第2話

 


 湯気を上げている鍋に酒を注いだ徳利を入れると、おでん鍋から自分の好きな種を皿に取り分けた。玄三が盛り付けしたもつ煮込みと鰊の煮付けを盆に載せると、玄三が鍋から出した徳利の底を布巾ふきんで拭いていた。


「おまちどおさまです。このにしんの煮付け、私が味付けしたんです。味見をしてくれませんか」


 注文した物に箸を付けない客が峰子は嫌いだった。だから、すぐに箸を持たなかった勇人を焦れったく思い、食べるように促した。味見をしてくれと言われて食べない人は居まい。それが峰子の方策だった。


 勇人は口に含むと、ゆっくりと咀嚼そしゃくした。


「うむ……うまいっ」


 勇人が初めて表情を緩めた。峰子は嬉しかった。


「ひゃーひゃー、おまちどおさん。一杯どうぞ」


 片足が不自由な玄三が、徳利を手にして厨房から出てくると、金ちゃんに酌をした。


「なんで大将が酌をするんだよ。しなくていいって」


 金ちゃんが迷惑そうな顔をした。


「あんら、うちっちじゃおえんかしら(私じゃ駄目かしら)?」


 女形の声を真似た玄三が、口元を隠して方言で返した。他の客が哄笑こうしょうした。


「ほら、どうぞって」


 玄三は執拗しつようだった。


「いらにゃーって」


「そんなこと言わにゃーで、ほら、どうぞって」


「いらにゃーって」


 金ちゃんも調子に乗っていた。勇人を見ると、二人の掛け合い漫才で緊張がほぐれたのか、子供のように笑っていた。27、8だろうか、タートルネックにジャケットの格好から、サラリーマンでないことは察しがついた。初めての店で、知らない人達と一緒になって笑ってくれた。そのことが、峰子はなぜかしら嬉しかった。



 帰宅すると、真太郎が寝息を立てていた。自分の布団の横に峰子の布団も敷いてくれていた。それは峰子が言い付けた訳ではなく、真太郎自らがやってくれていることだった。優しい人間に育ってくれたことに峰子は感謝した。


 台所に行くと、いつものように洗った茶碗を水切りかごに伏せてあった。明日の分の米を研ぎ終えた峰子は、化粧を洗い落とすと布団に潜った。縁側の障子からの月明かりが、真太郎の寝顔を淡く照らしていた。峰子は手を伸ばして真太郎の頭を優しく撫でると、声を殺して泣いた。――



 翌日の夕刻。〈玄三庵〉は珍しく暇だった。峰子が鰊の味付けをしていると戸が開いた。振り向くと勇人だった。


「いらっしゃいませ!」


 割烹着かっぽうぎを脱ぐといそいそと厨房を出た。勇人は昨日と同じ、隅の席に座った。


「いらっしゃいませ。ご注文は」


「昨日と同じで」


 俯いたままだった。


「かしこまりました。ただいま」


 峰子は浮き浮きしながら厨房に入った。玄三が酒の用意をすると、峰子はもつの煮込みやおでんを皿に盛り付けた。


「おまちどおさまです」


 勇人の前に皿やぐい呑みを置くと、徳利を持った。


「どうぞ」


 峰子の言葉にぐい呑みを手にした。今日は勇人の手は震えてなかった。


「一杯、いかがですか」


 勇人が酒を勧めた。


「ありがとうございます。でも、仕事中なので……」


 峰子が遠慮すると、


「おみねちゃん、お客さんいにゃーで大丈夫だよ、一杯ぐりゃー」


 玄三が声をかけた。


「それじゃ、一杯だけ」


 峰子は玄三からぐい呑みを受け取ると戻ってきて、勇人の前に座った。徳利を持った勇人の手が少し震えていた。峰子は微笑むと勇人を見た。


「いただきます」


「どうぞ」


 勇人もぐい呑みを持った。


「昨日が初めてですか?ここ」


「はい。こっちに転勤になって。仕事帰りに一杯呑もうかとぶらぶら歩いていたら、あなたの笑顔が見えて、誘われるように入ってきました」


「それはどうも、ありがとうございます」


 峰子が頭を下げた。


「吉岡勇人と言います」


「はやとさん。どんな字を書くんですか」


「勇気の勇に、ひとです」


「素敵なお名前ですね」


「ありがとうございます」


 その時、戸が開いた。


「いらっしゃいませ!どうぞ、ごゆっくり」


 峰子は急いで腰を上げた。――



 それから数日後だった。客が帰った閉店間際、今日は勇人は来ないのかと思っていると、戸が開いた。そこにいたのは、酩酊めいてい状態の勇人だった。へたり込むように椅子に腰を下ろした。


「大丈夫ですか」


 峰子が声をかけた。


「……水を」


 勇人が弱々しく言った。峰子は厨房に行くと、水を入れてくれたグラスを玄三から受け取った。


「はい、飲んで」


 勇人にグラスを握らせた。それを一気に飲み干すと、


「……親友が……死んだ」


 ぽつりとそう言って、テーブルに顔を伏せると、すすり泣いた。困惑の表情で玄三を見ると、玄三が手招きした。


「先に帰るで話を聞いてやりなせゃー。鍵を渡すで、裏の水瓶の下にでも置いといてくれ。火の元に気を付けて。それじゃね」


 玄三は峰子に鍵を渡すと、静かに店を出て行った。峰子は暖簾を入れると、鍵をした。空になったグラスに水を入れて戻ってくると、勇人が寝息を立てていた。電気を消すと、勇人の前に腰を下ろし、目を覚ますのを待った。――いつの間にか峰子も眠っていた。


 間もなくして、峰子はびくっとして目を覚ました。顔を上げると、窓の障子から差し込む街灯の明かりに、峰子を見つめる勇人の顔があった。


「……起きた?」


 峰子が訊いたが、勇人は何も言わないで突然立ち上がり、峰子の手を引っ張った。


「痛っ」


 強引に引き寄せると、峰子の唇を奪った。


「うっ」


 峰子は力の限りに抵抗して腕から逃れると、思いっきり勇人の頬を叩いた。勇人は頬に手を当てると俯いた。


「……がっかりした。酒の勢いを借りないと何もできないんですか。……まさか、友人が死んだと言うのも嘘?」


「……」


 勇人は返事をしなかった。


「……どうして、そんな嘘を……」


 峰子は呆れた顔をした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る