なあ、咲月。お前本当は死にたいのか?

 意識がふわりふわりと揺れている。浮かんでは沈んで、浮かんでは沈んで、まるで水の中にいるようだ。

 きっと母親のお腹の中にいたとき、こんな気持でいたのだろうと咲月――いやイツキは思った。その時は隣に咲月がいたのだ。そうも思って、とても悲しい気持ちになった。


 ふわふわ水の中を浮いている間いろんな声が聞こえた。ほとんど知らない声だったが、一人だけ聞き覚えがあった。

 清水晃生。今年の生贄。一緒に逃げようといってくれた人。イツキにとって初めて自分を受け入れてくれた他人。


 その声が寂しそうにまだ起きないのか。そう言っているのが聞こえた。それを聞くたびに自分は寝ているのだと悟った。

 寝ているのならば起きなければいけない。けれど、起きようと思うたびにもうひとりの自分がいう。


 もう起きなくていいんじゃないかと。

 咲月は死んだ。

 人を殺した。

 もう羽澤には戻れない。

 自分のせいで両親なひどい目にあっているかもしれない。こんな自分をかわいがってくれたのに。


 だからもう起きなくていい。生まれただけで罪なのだ。だったら死んで丁度いい。このまま起きずに緩やかに死んでいったら、それで全てが丸く収まる。


 それはとても魅力的な提案だった。もう苦しまなくていい。悩まなくていい。咲月のいない孤独と罪を抱えて生きなくてもいい。


 四肢を投げ出して水に沈む。放っておけばさらに沈んでいく。苦しまずに眠るように。もう一生起きることはない。

 それはとても静かで満ち足りだ自殺だった。このまま深いところ。もう一生目覚めることのない深淵まで沈んでいこう。


 そうイツキは思うのに、いつも後一歩のところで体が起きようとする。

 それは決まって晃生の声が聞こえるときだった。


 毎日、毎日、晃生はやってきて咲月に話かける。もう諦めてくれればいいのに。自分を殺そうとした相手なんて放っておけばいいのに。そう思うのに、晃生はあきもせずにやってきた。

 声は遠くて何をいっているのかはよく聞こえない。それでも晃生が話しているということはよくわかった。起きてほしいと願っていることも伝わってきた。


 ああ、なんで、静かに眠らせてくれないのか。そう苛立ちを覚えるのに、嬉しくも思う。


「なあ、咲月。お前本当は死にたいのか?」


 今日はやけに晃生の声がハッキリ聞こえた。

 イツキは水に浮かんだまま、ああ。そう答える。


「死にたいっていうわりには図太く生きてるのに、本当に死にたいのか? お前もう二週間寝たきりだぞ」


 二週間という言葉にイツキは驚いた。水の中で時間の感覚はない。もうそんなにたったのかという気持ちと、まだそれしかたっていないのか。という気持ちが同時に沸き上がってよくわからなくなる。


「大鷲さんに言われたんだ。いま咲月は自分を受け入れるか死ぬかの分岐にいるって」


 分岐どころか自分はすでに死ぬことを選んでいる。そう晃生に伝えたかったが声は出ない。眠ったままなのだから当たり前だ。

 ではなぜ、声は聞こえているのだろうとイツキは不思議に思った。


「由香里と絵里香がさ、新しい人生を始めるために名前を決めてたんだけど、俺と慎司から一文字もらうって。なんだかくすぐったいよな」


 イツキには出てくる名前が誰なのかわからなかったが、晃生の声が楽しげなのはわかった。

 人から名前をもらう。イツキは咲月から名前をもらった。イツキという名前は咲月とおそろいで嬉しかったが、咲月が死んでからはイツキと呼ばれることはなくなった。咲月と呼ばれるたび、場所を奪ってしまったようで苦しかった。


「資料室にあった本、自由に読んでいいっていうから借りてきたんだけど、そこに外レ者のことが書いてあって。外レ者は名前をもらうと強くなるんだってさ」


 外レ者という知らない単語。だが自分のことであることはわかった。今の自分はおかしい。普通の人ではない。元から呪われた双子の上だったのだから普通とは言い難かったが、あの夜、決定的に変わってしまった。それは水の中に浮かんでいる今の状況でもわかっていた。


「センジュカさんがお前は選択肢を他人に丸投げしてるって。で、俺はお前に迷惑をかけられたから、勝手にお前の選択を決めても許されるってさ」


 いや、許されるはずないだろ。いくら迷惑をかけたからといって。

 そう文句を言いたかったが、眠っているのでいえるはずもない。今始めて寝ている状況に不満を覚えた。なぜ自分は寝ているのか。このままでは晃生にとんでもないことをされてしまうかもしれない。そんな不安に少しだけ体が浮き上がる。


「俺、兄さんの名前をもらった。清水晃生から緒方雄介になった。生まれ変わったんだ」


 生まれ変わった。その言葉になぜだか胸がギュッとなった。

 イツキでもなく咲月でもない。新しい自分。そうなれるとしたら自分はどんな人生を生きるのだろう。それを想像して、想像できたことにイツキは驚いた。


「お前もさ、そろそろ覚悟決めて生まれ変わってもいい頃だろ。逃げられたんだよ。羽澤から。お前を双子の上って理由で貶めるやつはいないし、咲月にもイツキにももう戻らなくていい。お前は、新しく自分のやりたいように生きるんだ」


 晃生――いや、雄介はそこで言葉を区切った。なにをいうのかイツキにはわかった。それを心待ちにしていることも、もう否定ができなかった。


「そろそろ起きろよ、双月そうげつ


 それは正しく自分の名だ。そうイツキ――双月は思った。


 パチリと目が開く。今まで水の中をたゆたっていたのが嘘みたいに、体に重みを感じた。長いこと感じなかった匂いや光、色に服や布団の感触。それが一気に押し寄せてきてめまいがする。


 いきなり動き出したことに体が驚いたのか鈍い痛みが走った。頭を抑えて体を起こすとずいぶん重い。水の中でずっと浮かんでいた弊害か。


「……起きた……」


 独り言のような小さな声。その声に導かれるように顔を向けると目を見開いて固まる雄介の姿が見えた。暗い森の中ではよく見えなかった姿が明るい部屋の中ではハッキリと分かる。

 こんな顔だったかと双月は思った。顔よりもよほど声の方が馴染みがあるからもっと話してくれ。そう言おうとしたが口から出たのは別の言葉だった。


「起きたんじゃない。起こされたんだ。せっかく気持ちよく寝てたのに」


 死に損なった。そうつぶやくと雄介の顔がゆがむ。勢いよく抱きしめられて双月は驚いた。

 驚いたけれど、悪くない気分だった。                                 

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