スポットライト
朝枝 文彦
一話完結
キリキリと音を立てながら、小さなミラーボールが回っている。
甚平が、色とりどりの光を頭皮に滲ませながら、小さなステージの上で声と情念とを振り絞っている。パンチパーマの洋子は、甚平のしかめっ面が、カラオケモニターの明暗を映している様子をぼんやりと眺めながら、不揃いなテンポの手拍子を、ゆったりと続けていた。
歌が終わった。
スナックの赤い店内が薄明かりで照らされていくのに合わせて、カウンターの向こうに一人座っている洋子の、甘ったるい声が飛んだ。
「ジンちゃん最高やわぁ。ジンちゃんの歌、ホンマええわぁ。ウチの店で、いっとううまいわぁ」
「いやぁ、まぁ、今日はあんまり声出てへん方やけどな」
甚平はにやついた表情で小首を傾げながら、毛羽だった深緑の椅子に腰を落とした。洋子は、湯気の上がるおしぼりを甚平に渡しながら話し続けた。
「ジンちゃん、ホンマに歌手になったらええんよ。このお店にも、よおけ歌の上手い人来てくれるけど、ジンちゃんが一番上手やもん。なんや、グッとくるんよぉ」
甚平は、おしぼりを揉みながら、少し遠い目をして答えた。
「一次予選だけやったわ」
「えっ?」
「ママを、優勝してから、ビックリさせたろ思とってん。先週、梅田で、大阪カラオケ大会の二次予選があってん。……あかんかったわ。……オレ、上手いと思とってんやけど……ようけ人おって、震えてしもて……」
おしぼりを揉む手が止まった甚平に、洋子は一段トーンを上げて言った。
「まぁ、調子の悪い日もあるやんか。せや、ジンちゃん、ビルの管理人してんねやろ? 青山ビルゆうたっけ? 今日と明日、地下一階のライブハウスで、テルヤとか言う、売れっ子の歌手がライブしてるてゆうてたやんか。歌い方、なんか盗んだったらええんよ」
「あんなもん、やかましいだけや」
甚平は、グラスの安い焼酎を呷って続けた。
「気持ちが入ってへん、あんなもん。オレが、あないしてスポットライト浴びたら、もっと気持ちを込めて、みんな、泣いてまうぐらいに歌って……でも、ちやほやはしてくれへんかもしれへんな。あいつら、男前やしな……やっぱり、ハゲとったらあかんかな……」
頭をなでて俯く甚平のグラスを取り、水滴を拭いながら洋子は話した。
「ジンちゃん、元気出しぃな。男は顔と違うわな。そのテルヤたらいう歌手かて、ジンちゃんが、しっかりビルの設備を見といてくれてるから、ちゃぁんとライブが出来るんよ?」
「オレなんか、ビルの中、うろうろしとるだけや。スポットライト浴びとる奴らの方が、ずっとずっとええわ……」
「そんなことあらへん。あのなジンちゃん、世の中はいつかて、黙々と頑張る人が支えてんねん。テレビでペラペラしゃべってる人らは、良くも悪くも変わった人らや。なんぼちやほやされてるゆうたかて、みぃんな芸能人みたいになってみ? 世の中はなぁんにも回らへんようになるんやで?」
「……モクモクと、ペラペラっちゅう事かいな」
「そうや、モクモクと、ペラペラや」
そう言いながらグラスを甚平に差し出す洋子の、柔らかく沈み込むような胸の谷間と、薬指に光る物とに視線を泳がせ、甚平は言った。
「せやかてオレかて、スポットライト浴びて、女の子にキャアキャア言われたいがな……」
「そんなもん、ウチがなんぼでもゆうてあげるやないの」
洋子がそう言い終わらない内に、ガランガランと重い扉が開いて、秋風が入りこんできた。
洋子の甘い声が店内に響き渡る。
「いらっしゃいませぇ。あらぁ光彦さんやないのぉ。もぉ~~全然来てくれへんねんからぁ~~」
「なにゆうてんねんな、前、来たばっかりやがな」
「いやぁひっさしぶりやわぁ。今日も歌ってくれるんやろ? カラオケ、新しい機械入れたさかい、ようけようけ歌ってやぁ」
「おっ、ホンマかいな。ほなたっぷり聴かせたるわぁ」
明るい会話が飛び交っている。甚平の視線の先では、気泡の少ない氷が、その細い輪郭線を見え隠れさせながら、安い芋焼酎の中を回っていた。
ビーーーーーーーーーーーーー。
翌日の夜。一階の管理人室。
壁に取り付けられた、漏電火災警報器という、手の平ほどの大きさの装置が、ランプを点灯させながら、警報音を鳴らしている。この装置から警報が鳴っているということは、この青山ビルで使われている、テレビやエアコンなどの電気製品、またはそれらに電気を送る天井裏や壁の中の電気配線などの何処かで、漏電が発生しているという事であり、漏電をそのまま放置しておけば、そこを触った人間が感電したり、そこが熱を持って、火災の原因になったりする可能性がある。
朝から続く雨音を聞きながら、館内の監視カメラの映像をぼんやりとながめていた甚平は、警報を聞くと緊張した面持ちで椅子から立ち上がり、電子音が鳴り響く室内で、漏電の調査に使う計器や応急処置に使う工具をポケットに詰めている。
トイレ、倉庫、機械室、天井裏……甚平は、幾千日と歩き続けたこのビルの隅々に、想像を巡らせた。
(どこや……どこで漏電しとる……朝からようけ雨降っとったから、屋上から雨漏りして、四階の天井裏の照明器具にかかったか……それとも、一階の機械室の中にあるモーターが、経年劣化で壊れたか。前から、壊れかかっとるて何回もゆうてんのに、オーナーがちっともなおしてくれへんから……)
先ほどまで甚平が体を預けていたパイプ椅子には、いやらしい洗剤の香りが、微かに残っている。くたびれ果てた甚平の作業着の膝や袖には、皮脂や油の古い汚れが縋り付いていた。
甚平は鍵束をベルト紐に結わえ付けると、自身の身長よりもやや高い、八尺の脚立を肩に担いで管理人室を出た。
脚立に付いている固定金具が、歩くのに従って音を立てる。
カシャン、カシャン、カシャン、カシャン。
一階の機械室に入った。そこここの壁に黒い潤滑油が垂れている室内で、空調機のモーターが、ガリガリと音を立てている。
甚平は、この階の電気回路の大本となる、分電盤の扉を開けた。中には、二十個程度のブレーカーが並んでいた。甚平は、ポケットからクランプメータを取り出した。この計器でブレーカーに繋がる電線を挟み込むと、今、どれだけ漏電しているのかが表示される。甚平は、一番左上のブレーカーに繋がる電線を、クランプメータで挟み込んだ。表示は零アンペアだった。次に、その下のブレーカーの電線を計った。零アンペア。その下、零アンペア……。
全てのブレーカーについて漏れ出している電流が零アンペアである事、つまり、一階では漏電していない、という事を甚平は確認し、機械室を出た。
すると、先ほど施錠した管理人室の扉の方から、小柄でパンツスーツを来た、三十代半ばの女性が一人、足早に駆け寄ってきた。
「あぁ、居てた。管理人さんですか? 私、テルヤのマネージャーです。すぐ下のライブハウスに来て下さい。照明がちらついてるんです」
「えっ? どこの照明ですか?」
「ステージの一番前の照明です」
女性マネージャーに導かれ、甚平は地下のライブハウスへと降りて行く。
カシャン、カシャン、カシャン、カシャン。
ビルを覆う秋雨は、止む気配を見せない。
防音の重い扉を開けると、中から熱気が押し出されてきた。ステージでは、赤や黄色のライトの光が飛び回り、テルヤのバンドが掻き鳴らす音と、満員の観客があげる声とが、ライブハウスを揺らしていた。
甚平とマネージャーは腰を屈め、観客の間を縫うようにして、ステージ下手のバックスペースへと入っていった。
舞台袖から、ステージ天井のライトを指差しながら、女性マネージャーは言った。
「ほら、一番前列の、一番上手のライトです。ちらついているでしょう?」
「あぁ、ホンマですね……多分、漏電してるんやと思います……」
「直してもらえませんか?」
「いや、あの、一回照明消さないと、難しいです……」
「……そうですか。事前にちゃんと、ライトの確認はされてるんですよね?」
「ええ、あの……先月の停電の時も、悪い値は出てませんでしたし、さっきまでは漏電もしてなかったし……古い器具なんで……」
「急にああなったって、言いたいんですか?」
「あの……はい……急に……」
「ふうん……」
甚平は、一呼吸おいた後、騒音の中、女性マネージャーの耳元で言った。
「あのう……あのまんまじゃまずいんで、いっぺん、一番前の照明だけ消さしてもうて、あのライトに繋がってる電線を、外さしてもらえませんやろうか?」
「は? いやいやそれは無理ですね。ライブの中断なんか、出来るわけないじゃないですか。もう時間も、かなりおしてますんで」
「いや、でも、あのまんまやと、あそこから火事になるかもしれへんので……」
女性マネージャーは、軽くため息をつきながら甚平に言った。
「管理人さん、この盛り上がりを見て下さいよ。水が差せますか? あのね、このステージやるのに、どれだけのお金がかかって、どれだけの人が動いてきたのか、あなた分かってるんですか? 照明にしたって、長い長い時間をかけて、リハーサルをして来たんですよ? ここで一時中断なんて、出来る訳ありません」
甚平は、自分に視線を向ける事すらしなくなった女性マネージャーを前に、しばし言葉を失った。
そうして、バックスペースの一番奥に脚立を立て、天井近くの壁に取り付けてある、分電盤を開けた。「ステージ前列照明」と書かれたシールが貼ってあるブレーカを見つけ、そこに繋がっている電線を、クランプメーターで挟みこんだ。液晶表示は、九百ミリアンペアの値を示した。
「あかん、ごっつ漏電しとる」
甚平は、苦虫を噛み潰したような顔をした。そして、再び女性マネージャーの元に戻り、懇願した。
「すんまへん、えらい事漏電してます、あれ外さんと、火事になってしまいます」
女性マネージャーは答えない。
「すんまへん、火事になってしまう……」
「だったら外せばいいでしょう! 」
女性マネージャーは甚平を睨んで一喝すると、ステージの方を向き、苛立った表情で、独り言をブツブツとつぶやいていた。
「すんまへん。すんまへん……」
甚平は、首から上をヘコヘコと動かし続けた。
しばらくすると、曲が終わった。
女性マネージャーは腰をかがめてステージ上のテルヤにすばやく近づいて耳打ちをし、甚平は先ほど漏電を確認したブレーカーを切った。ステージ前列の照明が消え、客席がざわつき始めた。
(ステージに上がらな、行かれへんな……)
甚平は脚立を担ぎ、震える足で階段を昇っていく。女性マネージャーが、すれ違いざまに小さくつぶやいた。
「雇われのサラリーマンは、気楽なもんですね」
甚平が、暗くなったステージにあがると、ライブハウスは静まりかえっていた。甚平は、生唾を飲み込んで歩き出した。
カシャン、カシャン、カシャン、カシャン。
テルヤに集められているスポットライトを、甚平が横切っていく。脚立と、頭皮に滲む大粒の汗とが、キラキラと光を散らし、バンドメンバーや観客ら、全員の視線を、甚平が集めている。甚平は、首筋のジリジリと焼け付くような感覚と、頭を膨らまさんばかりの大きな鼓動とを感じていた。
カシャン、カシャン、カシャン、カシャン。
ちらついていたライトの下に脚立を立て、昇っていく甚平から視線を外し、テルヤがマイクで、観客に語り始めた。
「みんな、こんなボロいライブハウスにまで、わざわざ来てくれてありがとう。オレ、マジで感謝してる。ヤベェ、ヤベェよ、みんなへの気持ちが溢れてとまらねぇよ!みんな、オレにもう一曲、歌わせてくれぇぇ!」
「キャァァァ! テルヤァァァ!」
ベースとドラムが、ライブハウスの底を揺らし、エレキギターが金切り声をあげ、割れんばかりの歓声が、それに応えた。
甚平は、震える手つきで照明器具にマイナスドライバーを突っ込み、電線を外すと、それに電気用のテープをしっかりと巻き付けた。そして、ステージに降り立った。
少し鼻にかかったテルヤの歌声が、アンプで増幅されて観客を圧し、観客の雄叫びが、バンドを圧した。テルヤの声、テルヤの表情、テルヤの動き、テルヤの汗が、ライブハウスの中に大きなうねりを巻き起こす。甚平は、色とりどりのライトに網膜をチカチカと刺激されながら、会場を満たす、むき出しの狂気を前に、脚立にしがみつきながら、ただただ震え続けていた。
バンドメンバーの動きが止まった。一瞬の静寂。そこから、マグマの様な歓声が吹き上がった。
「テルヤァァァ! テルヤァァァ!」
一瞬、甚平は呆けていたが、
(アカン、ここおったらあかん、オレなんか、こんなとこにおったらあかん)
そう思い立って脚立を担ぎ、再び、テルヤと観客との間を横切っていった。鳴り止まぬ歓声の中、甚平の事を気に留める者は、もう一人も存在しなかった。
甚平はバックスペースに戻ると、先ほど切ったブレーカーを入れ、クランプメーターで漏電がなくなった事を確認した。女性マネージャーは、苛立った表情を浮かべながら携帯電話で話している。甚平は、首から上をペコリと下げると、足早にライブハウスを出て行った。
管理人室に戻った。雨は止んでいた。甚平は、漏電火災警報器が鳴り止んでいるのを確認すると、道具と脚立とを片付けて、へたりこむように椅子に座った。
電話が鳴った。取ると、ビルオーナーの大林だった。
「クレーム来たぞ! どないなっとんねん!」
「すんまへん、すんまへん」
「どんな巡回しとんねん!こんな事にならんように、お前を雇とるんとちゃうんかい!」
「すんまへん、すんまへん」
「よりによって、太い客の時にヘマしやがって! 今日中に始末書書いて、送ってこい!」
乱暴に受話器を置く音が聞こえた。甚平は、今日幾度目か分からない、深い溜め息をついた。
甚平は引き出しから、始末書の用紙を机の上に出し、ボールペンのキャップをはずして握ったまま、どのような文面にすればいいか、思案した。
(ライトが悪くなってる事に、気付かなくて、すんませんでした。ライブを、中断させて、すんませんでした。ステージに、上がってしまって、すんませんでした。スポットライトを…………浴びてしまって…………すんませんでした…………)
甚平は、天井を仰いだ。
しばらくすると、甚平はゆっくりと立ち上がり、ビルのマスターキーを持って管理人室を出た。
そうして甚平はビルの正面玄関脇に立っている、雨上がりの自動販売機で、温かい缶コーヒーを買い、青山ビルの階段を上がって、「立ち入り禁止」と書かれた扉を解錠し、屋上に出ると、外側から鍵をかけた。
屋上に並んだエアコンの室外機が、低い金属音を響かせている。甚平は秋風に吹かれて鼻水をすすると、ジャリジャリと、湿ったコンクリートの上を歩き、錆にまみれた太い配水管の上に腰を下ろした。
そうして、缶コーヒーのプルタブを開け、飲み口の奥で揺れる黒い液面を、ぼんやりと眺めていた。
ふいに、辺りが少し、明るくなったように感じられて、甚平は空を見上げた。雲の切れ間に、やわらかく曲がった三日月が、浮かんでいた。
「おっつきさん、ふたりっきりやなぁ」
甚平はそう言って、力ない笑顔を月に向けながら、缶コーヒーを軽くかかげた。
甚平の荒れた唇に、缶コーヒーの温みが触れた。
散りばめられた水たまりや水滴が、あちらこちらで月の欠片を映し、雨に洗われた夜空から、月の光がまっすぐに、ビルの屋上を照らしていた。
(了)
スポットライト 朝枝 文彦 @asaeda_humihiko
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