③
「ごめん、本当にごめん。調子に乗りすぎました」
巣である巨樹の張り出した根を仕切りに、向こうでまだゼェゼェと肩で息しているその少女へとお
「まあでも、今日は天気がいいから服ならすぐに乾くよ」
「そういう問題じゃないわよ!!」
まだ怒り心頭なご様子。
ちなみに身に着けていた衣類は絞って根元に干していて、少女はまるっきり下着姿だ。
「ど、どうして符呪の札が効かないのよ……! ドラゴン族はそこまで強大だって言うの……」
取れないと思っていたそのお札だが、水に入ったらあっさり溶けていた。
「その符呪のお札ってどういう物なの?」
「……〈ジェノスの契約〉によって力を取り戻した術者が、どんな人間でも扱えるよう細工を施した簡易式の〈呪文〉発動装置よ」
「じゃあ、もしかして偽物を掴まされたんじゃないかな」
「――そんな訳ない! この霊札はあたしの師匠が直々に用意してくれていた物なのよ!」
「その師匠さんが、失敗作を作っちゃったとか?」
「師匠をバカにするなっ!!」
根の向こうから顔を出し、涙と鼻水で
「師匠は身寄りのないあたしとお姉ちゃんを引き取って育ててくれた! 術者としても高名で〈夜霧のレオノーラ〉と言えば界隈では知らない人間がいない程よ!! 偉大で聡明で、強くて優しくて……素晴らしい人……〝だった〟のよ……」
最後は消え入るような響きだ。
俯いてしまった少女が顔を背け、次いで押し殺したような、しゃくり上げるような嗚咽が漏れてくる。
どう言葉を掛けていいか分からなかった。
ともかく彼女が立ち直るまで、俺は待つ事にした。
「……だから! どうあってもアンタと契約を果たし、あたしは術者として大成しなくちゃいけいないの! 最上位種族に値する古竜を使役し、あたしは師匠の仇を討たなきゃいけない! そして必ずお姉ちゃんを取り戻すわ!」
どこか間抜けな雰囲気が
とは言え、こちらの世界の事をあまり把握していない俺が安請け合いしてどうにかな話なのだろうか。
確かに俺は見たまんまドラゴンだが、そんな大層な力があるでもなし。
「さあ! だから早くあたしと契約しなさい! 古竜のその力、根こそぎあたしに明け渡すのよ!」
「待って待って、ちょっと待ってよ」
下着姿で構わずこちらに身を乗り出してくる少女を、前脚でどうどうと
「うーんと、どう説明したらいいのか……。俺はね多分、君が思っているような存在じゃないんだ。ちょっとこの世界においては部外者っていうかさ」
「何を訳の分かんないこと言ってはぐらかそうとしてんのよっ!」
「いや、そうじゃなくて。……というか、そもそもその契約というはどうやるの? どういう風にすれば?」
「そ――その気になったの?!」
幼子のようだったその泣き顔をぱっと明るい色に変えて、少女が勢い込む。
完全にそのつもりという訳ではないが、何だか色々と
「儀式そのものはすごく簡単よっ! 互いの身体の一部に同じ印を刻み込む――術式による刻印をすればいいのよ。そして魂の格を対等とする、ただそれだけの話」
「それで、契約がなされると具体的にどうなるの?」
「よくは知らないけど、そっちは少々疲れっぽくなるとか、気力や体力が落ちるとか――きっとそんな感じよ。あたしの方は、アンタのその生命力を糧にして〈呪文〉の恩恵を得られるって寸法」
「え、それって搾取じゃん」
随分と一方的というか、虫のいい話だ。
「こっちが生きている限りはそうでしょうけど……でも、あたしが死んだらその魂はアンタの物になるんでしょ? その対価があって初めて契約となるんだから」
「そうなの?」
「知らないわよ、アンタ達の領分の話でしょ!」
まるで悪魔の契約だ。実際、なんかこっちの事を「魔物」と呼んでるし。
「というか、――さあ! 納得したなら早速あたしと契約しなさい!」
「ええー、今?」
「今、すぐ! 今、ここでよっ!」
俄然やる気というか、テンションMAXだ。まだお互い名前も知らないというのに、そんな重要な
しかしこちらの懸念は意に介さず、相手は地面に広げて乾かしていた荷物袋の中身を物色する。
そして、一冊の古びた本を持ち出した。それは文様の入った厳めしい皮表紙で、随分と年代物のようだ。
少女はこちらと向かい合わせの位置に移動し、本のページを広げると、すうっと深呼吸するように目を閉じた。
何度も気息を整えるようにし、空を仰ぐように顎を上げている。
さっきまでの
「……何してるの? ヘンな電波でも受信した?」
「静かにして、瞑想中なの」
冗談をぴしゃりと
その場に嘘のような静けさが降りていた。
不意に、少女が口の中だけで呟くように何事かを唱え始めた。次第とその音量が大きくなっていく。
だが耳に届く筈となったその言葉の連なりが、どうしてか理解できない。意味のない単語をただ並べているのか、あるいはこちらには理解できない言語系統のものなのか。
そして、彼女の取り巻くその空気が
まるでつむじ風が湧き立つよう、静電気が空気中に拡散するよう、彼女の周りの空間だけがはっきりと異質なものへと変貌している。
それは目に見え出した金色の光の粒子によって、より
詠唱が大きく響き渡る。
やがて、漂う光が意思を宿したように流動する。
少女の剥き出しに近い胸元――その控えめな膨らみの上部、鎖骨から下ったその位置に、金色の粒子が変幻するようにして何かの印を刻み込む。
同時に、その印から放射された光が対面にいた自身の胸元をも貫いた。
まるで鏡合わせのようにして、互いの胸に金色の光で何かの印が刻まれていく。
そう思われた瞬間――
バチリと雷光が弾けるように、俺の胸元に描かれていたその模様だけが掻き消える。そして、
「そんなっ……!?」
茫然とした声が彼女から発せられた。
「なんか失敗っぽい?」
「……」
唇を噛むようにして、少女は広げた古書のそのページに食い入っている。
しかし、すぐにも思い至ったよう顔を上げ、こちらを
「アンタ! 絶対あたしの事を見下してるでしょっ?!」
「いきなり、何を仰る?」
「さっき説明したじゃない! 契約は、魂の格を同等にしなきゃいけないの! なのにアンタの方があたしの事を取るに足らない存在だと思ってるせいで……それで失敗したに違いないのよ!」
しおらしかったかと思えば、ギャンギャンとまた吠え始める。
「えー? 俺に責任を押し付けるの?」
「アンタの責任じゃないっ!」
「というかさっきの質問の答えなんだけど、正直、見下してるかと訊かれれば……うん、まあ実際、君の事を見下してるよ?」
「は……はあぁぁぁ?!」
「だってさあ、その、君ポンコツじゃん」
「――!?」
「押し留められないポンコツっぷりじゃん」
一生懸命なのは伝わってくるがすごく空回りしているというか、要所でなんかダメダメな感じが
「無理からぬ話だよ。ごめんだけど、正直ナチュラルに下に見てる」
包み隠さずに本音を漏らした。
それが原因であるというのなら、隠し立てても打開はしない訳だからしょうがない。
「誰が……誰が……誰がポンコツだこらぁーっ!!」
「君が」
「うう――うっさいわぁ! 念を押して言うな!!」
「いや、訊いてきたから」
「バカにして……バカにしてぇっ! 誰がポンコツよ! ……アンタにあたしの何がわかるっていうのよ……」
「だから悪いとは思ってるって。でも、どうしようもない訳で」
また涙目状態に戻ってしまった少女がキッとこちらに目を向けた。
「ならあたしがポンコツじゃないって証明してやろうじゃない!」
「――うわ!」
ヤケを起こしたのか、少女はいきなり殴り掛かってきた。
「いや、その手段が暴力ってもう壊滅的にダメじゃん!」
「うるさぁーい!!」
人をろくに殴った事もないだろうに、拳を大がかりに振り回してくる。
こちらも身を退いて避けるが、彼女は執拗に追い迫ってきた。
その一発がこちらの背中にヒットした。生の拳が硬い物を打つ嫌な音が鳴った。
くぐもった悲鳴を上げて、少女が殴りにいった腕を抱え込む。
「ああ、もう……。自分で言うのも何だけど、俺の鱗って相当に硬いんだから危ないよ。大丈夫? 逆に怪我とかしてない?」
労わるよう声を掛けたが、少女はまだ
「ちょっ、やめて! イタイ、イタイってば! ごめん、ごーめーんって」
割と本気で叩いてくるが、こちらはそう大したダメージでもない。
なので仕方なく、その場で頭を丸めて伏せ、彼女の気が晴れるまで叩かれてやる事にした。
「
「ダメダメを執拗に繰り返すなーっ!!」
その瞬間だった――
突如、地表に隕石でも落着したのかという熱波と衝撃と震動がその場に
その波紋だけで少女がこちらに覆い被さるよう倒れる。
「
見遣れば、爆砕したかのように
その鎌首を
「お、おかえりママ……」
その迫力に思わず声が
俺のすぐ間近で、ここに来て最大の恐怖と怯えで色を失くした少女が、凍りついたようにその様を眺めている。言葉どころか、思念すらもストップした面持ちだ。
「人間種!! 私の大切なぼうやに何をしたッ?!」
少女はその物質化した圧を受けて、腰を抜かし、歯をガタガタと打ち鳴らす事しかできずいる。吹き飛んでいるのは、涙どころの話ではない。
「……ち、違うんだってママ。この子はね、何というか決して悪い子じゃなくて……さっきのも、ちょっとじゃれ合ってただけな訳で――」
「浅ましく、愚かしい人間種!! 今すぐその身を
「ママ、聴いて聴いて? ほんとアレなの、この子ってかなり残念な感じではあるけど、ホントはめっちゃ良い子だから――たぶん」
その匹敵し得る物のない巨体を揺すって、ママンが
俺は必死の思いでそれを宥める。
少女はその圧倒的な恐怖にどうする事も出来ず、
吐く息が灼熱色に染まり、荒れ狂った突風が梢を揺らし湖面を波打たせ、さっきまで晴れていた空模様はどす黒い雷雲と稲光に早変わり。
「だからママ! ……この子は、ええっと……俺の『友達』なんだってば!」
「……お友達?」
そこでようやくママンの瞳がいつもと同じに立ち返っては、俺の方へと視点を当てた。
「ほら君、えっと、俺たちは友達だよねー? ちょっとふざけ合ってただけだよねー? ほんともう、ママは心配症で困っちゃうなあ。ねー?」
まだ判然としていないご様子のため、俺は必死で少女も促しながら空笑いだ。
「……わ……わ……」
少女が、震える喉から懸命に声を絞りだす。
「……わあああああああっ!! うわあああああああああああああああん!! ――ビィヤアアアアアアアアアアアアァ!!」
何かの支え――尊厳的なあれ――が失せたかのごとく、尋常じゃない勢いで泣き始めてしまった。
「うおう、幼児退行だこれ」
赤ん坊も顔負けに泣きじゃくる少女に対して、さすがのママンも面喰らったご様子だった。
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