第九話 四兄弟

お前が困るだろう

 今日は虫の声がやけに耳に残る。そう思いながら響はお盆をもって縁側へと向かう。

 悪魔の屋敷と呼ばれる日本家屋は、広いわりに人の気配がない。ここに暮らしているのがリンだけなので当たり前のことなのだが、すっかり慣れたその静けさが今日はやけに気になった。いつもであれば気にならない風に揺れる木々の音が耳に残る。小さい頃は怖いと怯えたその音も、高校生になった響の心を脅かすものではない。

 そのはずなのに、胸がざわつく。


「響、落ち着きねえな」


 縁側に座って月を眺めていたリンが愉快そうな顔でこちらをみた。響の心がなぜ落ち着かないのか分かっているのに、あえて指摘して眺めている意地の悪い顔だった。

 響は悪魔と呼ばれる男のことを怖いと思ったことはない。不気味だと言われる黒装束と、瞳だけギラつく赤色も、リンらしい。そう思うだけで気にしたことはない。しかし今日は、少しだけ周りがいうことが分かる気がした。


「意地が悪い。私がいいたいことはわかってるだろ」

「かしこいお前は、俺が意見を変えないことも分かってるだろ」


 隣にお茶と羊羹を置いたお盆を置く。響は湯飲みをとるとお茶をすすり、月を見上げた。今日は雲がなく月がよく見える。そのおかげで明かりをつけなくてもリンの顔がよく見えた。


「リンがいえば父上だって、他の者だって納得する」

「そりゃ表面上わな。でも、そのあと面倒くさいだろ」


 リンはそういいながら羊羹を菓子楊枝で切り分け、口に運んだ。響とは一切視線を合わせず月を見上げている。意見を曲げる気はないという態度に響は不満を覚えた。


「リンは困らないだろう」

「お前が困るだろう」


 リンはそういうと、やっと響と視線を合わせた。赤い瞳が至近距離で響の顔をのぞき込む。


「ただでさえお前の立場は曖昧なんだよ。お前が次の当主になるっていうなら話は別だけどな」

「私は当主の器ではない。当主は航兄上か深里兄上がなるべきだ」

「快斗とはいってやらねえのな」


 思わず顔をしかめるとリンは笑う。本当に今日のリンは意地が悪いなと響は思った。


「お前が思うとおり快斗には向いてない。でも航だって向いてない。快斗よりはまだマシって程度だ。深里は羽澤家なんてどうでもいいと思ってる」

「あんなに一族に尽力しているのに?」


 航も深里も響からみて立派な兄だ。羽澤家の本家に産まれたという重責を担い、日々清く正しく生きている。航は努力家であるし、深里は求心力がある。どちらにも自分にはないものをもった素晴らしい兄であると響は本気で思っていた。


「お前は清らかすぎるんだよな……」


 リンは困った顔をして響の頭をなでた。高校生になったというのに未だ子供扱いだが、リンの生きた年数を考えると仕方のないことかもしれない。そう響は思って黙っていた。

 高校生にもなってと思われるかもしれないが、本音をいえば響はリンに頭をなでられるのは好きだ。リン以外の大人に頭をなでられたことがないからかもしれない。


「どっちも本気で羽澤のことなんって考えてねえよ。航は期待に応えようと必死なだけだし、深里なんて自分の欲望のままにしか動いてねえ」

「そうは見えないが……?」

「考えてみろ。真に羽澤のためになることは何か」


 リンはそういうと自分の胸をトントンとたたいた。

「俺が言ったとおりにすることだ」


 すごい自信だと響は思ったが、ずっと昔から羽澤に存在する者からの言葉だと思えば冗談ともいえない。


「ではリンの言うとおりにしない私は悪か?」

「悪とまでは言わねえけど、不思議ではあるな。それで上手くいくのに、なんでそうしないのかって。それになんで他の奴らはわからねえのか」


 リンはそういいながら響の頭を優しくなでる。リンがこのようになでる人間を響は自分以外に知らない。となれば間違いなく自分はリンにとって特別なのだろう。しかしそれがリン個人にとってなのか、羽澤家という全体にとってなのか響には判断がつかない。けれど、別にどちらでもいいと響は思っていた。家のためだろうと響をこうして真っ向から可愛がってくれるのはリンだけだったから。


「お前は特別な子だ。羽澤にとって一番優先すべきはお前だ。それが人間はわからねえ」

 リンは深い息をはく。


「自分がそんな大層な存在だとは思えないのだが」

「そのうち分かるさ。お前はそのうち……」


 そこまで言ったところでリンは言葉を止めた。それから眉を寄せてなにかを考えるように宙を見つめる。先ほどまで響をからかっていたのとは違う、真剣に考え事をする顔だった。


「確実に……いやそうなると……だがそうじゃないと……」

「リン?」


 ブツブツと言葉にならない呟きを繰り返したリンは額を押さえて天を仰いだ。つられて響も夜空を見上げる。

 丸い月が響とリンを照らしていた。明るすぎて星はよくみえない。虫の声が響く。おかげで寂しくはなかったが、妙な間だった。


「……とにかくだ。最優先はお前だ。お前が不利になるようなことには賛同できない。お前の頼みでも」


 ぽつりとリンはつぶやいた。静かな声に顔をみれば視線はじっと月を見ていた。なにを考えているのかはたかだか十数年しか生きていない響には分からない。ただ、現状ではリンの意志を変えることはできない。それだけはよく分かった。


「……父や兄たちを説得出来ればいいのか?」

「そうだな。お前が個人的に俺に頼んだんじゃなく、羽澤の当主が俺に懇願して、それを俺が受け入れた。それなら周りもとやかく言わないだろ」


 リンは月から視線を戻して笑う。無邪気な笑顔には人の人生がかかっているとはとても思えなかった。

 リンから見て人の命は軽い。なぜか自分の命は大層重く扱っているが、それ以外はそこら辺で鳴いている虫と変わらない。長く生きた人ではない存在にとって人間はちっぽけで実にどうでもいい存在なのだ。

 それが分かっていても響はリンを嫌いにはなれなかった。唯一自分を甘やかしてくれる存在だからだろうか。そう考えて、ではそれに守られすがる自分はとても醜い存在なのかもしれない。そう思ったら胸が痛む。

 誰かの犠牲なしに生きられない自分たちがのうのうと生きていていいのだろうか。


「響、変なこと考えるなよ」


 気づいたら至近距離にリンの目があった。真っ赤な瞳は月明かりを浴びていつもよりも怪しく輝いている。目を見開き、じっと響を見つめながらリンは響の顎をつかんだ。目をそらすなと動きと視線で響を縫い付ける。


「現状、羽澤の人間の中でお前の命が最も重い。犠牲を出したくないなら自分の身を投げ出すようなことはするな」

「私は何も……」

「俺は分かるってお前は知ってるだろ?」


 先ほどまでの笑顔が消え失せた、能面みたいな顔でリンが響を見下ろしている。顎をつかむ手にはそれほど力が入っていない。逃げようと思えば逃げられる。それなのに響は指一本すら動かせる気がしなかった。

 ゆっくりと頷けばリンは満足そうに笑った。子供みたいな笑顔を見て、なぜだか胸がざわついた。


「大丈夫だ。なにがあっても俺がお前を守ってやるからな」


 ポンポンと頭をなでられる。落ち着くはずのそれに響の心はざわめいた。違うんだ。と言いたいのになにが違うのか、自分はなにを伝えたいのかが分からない。とにかく動かなければ。そんな危機感を抱いた。このままではダメだと。


「リン様、今宵はよい月ですね」


 混乱する響の耳に落ち着いた声がすべりこんでくる。響の頭をなでていたリンが手をとめて声の主へと視線をむけたのが分かった。響も遅れて体を動かした。声には聞き覚えがあった。


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