名前ってとても大切なものなのね

「慎司は家族のために御酒草学園に来たんだ。ここに来たら慎司は家族の元には帰れない。そうなったら家族は苦しむ」


 抜け殻になった兄を見て苦しんだ雄介にはわかる。あんなにやさしい奴だ。家族にだって大事にされてきたに違いない。そんな慎司が死んだと聞かされたら家族はきっと嘆き悲しむだろう。


「鎮は羽澤家から逃げたいって言ってたけど、俺みたいに過去を全部捨てる必要はないだろ。あいつは器用だからきっと羽澤家でもうまくやっていける。今もリン様に見逃してもらえたっていうのをうまく利用してるみたいだし」


 御前祭の大惨事を引き起こした鎮と慎司への風当たりはきついというのは雄介にも予想ができる。だが表立って文句を言えるものはいない。リンは名も覚えていない有象無象よりは見逃した慎司と鎮を優先する。そのくらいリンという化物は好き嫌いが激しく自分勝手だ。

 それを賢い鎮はうまく利用して、慎司へ風当たりが向かないように誘導していると大鷲に聞いた。


「岡倉の名前は鎮にとって重荷だろうけど、アイツはその名前をうまく使えるだけの器用さも教養もある。それを全部捨てて一からやっても、……まあアイツならうまくやるだろうけど、利用できるものは利用した方がいいだろ」


 鎮は出ていくという選択肢も与えられたらしい。それでもそれを選ばなかったのは慎司のためだろうし、きっと自分のためだ。このまま逃げるのは嫌だと鎮自身が決めて実行したに違いない。あの家から本気で逃げようと思っていた鎮だ。あの家の中でうまいこと渡り歩く実力だって持っている。


「俺は両親も死んだ。親戚もいない。天涯孤独の身だったんだ。死んだことになっても失うものはなにもない。兄さんも俺のことは覚えてないから悲しませることはないし」


 リンは兄の感情は返したが記憶は返さなかった。覚えていたらいろいろとまずいことが多いからだろう。それに雄介だって反対しなかった。兄はなにも知らずにいてほしい。せっかく生き返ることができたのだから、今度こそ他人のためではなく自分のために生きてほしい。


「……寂しくないの……?」


 絵里香が悲しそうな顔で雄介の顔をのぞきこんだ。他人の話だというのに自分のことのように悲しむ姿を見て、魔女が絵里香に逃げろといった意味が分かった気がした。この子を隣に置いていて魔女はきっと苦しくなったのだろう。自分の醜さを突き付けられるようで。


「寂しいからちゃんと兄さんの名前はもらった」


 口角をあげて笑うと由香里と絵里香は目を瞬かせた。それから同時に笑う。


「そっか、寂しいから名前もらったんだ」

「じゃあ私たちも寂しくないように誰かから名前もらおうか」


 絵里香の言葉に由香里は笑うのをやめてじっと絵里香を見つめた。由香里は悪戯を思いついたような顔をして由香里を見て、それから雄介へと視線を動かす。


「私の名前、晃生くんからもらってこうにしようかな」

「なんで?」


 絵里香とはせいぜい二週間と少しの付き合いだ。魔女の館で会う以前は存在すら知らなかった。ここで話すようになったとはいえってもそれほど親しい関係ではない。

 由香里も驚いた顔で絵里香を見つめている。それでも絵里香は楽しそうに笑った。


「だって晃生なんて素敵な名前、なくなってしまったら悲しいわ。ご両親が真剣に考えた名前だもの。一部とはいえ私がもらっていいでしょう。晃生くんに助けてもらった私が」

「……助けた?」


 由香里はやけに大きくうなずいた。


「助けてもらったわ。私は羽澤から逃げるなんて考えもしなかった。由香里と会えなくて寂しくてもどこかであきらめていたの。もう一生会えないんだって」


 そういって絵里香は由香里の手を握りしめる。


「あの日、晃生くんが魔女様に会いにきたとき、私は驚いたわ。こんなことができる人がいるなんて想像もしなかった。魔女様はお優しい方ではあったけど、恐ろしい方でもあった。私たち人間とは考え方が根本的に違った。それでも晃生くんは引かなかった」


 まぶしいものでも見るように絵里香は目を細めた。


「晃生くんがあきらめなかったから私は絵里香ともう一度会えた。こうして新たな人生を歩めるの。そんな恩人の名前をもらえるならこれ以上素敵なことはないと思うわ」


 まっすぐに向けられる晴れやかな顔に雄介は気恥ずかしさを覚えた。あの時は自分も必死で絵里香を救おうなんて大それたことは考えてなかった。ただ生き残りたかった。それを今になって感謝されるなんて思いもしなかった。


「……もっと可愛い名前じゃなくていいのか」


 気恥ずかしさで素直には受け入れられず、雄介は目をそらしながらぶっきらぼうにいう。それに絵里香は笑った。


「可愛さなんていらないわ。新しい人生を生きるんだもの。今までとは違う私になれるよう、名前から変えていかなくちゃ」


 迷いのない絵里香の言葉に隣で話を聞いていた由香里は目を瞬かせ、なにかを考えるように下をむいた。


「私は慎司くんからもらって慎にしようかな」

「えっ」


 由香里の言葉に雄介は驚き、思わず声が漏れた。


「慎司くん最後まで私のこと気にかけてくれてたから。私、慎司くんから見たら裏切り者なのに。私と一緒に逃げようとしてくれた」


 慎司は離れた場所にいた由香里を気にかけていた。誰よりも臆病なのに優しくて、人を見捨てられない奴。あんな状況でもその優しさはちゃんと由香里に届いていたらしい。


「もう慎司くんにも鎮くんにも会えない。雄介くんには謝れたけど、二人には謝れない」


 二人だって気にしていないはずだ。そう雄介は言いかけたがやめた。いったところで由香里の後悔は消えない。由香里は二人に直接謝りたいのだ。だが、その機会があるかどうかはわからない。もう一生、二人には会えないかもしれない。


「私は絵里香としか繋がりがなかった。だから絵里香がいなくなったら本当に一人になっちゃうって怖かった。でも、そうじゃなかった。鎮くんも慎司くんも雄介くんも私達を気にかけてくれてた。私はそれに気づかなかっただけ」


 それは雄介も同じだった。家族を失った自分にはもうなにもない。そう自暴自棄になっていた。真実を知る。復讐する。そんな大義名分を抱えて、怒鳴り散らしたかっただけなのかもしれない。今はそう思う。


「鎮の方が付き合いは長いだろ」

「付き合いが長いから私にとっては兄弟みたいなものなんだよね。鎮くんもそう思っていると思う」


 教室で喋っていた鎮と由香里の姿を思い出す。たしかにその姿はクラスメイトというよりも弟妹のようだった。

 羽澤家に対して不満や恐怖を抱くもの同士、二人は口に出さなくとも共鳴しあっていたのかもしれない。


「だから、鎮くんには悪いけど、どちらかにしか会えないとしたら慎司くんに会いたい。そして謝って、お礼をいいたいの。こんな私を最後まで見捨てないでくれてありがとうって」


 由香里はそういって笑った。教室では見たことがない無邪気な笑顔。

 由香里は大人びた印象だったが、いまの年相応な笑顔が本物なのだろうと雄介は思った。羽澤から開放された、本当の笑顔。それを鎮と慎司にも見せてあげたい。

 けれどそれは出来ない。少なくとも今は。


「再会したら慎司驚くだろうな」

「そうね。勝手に名前もらったことも謝らないと」


 クスクスと笑う由香里は楽しそうで、それを見つめる絵里香も嬉しそうだった。

 二人の名前が晃と慎になるのはそう遠くない未来。愛らしい少女には不釣り合いな凛々しい名前。それが二人の決意であり、二人だけではないという繋がりだ。


「名前ってとても大切なものなのね」


 開いていた名付け辞典を絵里香が閉じる。由香里はそうね。とうなずいた。

 雄介はなにも言わなかったが、心の中で同意した。


 清水晃生はもういない。けれど晃生は絵里香に引き継がれて、他人となった兄とは名前で繋がっている。兄さんと二度と呼べなくとも、それだけで十分だ。そう思えるようになった。

 捨てたはずの名前は絵里香が大切にしてくれる。それだけで清水晃生として生きてきた過去の自分が救われたような気がした。

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