第四話 図書室

ダメだよ。お前羽澤だろ

 教室にはシャーペンの走る音、紙のこすれる音だけが響いている。数十人の生徒が押し込められているとは思えない静寂。前にいた中学とは比べものにならない緊張感。目の前にある教科書、ノート。そして黒板。それ以外に意識を向けてはいけない。そんな圧迫感が教室内に満ちていて、晃生は少しだけ息を詰める。

 御酒草学園に入学して少したつが、この空気にはなかなか慣れない。


 御酒草学園の授業風景は休み時間とは一変する。同世代の高校生らしくはしゃいで騒ぐ、晃生よりもよほど騒がしいクラスメイトたちが授業が始まった途端一言も発しなくなる。授業に集中しないものに命はない。そんな緊迫感に初日はずいぶん戸惑ったものだ。

 そんな調子なのに授業が終わったとたん、何事もなく普通の高校生に戻る。それが余計に恐ろしく見えた。


 御酒草学園の授業は難しい。特待生になるべく必死に勉強した晃生でも真面目に聞いていなければすぐにおいて行かれる。それほどの量とスピードで、ついてこれないものに興味はないと教師の視線は告げている。特に羽澤出身の教師の目はわかりやすく、質問しようものならそんなことも分からないのかとため息をつかれるのだ。

 居心地が悪いにもほどがある。

 しかしながら勉強しないとおいて行かれるのは目に見えていて、晃生も慎司も休み時間はまるごと自習に当てるはめになった。しかしそれを邪魔するのが鎮であり、必死でバカみたいと嘲笑うのがクラスメイトだ。本当に居心地が悪い。今までの特待生はどうやってきたのだろうと、思わず勉強の手を止めて遠くを見てしまうほどには。


「晃生君、どうしたの黄昏ちゃって」


 茶化した様子で話しかけてくるのは鎮である。未だ部外者感覚が強い晃生と慎司に話しかけてくるのは鎮が主。時たま使命感に駆られてか由香里が話しかけてくるが、異性ということもありどこか遠慮がちだ。それに比べて鎮は一切の配慮がない。許してもいないのに人の頭や肩に頭を乗せてみたりと好き勝手にするので、毎回主に顔を狙ってはたいているのだがやめる様子はない。むしろよけるようになって来て晃生としては大変腹が立つ。


「分からないことあったら鎮君が教えてあげようか?」

「……お前、いかにも勉強出来なさそうな顔して……」


 なんで出来るんだ。と睨んでやれば鎮はにんまり笑う。チャラい、軽い、不真面目と三拍子そろった態度だというのに、鎮は思いのほか勉強が出来た。晃生と慎司が目を回している授業進行度に平然とついて行く位には。


「これでも岡倉出身なのでねー小さい頃から羽澤様にお仕えするために英才教育うけているんですよ」

 Vサインを作った鎮が笑う。英才教育という言葉と緩い表情を見比べて晃生は眉を寄せた。


「もったいない。もっと適任がいるだろうに」

「ひでぇー。分家の中では優秀な方なんだぞー」


 ブーブーと文句を言う鎮を見て晃生は顔をしかめる。

 羽澤や岡倉家には本家、分家という、同じ一族でも格差があるらしい。本家に分家は頭が上がらず、優秀さでいっても本家が一段上なのだとか。岡倉家は羽澤に比べると分家の数も少なく、差もそれほどではないが羽澤家の場合は大きな違いがあるという。神様とその足下に跪く人間くらいの差があると鎮が言ったときには冗談なのか本気なのか判断しかねた。


「悪いこと言わないから、俺に聞いておいた方がいいぞ。先生は特待生に厳しい人も多いし。早めに覚えとかないとどんどん置いてかれて、気づいたら取り返しつかないことになってたりするし」


 まるで見てきたかのように鎮がいう。なぜと口に出す前に鎮は高校入学前から下宿に入り浸っていたことを思い出した。取り返しのつかないことになった特待生をみたことがあるのだろう。

 それは見ていて気分のよいものではないだろうに、鎮は気にした様子もなく下宿に通う。初日の案内の後も、当たり前のように上がり込んで上級生とはしゃいぎ、夕飯を食べ、風呂まではいってから帰宅し、時には泊まることすらあった。お前の家かここは。と晃生が突っ込めば、実家よりも実家っぽいかもしれない。とヘラヘラ笑って答えたので、深く追求することが出来なかった。

 未成年の息子が下宿に入り浸って帰ってこなくても気にしない。そういう家なのだと分かってしまったので。


「慎司も、わからないとこは遠慮なく聞け。鎮先生が教えてしんぜよう」


 分厚い参考書とにらめっこしている慎司を見て、鎮が胸を張る。文字を追うことにいっぱいいっぱいだった慎司は初めて鎮に気づいたという様子で目を瞬かせ、それから力なく笑った。


「詰め込むことで精一杯で、なにを理解してないのかもよく分からない」

「……わかる」


 力ない慎司の言葉に晃生は同意した。入学して少しだというのに、遠慮なく教師は特待生に新しいことを詰め込んでいく。しかも、独自ルールなどもあるようで、一般の中学ではまず教えないような知識を知っていて当然として進行する。どこまで自分たちが理解していて、なにが足りないのかも判断がつかない。完全にお手上げともいえた。


「覚えるのに関しては自力で頑張ってもらわないと、俺にもどうにも出来ないからな」


 教える以前の問題だと気づいたらしく鎮が苦笑した。それから少し考えるそぶりを見せてから、ああそうだと声を上げる。


「中学時代の俺のノートかすか? 復習用にとってあんだよね」

「……真面目っぽいこというな。混乱する」

「お前、俺のことなんだと思ってるの」


 鎮が納得いかないという顔をしたが、いかにも不真面目そうな人間が、復習用にノートをとっているという事実がどうにもちぐはぐで混乱する。というかお前復習とかするのか。下宿に入り浸ってるのにいつやるんだ。実はハイスペックなのか。と考え始めたらムカムカしてきた。鎮に負けるのはどうにも癪だ。


「由香里もさ、昔のノートとかとってるよな」

「えっ」


 他の女子生徒と話していた由香里は突如話を振られて驚いた声を上げた。なに? と目を白黒させる由香里に対して、鎮がにこやかに手招きする。戸惑った顔をしたものの人のよい性格からか由香里はおずおずと近づいてきて、晃生と慎司の前に立った。


「ノートって?」

「中学時代のノート。由香里、初等部の途中から入ったよな」

「……そうだけど」

「俺はこう見えても岡倉だからさ、小さい頃からここいるし、途中から放り込まれる気持ちとかわかんないんだよね。そのあたり、由香里の方が分かるんじゃね」


 さらりと鎮は由香里に告げる。それはお前は養子だから、部外者の気持ち分かるだろ。といっているようなもので、晃生はギョッとした。いくらなんでもデリカシーにかけるのではないかと。

 しかし言われた由香里は納得した様子で、鎮君よりは分かるかも。と頷いている。あまりにもあっさりした様子を見て晃生の方が戸惑った。もう少し養子ということに戸惑いや負い目を覚えるものではないのか。自分の感覚が間違っているのだろうかと慎司を見れば、慎司も微妙な顔をしている。


「初等部に入ってからのノートとか参考書とか全部とってあるから、持ってこようか?」

「それはありがたいけど、いいのか?」


 チラリと周囲を見た。未だ教室で晃生と慎司は異物扱いで、今こうして話しているだけでも刺々しい視線が突き刺さる。鎮はそんなこと気にしない性格らしいし、そんなことで落ち込むような精細なメンタルはしていないと分かっているからいいが、由香里はそうではないだろう。自分たちに優しくした結果いじめられた。なんてことになったらいくら羽澤に恨みがある晃生でも目覚めが悪い。由香里は羽澤家に引き取られただけの養子であるから余計に。


「気にしないで。お母様にも特待生の方々に優しくしなさいって言われているし」


 由香里の言葉に教室内が少しざわめいた。鎮が目を細め、他のクラスメイトたちは視線を合わせたり小声でなにかをささやき合っている。

 突然の変化に晃生は戸惑う。由香里の母親が晃生たち特待生に優しくしろというのも意味が分からないし、周囲の反応から見て純粋な好意ではないのだろう。では、一体なにが目的で由香里にそんなことを言ったのか。その理由が全く分からず由香里の顔を凝視する。


 由香里は微笑んでいる。しかしその笑みが、どこか作り物めいて見えるのは晃生の考えすぎなのだろうか。


「素敵なお母様だね」


 言葉通りに受け取ったらしい慎司が目を輝かせる。それに由香里の表情が一瞬ゆがんだ。それを見ると、やはり母親の好意は完全なる善意ではないのだろう。


「じゃあ由香里ん家、放課後よるな。俺のとまとめて下宿もってくから」


 鎮が明るい声で言う。鎮という人間は空気が読めないと見せかけてずいぶん敏感だ。そのうえ空気を変えるのが上手い。こわばった表情の由香里はほっとした様子で鎮を見ているし、クラスメイトたちも晃生たちから視線をそらす。もう話は終わり。そういうことなのだろう。


「鎮君に頼ってばかりで申し訳ないし、僕も運ぶの手伝うよ」

「それが出来たら俺もたすかるんだけどさ、特待生は中入れないからな」


 さらりと告げられた言葉に慎司は目を丸くして、そうだったと肩を落とした。晃生はそんなこともあったなと眉間のしわを深くする。


 御酒草学園は羽澤の敷地の外周に存在する。特待生が使うのは裏門は外に出ればそのまま羽澤の敷地内から出る事になる。それが羽澤の言うところの「外」だ。そして「中」と呼ばれるのが御酒草学園の正門の向こう。特待生が入ることを許されているのは御酒草学園の敷地内だけ。正門の奥、羽澤家の敷地に入ることは一切許されていない。


「正門前で待ってるのもな、特待生が正門に近づくだけでも印象悪くなるし」

「面倒だな……」


 鎮の言葉につぶやくと鎮も同意する。


「私も持って行くの手伝おうか?」

「由香里手伝わせたら、俺が親父と兄貴に怒られる」

「少しぐらいなら……」

「ダメだよ。お前羽澤だろ」


 鎮らしからぬ冷たい拒絶の言葉。それに由香里は言いよどむ。何かを言い足そうな顔で黙り込む由香里は歯がゆそうだ。晃生が想像出来る範囲であれば「羽澤といっても養子なのに」といったところだろうか。


「……岡倉はそこまで羽澤家を立てるのか」

「うーん、家にもよるけど、うちはなあ。親父と兄貴が根っからの岡倉って性格してるから。それに分家だし。羽澤様は讃えてた方が色々とな」


 讃えるという表現を使う割にはどうでも良さそうな顔と声で鎮は言う。おそらくは父親と兄から言われ続けた言葉を口にしているだけなのだろう。

 岡倉は羽澤に古くから仕える忠犬だと聞くが、鎮の態度は忠犬にはほど遠い。主人の帰りをじっと待つような忠誠心などかけらもなく、主人がいなくなったのをいいことにリードを引きちぎって逃走しそうである。

 そんな鎮でも生まれ育った家や親のいうことは意識せずにはいられないのか、心底どうでも良さそうな顔で由香里を立てる。養子であろうと「羽澤」の名字を名乗るものだから。それだけの理由であがめ立てる。それはなんとも歪な関係に思えた。


「それだったら、学校に持ってきてくれれば自分で持ち帰るよ」

「えーでも俺も下宿遊びに行きたいしー」

「お前、それが本音だろ」


 軽く睨むと鎮はケラケラ笑った。バレたかー。と笑う鎮は先ほどよりも楽しそうで、重い荷物を担いだとしても理由をつけて下宿に行きたいのだろうとうかがえた。最初はなぜと思ったが、今の話を聞いていると少しだけ理解が出来る。

 きっと家にいるより下宿にいる方が楽なのだ。下宿は羽澤の外。いるのは羽澤家とは関係ない特待生ばかり。羽澤家だから、岡倉家だからなんて見えないルールは関係ない。


 そう考えるとこのお気楽そうに笑っている鎮もなにも抱えていないわけではないのかもしれない。そう晃生は思ったが、すぐさま思考を振り返る。仮に鎮がなにかを抱えていたとしても、晃生には関係ない。晃生の目的はただ一つなのだから。

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