第2話
湯気を上げている鍋に酒を注いだ徳利を入れると、おでん鍋から自分の好きな種を皿に取り分けた。玄三が盛り付けしたもつ煮込みと鰊の煮付けを盆に載せると、玄三が鍋から出した徳利の底を
「おまちどおさまです。このにしんの煮付け、私が味付けしたんです。味見をしてくれませんか」
注文した物に箸を付けない客が峰子は嫌いだった。だから、すぐに箸を持たなかった勇人を焦れったく思い、食べるように促した。味見をしてくれと言われて食べない人は居まい。それが峰子の方策だった。
勇人は口に含むと、ゆっくりと
「うむ……
勇人が初めて表情を緩めた。峰子は嬉しかった。
「ひゃーひゃー、おまちどおさん。一杯どうぞ」
片足が不自由な玄三が、徳利を手にして厨房から出てくると、金ちゃんに酌をした。
「なんで大将が酌をするんだよ。しなくていいって」
金ちゃんが迷惑そうな顔をした。
「あんら、うちっちじゃおえんかしら(私じゃ駄目かしら)?」
女形の声を真似た玄三が、口元を隠して方言で返した。他の客が
「ほら、どうぞって」
玄三は
「いらにゃーって」
「そんなこと言わにゃーで、ほら、どうぞって」
「いらにゃーって」
金ちゃんも調子に乗っていた。勇人を見ると、二人の掛け合い漫才で緊張が
帰宅すると、真太郎が寝息を立てていた。自分の布団の横に峰子の布団も敷いてくれていた。それは峰子が言い付けた訳ではなく、真太郎自らがやってくれていることだった。優しい人間に育ってくれたことに峰子は感謝した。
台所に行くと、いつものように洗った茶碗を水切りかごに伏せてあった。明日の分の米を研ぎ終えた峰子は、化粧を洗い落とすと布団に潜った。縁側の障子からの月明かりが、真太郎の寝顔を淡く照らしていた。峰子は手を伸ばして真太郎の頭を優しく撫でると、声を殺して泣いた。――
翌日の夕刻。〈玄三庵〉は珍しく暇だった。峰子が鰊の味付けをしていると戸が開いた。振り向くと勇人だった。
「いらっしゃいませ!」
「いらっしゃいませ。ご注文は」
「昨日と同じで」
俯いたままだった。
「かしこまりました。ただいま」
峰子は浮き浮きしながら厨房に入った。玄三が酒の用意をすると、峰子はもつの煮込みやおでんを皿に盛り付けた。
「おまちどおさまです」
勇人の前に皿やぐい呑みを置くと、徳利を持った。
「どうぞ」
峰子の言葉にぐい呑みを手にした。今日は勇人の手は震えてなかった。
「一杯、いかがですか」
勇人が酒を勧めた。
「ありがとうございます。でも、仕事中なので……」
峰子が遠慮すると、
「おみねちゃん、お客さんいにゃーで大丈夫だよ、一杯ぐりゃー」
玄三が声をかけた。
「それじゃ、一杯だけ」
峰子は玄三からぐい呑みを受け取ると戻ってきて、勇人の前に座った。徳利を持った勇人の手が少し震えていた。峰子は微笑むと勇人を見た。
「いただきます」
「どうぞ」
勇人もぐい呑みを持った。
「昨日が初めてですか?ここ」
「はい。こっちに転勤になって。仕事帰りに一杯呑もうかとぶらぶら歩いていたら、あなたの笑顔が見えて、誘われるように入ってきました」
「それはどうも、ありがとうございます」
峰子が頭を下げた。
「吉岡勇人と言います」
「はやとさん。どんな字を書くんですか」
「勇気の勇に、
「素敵なお名前ですね」
「ありがとうございます」
その時、戸が開いた。
「いらっしゃいませ!どうぞ、ごゆっくり」
峰子は急いで腰を上げた。――
それから数日後だった。客が帰った閉店間際、今日は勇人は来ないのかと思っていると、戸が開いた。そこにいたのは、
「大丈夫ですか」
峰子が声をかけた。
「……水を」
勇人が弱々しく言った。峰子は厨房に行くと、水を入れてくれたグラスを玄三から受け取った。
「はい、飲んで」
勇人にグラスを握らせた。それを一気に飲み干すと、
「……親友が……死んだ」
ぽつりとそう言って、テーブルに顔を伏せると、
「先に帰るで話を聞いてやりなせゃー。鍵を渡すで、裏の水瓶の下にでも置いといてくれ。火の元に気を付けて。それじゃね」
玄三は峰子に鍵を渡すと、静かに店を出て行った。峰子は暖簾を入れると、鍵をした。空になったグラスに水を入れて戻ってくると、勇人が寝息を立てていた。電気を消すと、勇人の前に腰を下ろし、目を覚ますのを待った。――いつの間にか峰子も眠っていた。
間もなくして、峰子はびくっとして目を覚ました。顔を上げると、窓の障子から差し込む街灯の明かりに、峰子を見つめる勇人の顔があった。
「……起きた?」
峰子が訊いたが、勇人は何も言わないで突然立ち上がり、峰子の手を引っ張った。
「痛っ」
強引に引き寄せると、峰子の唇を奪った。
「うっ」
峰子は力の限りに抵抗して腕から逃れると、思いっきり勇人の頬を叩いた。勇人は頬に手を当てると俯いた。
「……がっかりした。酒の勢いを借りないと何もできないんですか。……まさか、友人が死んだと言うのも嘘?」
「……」
勇人は返事をしなかった。
「……どうして、そんな嘘を……」
峰子は呆れた顔をした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます