただ泣き喚く男の脇を素通りするのに気後れしただけ。」
彼女は空を見上げていた。
「あ、すいません。」
僕は急いでその場を離れようとした。
しかし僕は動けなかった。彼女の手が僕の袖を掴んでいたのだ。
「ここで会ったのも何かの縁じゃない。あんた今何才?」
「……20才。」
僕は嘘をついた。
「あ、そう。ここで話すのもなんだし奥に行かない?」
彼女はそう言って僕の袖を掴んだまま小道の奥へ連れていった。
「あの、あの!」
「大丈夫よ。私この辺りのやつとは顔馴染みだから危ない目にあったら助けてあげる。」
「違くて、その、僕あなたの名前知らないです。」
彼女の足が止まる。
彼女は僕の顔をキョトンと見たあと、思わずこぼれてしまったという風に笑い始めた。
「あはは、そうよね。ごめんなさい。私は栄枝美雪。あなたは?」
「布施鮮です。」
「布施くんね、よろしく。」
彼女はそう言って僕に笑いかける。初めてこの人の笑顔を見たのはこの時だった。
そして僕たちはしばらく歩き、彼女の馴染みの店というやつについた。
僕は初めて入る店の雰囲気に少しだけ緊張していた。
そんな僕のことを見抜いていたのか彼女は僕の隣に座り、僕の分の注文をしてくれた。初めて飲むお酒はとても美味しかった。
彼女はまず最初に自分の話をし始めた。
彼女の話によると、彼女は26才で、職業は絵描き。しかし思うようにいってはおらずバイトをして過ごしているという。
「それでもギリギリ生きていけてるし、今が楽しければいいのよ。それよりもみんなと同じ考えで同じことして同じような生活を送る方が私にとっては体に毒なのよ。」
彼女はそう言ってぐびぐびと酒を飲み始めた。僕はその様子を見て、自分が財布を持っていないことを思い出した。
「あ、安心して。流石にここは私がもつから。今日給料日だったし。」
「は、はあ。」
どうもこの人は人の考えを見抜くのが上手いらしい。
僕はずばり考えていることを言い当てられ、参ってしまった。
「それで、次は君の話。なんであそこで泣いてたの?」
彼女はそう僕に言う。彼女には妙な安心感があった。まるで彼女と一緒にいるときは、何の苦もなくただ世界に二人でいるような、ただ楽しくいられるようなそんな気分だった。
僕は自分のこれまでのことを全部話した。その中には自分が今まで思ってもなかったようなこともあった。
僕が話し終えるまで彼女は黙っていた。そしてこう言った。
「君のその感情がわかる。なんて断言はしないけど私も似たようなこと思ったときあるよ。確か絵描きになりたいって親に打ち明けたときだったかな。
今まで絵が好きとか、そんな素振り見せたことなかったから両親から大反対されて、わかってはいたことだけど、それがあまりにも押し付けがましくて、私も意地になって親から逃げるように一人暮らしを始めたの。当然お金に困って借金もしたけど頑張って働いて返して、なんとか生きてきたのよ。」
「ミユキさん…」
「今となっては両親の気持ちもわかるし、私も子供だったなって思ってるわ。
でもね、ある時気づいちゃったの、あの人たち私に何も連絡してこないのよ。もう私のことなんて忘れちゃってるんじゃないかなってぐらい。案外そんなもんなのよね。なんか話しすぎちゃったね、ごめん。」
ミユキはそう言って飲んでいたお酒を飲み干した。
「僕も、ミユキさんのことがわかる、なんて言えないけど。あなたの生き方が好きです。」
酔っていたのか、彼女に惚れたのか、あるいは両方か。歯に浮く言葉を言う僕に彼女は何も言わず見た。目と目があった。
「布施くんの顔、綺麗だね。」
そう言って彼女は僕にキスをした。
僕の容姿が人より優れていることをその時初めて知った。
その日、僕は彼女の家で一晩共にし、朝方家に帰った。父はもう一方の頰を殴った。痛みは全然感じなかった。
その日から僕はミユキさんの家に通うようになった。
お酒も飲むようになったし、タバコも吸うようになった。
そして四ヶ月ほど月日が流れた。
ある日、僕が彼女の家に行くと、ドアが半開きになっていた。随分無用心だと思いながら入るとミユキさんはリビングでひとり、描き掛けの絵の前で蹲っていた。
「ミユキ…さん?」
僕がそう呼びかけると彼女は僕にすがりつくように床を這ってくる。
「布施くん…ふせくん…」
僕は今まで見たことのない彼女にひどく戸惑いなんとか落ち着かせるために水を汲んだ。
彼女はそれを受け取ろうともせず僕の肩を掴む。
「さっき電話があったの、わ、お父さんとお母さんの遺体が見つかったって。山奥で白骨化して、警察の人はおそらく、死後7年は経ってるって。わたし、どうしよ。」
彼女はひどく怯えていた。何にであろうか?
そんなことはわからない。彼女の考えなんて僕にはわからないのだ。ただ彼女らしからぬ行動に僕は戸惑意を感じた。
「大丈夫です。大丈夫ですから落ち着いてください。」
僕は必死で彼女を宥めた。何時間だったのだろうか、あるいは何分か。
彼女は落ち着いたのか、ぐったりと僕の腕の中で深呼吸をし始めた。まるで四ヶ月前の僕を見ているようだった。彼女は僕に笑いかけた。その笑顔はとても弱々しく見ていられるものではなかった。まるであの時の橘のようだった。
「ありがとう、布施くん。だいぶ落ち着いたわ。そうだ、これあげる。」
彼女はそう言うとふらふらと立ちリビングの奥の部屋に行き、なにやら小箱を持ってきた。
「このピアス、前に買ったけど結局使う機会がなかったの。今日のお礼だと思って持っていてくれない?」
彼女はそう言って僕の胸に小箱を押し付けた。
「あ、ありがとうございます。」
僕は彼女に頼ってもらえたこと、そして感謝の気持ちを向けられたことをとても嬉しく感じた。
だからこそあんなことを言ってしまったのだ。
「大丈夫です、僕がついてますから。」
そう言うと、ミユキさんはまた力なく笑い僕にキスをしてくれた。
僕は早速家に帰り、ピアスの穴を開けた。少し痛かったが、ミユキさんのことを思い出すと平気に思えた。
そしてその次の日、彼女はもう家にいなかった。僕はその日、彼女を探して街を走り回り、夜一人で泣いた。
彼女の遺体が見つかったのはその3日後、彼女の部屋に大量の薬物が見つかったのはさらにその2日後だった。
僕はひとしきり泣き、彼女からもらったピアスを捨てた。
僕はピヤッサーを見つめる。
あのあと、僕は一人であの小道の奥に通うようになり、何ヶ月かしてやがてそれもやめた。母と父に謝り、それから部屋に篭るようになった。
今思うとミユキさんは僕の下の名前を一回も読んでくれなかった。
それがなんだと言われたら何も言えない。どうせ聞かれてもわかってもらえやしないのだから。
僕はピヤッサーを見つめた。
☆
僕は部屋の掃除を進めていた。そして一枚のプリントを見つけた。
学校からのその紙面にはこう書かれていた。
"布施鮮を一年の間、謹慎処分とする"
このプリントをもらってからもう一年と三ヶ月が経つ。
僕はダメなやつなので、未だに学校に行けないでいる。
第一、僕は勉強が嫌いなのだ。
体育だって嫌いだし、友達との絆とかいうやつも嫌いなのだ。
だからもう行く意味がない。幸い、両親もそんな僕に理解を示してくれている。
僕が二人に謝った時からあの二人は僕のことを理解しようと努力してくれるようになったのだ。
僕はそんな二人に感謝しているし、親孝行だってたくさんするつもりだ。
本当にそう思っているのだろうか?
僕はしばらく自分の気持ちを考えてみることにした。すると自然とあの日のことが思い出された。
それは高一の冬のことだった。
「布施くん、また学年1位だったの?すごいね!」
そう言って橘は僕の隣でニコニコと笑っていた。
「私なんか、また平均ぐらいだったよ。布施くんに勉強教えてもらってるのになんでだろう。」
「それでもだいぶ良くなったろ?橘はよく頑張ってると思うぜ?」
「確かにそうだけど…でもそれじゃダメなんだよね。」
彼女はそう言って俯いてしまった。
「何がダメなんだ?」
「…内緒。」
「なんだよそれ…」
いつのまにか僕と橘は一緒に帰るようになっていた。放課後一緒に勉強する機会が増えたからだ。僕は友達が少ないので、彼女にはいつも助けられていた。
「あ、見て!布施くん。雪だよ!」
いつのまにか俯いていたはずの彼女は空を見て笑っていた。
「ああ、本当だ。」
僕と橘はしんしんと降ってくる雪を見て、そして互いに顔を見て、笑った。
ある日のことだ、僕は担任教師に呼び出された。心当たりは特にないので不安だったがすぐに済む話だろうと思っていた。
僕は職員室に向かう。廊下は昨日積もった雪のせいで寒く、すれ違う人は皆寒そうだったことをよく覚えている。
僕が職員室の扉を開くと担任は思い詰めた表情で手招きをした。
「布施、お前がカンニングしたのではないか?という噂が生徒の間で流れている。これは本当なのか?」
担任の新人教師はそう話を切り出した。当然思い当たる節のない僕はこう言った。
「いえ、僕はカンニングしていません。」
しかし、担任は信じるつもりがないのか、眉にしわを寄せて僕を見ている。
このとき、僕は生徒の言葉を信じないとは何事か、と思ったのだが今となっては彼のこの対応もうなづける。
生徒のカンニングがバレた時、責められるのは生徒ではなく、その行為に気付けなかった教師なのだ。
おまけに当時の僕は成績こそ良いものの、授業態度はあまり良い方ではなかった。話を聞くのも上の空、質問をしようともせず、課題は最低限で済ませ、テストでは教えたことと違うやりかたで解き進めていた。
教師陣はさぞかし僕を嫌っていただろう。
「しかし生徒の中に実際にお前がカンニングペーパーを用意しているのを見たという奴がいたんだ。」
「一体誰がそんなことを言ったんですか?」
「そんなこと、お前に言えるわけないだろ。匿名だからこそ名乗りをあげてくれたんだ。」
先生はそう言って僕を睨んだ。
しかし僕の頭には、ある名前が浮かんでいた。こんなことするのはあいつしかいないだろうと、たかを括っていたのだ。
澤部明彦。文武両道、容姿端麗、おまけに有名な会社の御曹司だ。確か今回のテストでは学年2位だったはずだ。
彼は生徒だけでなく教師からの信頼も厚い生徒だった。彼ならば僕がカンニングしたと言ったらそれは至極当然のごとく扱われるだろう。
実際に目の前にいる担任は彼の言葉を疑う気などさらさらないのだろう。
僕はこれはダメだなと見切りをつけた。
「すいません先生、僕がやりました。」
僕はわざとらしく申し訳なさそうに担任に言った。すると担任はホッとした素振りを見せた。
「お前が罪を認めてくれて俺も嬉しいぞ。先生も謝ってやるから先生方に一緒に謝りに行こう。」
釈然としなかったが、彼の優しさに免じて僕はしてもいない罪を受け入れた。
僕は追試と補習と反省文という罰を与えられたがこれも社会経験だ思って文句も言わず終わらせた。
「だから布施くん最近忙しそうだったの?」
「まあな。」
「信じられない!布施くんはそんなことしないのに!」
橘はそういうとゴジラみたいに歩き出した。今にも火を吹きそうだ。
「まあ僕友達いないし、きっと誰も信じてくれないよ。」
「もう!布施くんがそんなだから嫌がらせされるんだよ!それに、友達なら私が…いる…し。」
「ありがとう橘。」
実際のところ彼女の言葉がとても嬉しかったのだが僕は簡単に返した。照れ臭かったのだ。
「まあでも、このぐらいの罰なら僕は喜んで受けるよ。無駄なイザコザは起こしたくないしね。だから橘もそんな顔しないで今までみたいに僕に接してくれ。」
「もちろんだよ!…布施くんは大人だね。いつだって冷静なんだから。」
僕は思わず笑ってしまった。
「何?」
「僕だって、冷静じゃない時ぐらいあるさ。」
僕がそういうと信じられないというふうに彼女は笑って見せた。
僕は無事に反省文を提出し、またいつも通りの日々が続いた。
このとき、僕はもうちょっと慎重になるべきだったのだ。
それかニコニコと橘みたいに過ごしていればよかったのだ。
いつも通り僕が学校に来ると内履きがなくなっていた。そのほかにも体操着を隠されたり、教科書を切り刻まれたりした。それは明確な僕への嫌がらせだった。犯人は当然澤部だった。
僕は担任のところへこのことを話しに行った。すると担任はこう言うのだ。
「勘違いじゃないのか?内履きも体操着もちゃんと確認してみろ。」
そのとき僕は気づいた。彼ら教師たちは澤部のことを信じていたんじゃない。澤部の親を怖がり彼らの悪行から目を瞑ってきたのだ。
「わかりました。失礼します。」
僕は職員室の扉を閉めた。今度は橘に黙っておくことにした。きっと橘は僕のことを心配してしまうから。僕はただ彼女には笑っていて欲しかった。
その日から嫌がらせはエスカレートしていった。それはもはや嫌がらせと言えるものではなく、これがいじめというのか、と僕は思っていた。
しかし、僕はめげることなく勉学に励んだ。それは僕を裏切ることはないし、なによりも僕には彼女がいた。橘は僕が勉強を教えてあげるととても嬉しそうにうなづいていた。
彼女がいる限り僕は頑張れると、本気で思っていた。
「布施くん、ごめん、今日は体調が悪いみたい。だから勉強会は中止にしよう。」
「わかった、けど大丈夫なのか?今日は早く寝ろよ。」
「うん!大丈夫。布施くんも元気でね。」
彼女はそう弱々しく笑うと帰っていった。その背中はとても小さくて、僕はあんなに小さかったっけと、いつまでも彼女を見ていた。
僕が学校に通うと靴箱の中には内履きがあった。
澤部たちもいい加減僕をいじめるのに飽きたのだろうか?それならば暁光だ。僕はそう思い内履きを履き教室へ向かった。
その日から僕へのいじめはなくなった。
しかしその反面橘は僕を避けるようになった。
僕は最初こそ彼女の言う通り、体調が悪いのだと思っていた。彼女のあの顔を見るまでは。
久しぶりに見た彼女は以前の彼女とは似ても似つかないひどいものだった。
彼女の顔は不自然に腫れていた。
だからこそ、だからこそあの場面を見た時、我を忘れてしまったのだ。
ある日、僕はいつもより早く登校した。ある日橘が言っていたとおり、僕も朝のうちに学校で勉強しようと考えたのだ。それに、もしかしたら彼女が教室にいるかもしれない、とそう考えていた。
結果から言えば彼女は教室にいた。
彼女はクラスの女子から殴られていた。彼女は泣きながらも声を漏らさず耐えていた。ただ体を小さくして耐えていた。
他のクラスメイトはただそれを見ていた。僕以外のクラスメイトがそこにいた。
僕は僕を馬鹿だと思った。
どうして気づけなかったんだろう。
澤部たちは僕をいじめるのに飽きたんじゃない。
僕の大切な人をいじめるようになった。ただそれだけなのだ。
僕の中で何かが壊れる音がした。落ちたかけらを拾い集めて繋げてみるとそれは橘の綺麗な笑顔だった。
気づくと僕は教室の真ん中にいた。教室の真ん中にただ一人で立っていた。
僕は自分の手を見た。赤黒く濡れていた。汚いと思った。
それが澤部の血だと言うことに気づくのにひどく時間がかかった。
僕は橘の顔を見た。
彼女は僕を見ていた。
僕は謹慎処分のプリントを見る。僕はダメなやつなのだと、その紙は僕に突きつけるのだ。
☆
私は今日、彼の元に行く。
大好きだった彼のもとへ行く。
高校に入学したころ、私は彼を見つけた。一目見た時、ビビビッとくるものを感じた。
恋は突然とはよく言ったものだなとそのときは感動したものだ。
彼が同じクラスだとわかった時には小躍りな踊り出しそうなほどに喜んだ。
そして、私は彼のことを目で追いかけるようになった。
彼は友達が少ないらしくいつも一人で勉強していた。私は彼のその姿が好きだった。背筋がずっと伸びて、静かで真剣な表情を私は綺麗だと思っていた。
初めて彼と話した時のことを今でも覚えている。
当時、図書委員だった私に彼が話しかけてきたときのことだった。そのとき彼の声を初めて聞いて、私はまた彼のことを好きになった。
そのあとも、勇気を出して、頑張って彼に話しかけて、彼と仲良くなった。
彼が私に笑いかけてくれるたびに、彼が私の名前を呼んでくれるたびに私のこころは弾んでふわふわと浮かんでいた。
ある日、勇気を出して彼にCDを貸した。
私が好きな歌を彼も良い歌だと言ってくれたことが嬉しくて私は浮かれてしまったのだ。
あのCDを彼は返してくれなかった。
多分忘れていたのだろう。
声をかけようかとも思ったが彼が私のものを持っていると思うとちょっとだけうれしかった。
それから、彼に勉強を教えてもらうようになった。彼の教え方はとても丁寧でちゃんと私のことを考えてくれる教え方だった。彼の問題を指す指や、真っ正面からこちらを見る綺麗な瞳が私は大好きだった。
私たちは冬を迎えた。私は冬が嫌いだ。彼との別れを、否が応でも思い出してしまうから。
あのとき、彼は些細でつまらないことで嫌がらせを受けていた。彼は冷静で優しかったからそんなこと気にも留めなかった。それどころか私に対しても気を使ってくれた。
でも私は許せなかった。大好きな彼を傷つけるものを許せなかった。
私はいじめの主犯格に言いに行ったのだ。
私のことをいじめてもいいから彼には何もしないで。
そこからは辛い日々が始まった。だけど彼のためだと思うと自然と元気になれた。
あのときまでは。
あの彼の顔を私は一生忘れないだろう。
彼の綺麗な手がひどく醜い液体で汚れていくのをただ私は見ていた。
彼が茫然とした様子でこちらを見た。
私はあのときどんな顔をしていただろうか?
あのときなんで声をかけてあげられなかったのだろうか?
私が彼を追い詰めたのだと私は彼の目を見ていた。
ずっと怖かった、彼と会うのが。
彼を追い込んでしまった私はどんな顔で彼と会えばいいのか、私にはわからなかったのだ。
あの件からもう一年と二ヶ月が経つ。
あのあとから私は勉強を始めた。
彼に追いつくために。
憧れの自分になるために。
自分の実力で学年1位を取ることができたとき、私は生徒会長に立候補されるようにまでなっていた。
でもそんなことどうでも良かったのだ。ただ私は彼に褒めて欲しかった。名前を呼んでほしかった。
私は彼の家のチャイムを鳴らす。しばらくしたあと、綺麗な男の子が出てきた。ふわふわな髪に美しい瞳に派手なピアスの穴。
あの頃の彼の面影はなかった。だけど私は一目で彼だとわかった。
彼は私を見た瞬間に、ひどく驚いた顔をした。まるで死者でも見たかのような顔だったので私は少し笑ってしまった。
彼は私に小さい声で帰ってくれと言った。
私は帰らないよと言った。
少し痩せたみたいだ。この一年とちょっとで彼がどんな経験をしたのか私にはわからなかった。
彼は私の方を睨み、今度は強い語気で帰れよと言う。
私は帰らないと言った。
すると彼は強引に扉を閉めた。
私は本当に彼に伝えたいことをドアの前で言うことにした。
大丈夫、彼は優しいから今もドアの前にいるはずだと、私は信じていた。
布施くん、布施くんがいなくなってから私頑張ったよ。布施くんみたいになりたいから頑張ったんだよ。
私にとって布施くんは憧れの人だから。
ねぇ、布施くん。布施くんの噂聞いたよ。
私が布施くんのこと、辛かったとか、頑張ったとか言うのは簡単だけど、きっと君はそんなの求めてないって今ならわかるから、だから、ゆっくりでいいから教えてよ。君のこと。待ってるから。ずっと待ってるから。
そしたら、また、勉強教えてよ。優しい声で私の名前を呼んでよ。私の前で笑ってよ。
……好きだよ、布施くんのことずっと好き、今もずっと好きだよ。本当は今すぐ抱きしめてあげたいくらい好きなんだよ。
ごめん、こんなこと本当は言うつもりなかったけど、久しぶりに布施くんと会って、ごめん、ごめんね。
……でも、これだけは知って欲しいから、今も布施くんのこと私は待ってるよ。だから自分のことをクズとかダメなやつとか言わないで。汚い部分も醜い部分だってもう隠さないで、一緒にまた、学校行こうよ。
☆
いつの間にか僕は泣いていた。橘は今も僕に話しかけている。相変わらず要点を得ない話し方で、僕の名前を呼んでいる。
僕は、頑張ってもいいのだろうか。勉強を好きになってもいいのだろうか。もう汚れてしまったけれどまた彼女と一緒にいていいのだろうか。それでも彼女が一緒にいてくれるなら、と僕はそのドアを開けた。
布施くんは勉強が嫌い 透真もぐら @Mogra316
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