傅くのは口付けの代わり

差久

1.「ご主人様」と呼ばれる「我」

 寝台の上で目を覚ます。


 気持ちの良い目覚め。

 それを期待するが、現実には唐突な失意が生まれた。

 それは、夢から覚めるよりは無意識からの浮上が近いと感じ入る、起き抜けの割には妙にフラットな思考から発したもの。

 つまり自分はこの目覚めに対して思ったほどの感動もなく、ただ冷たい布団の外の空気を億劫に感じるだけ、怠惰に落ちる快楽に溺れるだけの自分という、オチとして付けるべき現実を突きつけられているようで、「確かにこれは現実に違いない」といったリアルな所感を思い浮かべた。

 そのタイミングで。

 

 改めて、我、「小野村 呉次郎(おのむら ごじろう)」は本格的に意識を起床させた。



 ◇  ◇  ◇


 ゴジロウ。

 皆まで言うまい。

 しかし、いややはり。

 ゴジロウはどうなんだろう。

 名付け親は何を思って、これを。理解しがたい。

 

 語感とか、大切ではなかろうか?


 多くの人間が一般知識のカテゴリで記憶しているだろう某怪獣を彷彿させることも無視のできない事案だ。

 人間のエゴや身勝手が産み落とした悲劇的生命体。ハリウッドまで上り詰めたその英名。

 全米を泣かせたそのネームバリューに、名付けられた子供が困窮する未来が見えなかったのだろうか? 先見性のない親は子供を産む権利が云々、といったそんな多くの人間を巻き込みかねない議論さえ呼び起こす。

 そう、我は何も私的な怨念から言っているわけではなく。


「ご主人様」

「む」


 気が付けば、我の傍らに年若い女性が一人佇んでいた。

 知らぬうちにちょっとした時間が経っていたようだ。そして知らぬうちに彼女の接近を許していた。

 まあ別段。害を及ぼす相手ではない故に警戒の必要もないが。接近を許すとかそういうひっ迫した際の表現も必要なかった。どうやら寝ぼけているようだな。

「ご主人様。

 申し訳ありませんが、お目を覚まされたのであれば」

 うむ。

 そうだった。職務を全うし、主の起床を促しに来たメイドたる彼女に対し、少し不誠実な態度であった。

 猛省せねば。

「さっさとベッドから退いてもらえませんか。邪魔です」

「………」

 どうやら猛省するべきは私だけではないようだ。

「貴様」

 言うてやらねば。

「主に対し「邪魔です」はい」

 まぁ、職務に割り込んでまで急ぎ言う事でもあるまい。後で言う事にしよう。


 ◇  ◇  ◇


 こんな風に「ご主人様」と呼ばれる私は、まさか一般人と名乗ることは許されないだろう。

 

 メイドの職務を積極的にさりげなく支援するため、部屋を追い出された私は、着替えも許されなかった故、寝間着姿で廊下を歩き居間に向かっていた。

 特段伝えられたわけでもないが、メイドが起床を促してきた際には、併せて居間に食事が用意されている毎度のルーティンを信じるが故の行動である。

 用意されていない場合は、何、起床後は他にもやることが色々あるものだ。そちらを先に済ませてしまえばよい。


 段々と、我の立ち位置にヒエラルキー的下位の流れを感じ取った諸兄がこのタイミングでいたとしても、私はそれを責めはせぬ。否定もしにくい。

 とはいえ「ご主人様」。名ばかりだとしても主従関係が存在する家庭は、貴族でもない庶民的社会においては珍しい存在と言える。一界隈ではそうでもないかもしれないが、今はそれを省いて考えてもらおう。


 そんな思考遊びに耽っていると、程なく居間のドアに差し掛かる。

 ドア向こうにある動作の気配を感じながら中に入ると、 

「ご主人様? お起きになられたのですね?」

 そんな、ふわりとした声。

 先程とは異なる、しかしまた主従関係が伺える声が上がる。

 疑問形だが。

 ものすごく疑問形だが。


「なぜ、寝間着のままなんです?」


 そっちか。

 そうだな。当然の疑問だった。


 今度話しかけてきた従僕らしき人物は、先ほどと続き女性であり、先ほどの人物よりは年長だった。

 居間に続くシステムキッチンに居住まいを構え、丁度食事の支度を一通り済ませた後なのだろう——そこに小さな安堵を見つける矮小な私——洗い終えた調理器具を新品さながらの清潔な布巾で手際よく拭いているその姿は、まごうことなきメイドスタイル。

 趣味や性的嗜好から発生する仕様のものも存在するようだが、そう言ったものとは一線を画す、機能美と格式のみを考慮されたTHE仕事着ではあるものの、そこはあくまで家庭を支援するハウスキーパーが目的である職業。余計な緊張感はなく、黒子に徹する日陰感も忘れていないその佇まい。


 まぁ彼女の場合、乳が派手なので、その辺りの努力は霧散しているが。


「ご主人様?」

「着替えをする間もなく『シャオリィ』に追い出されたのだ。

 あ奴には自分が呼んでいる「主人」の意味を聞いてみたい」

「まぁ、それは失礼しました」


 彼女は何かを感じ取ったようだったが、主人の言葉にまずは『メイド長』として謝辞を示すことを優先し、頭を垂れる。もちろん主人たる私に向け。

 その辺り、さすがの『メイド長』。洗練され続けたメイドとしての格調が、先ほどのメイドとは違うのだろう。


「では、早速後でご主人様の寝室にお伺いしますね?」

 そう、彼女は頭を垂れたまま言葉を告げ、何でもない調子で元の所作に戻り、洗い物を続けた。

 そこには謝り続けられることもストレスであることを理解した、黒子を徹する美学が伺える。

 彼女はプロフェッショナルだ。

「『マリア』」

「? はい。ご主人様」

 すぐにまた声を掛けられることなど想像もしていなかった驚きをもって、再度洗い物の手を止め顔を上げる彼女「マリア」に、私は告げねばならぬ事柄があった。

「なぜに私の寝室に来る必要がある。私は今日眠りにつくまで寝室に用はないぞ」

「え? この後、後進の指導がなってない事への性的な嫌がらせを、ご主人様からお受けしなければいけませんし………」

「義務的な性奉仕など不要だ」

「では、私の趣味です」

 こやつも主人の意味を吐き違えておるな。

 だれがプロフェッショナルだ。


 「いつになれば私の誘いを受けて頂けるのか……」と愚痴のように呟いて居間を去っていったメイドを(洗い物は?)、不審者が視界から消えるのを油断なく見る被害者の目線で見送ると、居間のテーブルに用意された食事に目をやる。


 作ってもらえるご飯はとても美味しいのだが。

 

 そんな贅沢な愚痴のようなものを心中ですりつぶしながら、その贅沢のご相伴に預かるためテーブルの席に着く。

 そして「頂きます」と明確に相手を思いながら宣言し、食事を頂く。『今回』は紅茶シフォン。

 

 やはり美味い。

 うん。

 しかし、まぁなんというか。

 あ奴あ奴で、私を何だと思っているのだろう………?

 主人でなくてもいいのだが、堂々と日常的に同じ家にいるものに性的嗜好をぶつけない方が良いのではないか。あ奴がメイドとして細心の注意を計り私の心労を少しでもかけまいとする努力が、その嗜好一つで完全に粉砕している上、むしろ恐怖のエッセンスにすらなって居るのだが。

 何のための気遣いなのだ? 上げて落とすやつか? 上級者か?

 油断せぬよう、心の平常を保つよう努めなければ……。


 自分の家で何だこの緊張感はと思わんでもないが、外出というものをほぼ行わない私にとっては、バランスが取れているのかも知れぬ。

 そう考えれば、三周ほど回って、あれもあやつの気遣いとも言えるか。

 なるほど。それならば仕方あるまい。

 先程から私という主人からのメイドへの気遣いこそ異常という気がせんでもないが、シフォンの美味さに免じて許そう。

 これ以上は良くない。

 

 そんな風に、シフォンの味が分からなくなるような思考を追い出す作業に集中していると、寝室のベッドメイキングが終わった模様の先程のメイド、シャオリィが居間に顔を出した。

 そして、少し見回した後、私を見つけるとすぐに歩み寄り、いつのまにか無くなっていたシフォンを載せた皿を手早く回収する。

 そのような職務をまっとうに果たす姿を見せられると、先ほどの陰口のような意見が良心に刺さるな。我も少し大人気ない言動だった。

 猛省せねば。

「シャオリィ」

「はい?」

「いつも助かる。お前のような者に従事される私は果報者なのだろう」

「はあ」

 気のない言葉であるし、主人への態度として疑問がないでもないが、これが彼女のあり方なのだ。我が彼女の主人であると言うならば、それを尊重せねばならぬ。

 その彼女は、シンクに洗い物を片付けると、そのままテーブルを拭く為だろう、テーブルの上に置かれた花瓶などを退けはじめる。

 ふむ。このままここに居れば、またもゴミ扱いに——いや、彼女の職務の邪魔になるだろう。

 ここは主人としてさりげなくなく彼女の仕事を支援すべく立ち去ろう。

 そんな気遣いの塊のような男が、音もなく去ろうとする最中——

 そんな主人心は全く意に介さず、こちらの背中に声がかかる。

「ああ、暇なら『美音みおん』を起こしに行けばいいと思います。——あ、ご主人様」

 ご主人様と付けておけばセーフ感がすごいぞ貴様。


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