②
太陽が真上に差し掛かる頃合いだろうか、その気配を察知した。
湖を取り囲む木々の合間から誰かがこちらを注意深く
確認しただけでも四度ほど、ここ数日で同じような気配を感じていた。
さて、今日はどこまで近づいてくるかな。
「……」
狸寝入りでその動向を待つ。
そろりと、草の上に足を運ぶ微かな物音がする。
ゆっくりとそれが近づいてくる。
ちょっとした興味で、尻尾を振ったりしてこちらが
やがて間を置いて再開される。
その様がやけに笑いを誘う。
薄目を開けて、隠れる場所のない太陽の下、こちらに忍び足でにじり寄ってくるその姿を確認した。
それは少女だった。――人間の女の子だ。
かつての同族、性別や服装やらは違うが、少なくとも昔は俺もそんな姿形だった筈。
その〝昔〟が〝いつ〟だったかをまるで把握できないが。
今日は大胆にも、少女はこちらと手の触れる距離まで至った。
抑えている息遣いと、それでも隠し切れない早い鼓動の音が感じられた。
この瞬間を待っていたとばかりにそっちに顔を向け、ぱっと
「――ひあぅっ!!」
間の抜けた声が少女の喉から漏れる。
驚いた拍子で、草の上に尻餅までついていた。
俺はそんな少女をまじまじと近くから眺めた。
見た事のない原色の民族衣装に羽根飾りの帽子を被っている。
その容姿はまだ若干幼く、歳の頃は十代前半だろう。
「どうもこんにちは。どちらさま?」
「しゃ……喋った?!」
「はいまあ、喋れますけど」
「ななっ!? ……い、いや! やっぱりそうなのね! この聖域の主は知能を有する
眼を円くしていたその少女が身を転ずるよう、途端に草の上を転げ回った。
たぶん一回転で華麗に立ち上がるつもりだったのだろうが勢い余ってゴロゴロしていた。
やっとの事で立ち上がり、少女こちらにビッと指を突きつける。
どこか
その面立ちも美人と言って
「あ、あたしの推測通りね! 驚くまでもない! フン!」
なぜかドヤ顔をかまして、こちらを見下すように構えている。
ちょっと
そうすると目線は彼女の頭より上にきた。
それで少女は、今度はこちらを見上げるようにしてそのドヤ顔を引き
「それで君は? こっちに来てから人の姿を見たのは初めてなんだけど、他にも沢山いるの? どこから来たの? この森にも人間の集落があるの?」
若干興奮していて、食い気味に彼女に質問を迫ってしまう。
「何言ってんの! 聖域に人間が住めるはずないでしょ! 世界の始まりから存在している古竜のくせに、物を知らないのね!」
「そうなのか。話、いろいろ聞かせてくれないかな」
「はあ? 何だかヘンテコなドラゴンねぇ……。――って! そんな事はどうだっていいの! 大人しくあたしと契約を結びなさい! ドラゴン!」
「……契約?」
俺は脈絡なく出てきたその単語に首を
「契約と言ったらモチロン! 〈ジェノスの契約〉の事よ!」
「ジェノス……?」
「大賢者ジェノス様が編み出した秘術の奥義よ! かつて人類の祖が、神々から〈
「ふーん」
秘術とか言っていた割に丁寧な解説をしてくれた少女だ。
「だからあたしと契約を結びなさい! ドラゴン!」
「安易に契約とかしてハンコ押しちゃうと痛い目みるからなあ。申し訳ないけど、お断りします」
鼻先が地面につくぐらい頭を下げて辞退した。
「魔物のクセして何て丁重な態度なのかしらコイツ……! というか〈ジェノスの契約〉に問答なんか要らないのよ! 力づくで
少女が装束の腰元の荷物袋から何かを引き抜いてきた。
そして「てやぁーっ!」なる掛け声を発してこちらに踊り掛かってくる。
さっきの物騒な発言から凶器でも振りかざしてきたかと思ったが、ぺしこんと何やらお札のような物を額に貼りつけられた。
「え? 何これは?」
手――というか前脚――でそれを剥がそうとしたが、皮膚にくっ付いたように剥がれなかった。
接着剤か何か使ったのかな? だとしたらひどい嫌がらせだ。
「フフン! もう遅い、お間抜け。この
得意げにそう宣言しているが、別段動けないというような事はなく、それを暗に示すよう彼女の方へと一歩踏み出してみた。
「そんな……!? いや、さすがはドラゴン族ね。並み大抵の生命力じゃないって所かしら。――でもこれならどう!」
今度は目にも止まら速さで、ぺしぺしぺしっとこちらの体中にありったけのお札を貼りつけてきた。
そうしてまたもビシッと指を突きつけたドヤ顔である。
しかしやっぱり、まるでどうともないので少女の方へさらに迫った。
「う、嘘っ……!?」
恐怖で顔を引き
何とはなしに同じ分だけ距離を詰めた。
そして向こうが退がった分、こちらが詰めるを繰り返す。
次第、彼女の足並みも切羽詰まった物となり、遂には「ぎゃーっ!」という悲鳴で後ろを向いて駆けだした。
これには俺も、動物的な習性によってか、何だか楽しくなってきちゃったので全力で追いかけ回した。
穏やかな昼下がり、湖畔でそんな和気
いやまあ、面白がっていたのは多分俺の方だけで、彼女はもの凄い必死な形相だったけど。
脇目も降らずに逃げていた彼女が、湖岸の内、ちょうど岬になっているような地形へと追い込まれた。――まあ、追い込んだが正しい。
だいぶ興が乗っていた俺は、岬の先端であわあわと取り乱し、もう逃げ場がない事を悟った彼女へと熊のように二本足で立ち上がって迫る。
サービス満点に両前脚を高く掲げ、「がおー」とまで吠えて。
「ぎぃやああああああっっっ!!」
そんな迫真の悲鳴を上げ、彼女は唯一の逃げ道である湖面へとダイブしてしまう。
ちょっとやり過ぎたかと反省の念を浮かべていたが、飛び込んだ彼女の様子が尋常じゃないのに気がついた。
「え……? ちょっ……もしかして君、泳げないの?」
しぶきを上げて盛大にもがいている少女に思わず肝が冷える。
急いで自分も湖へと飛び込んで、溺れかけている相手を救出したのだった。
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