紫陽花のアイロニー

amaya

prologue 花の香り、残る想い

 恋をした。一目惚れだった。

 淡い水色の瞳に、長い三つ編みになっている茶色の髪。

 無気力そうな顔を浮かべる、彼に恋をした。


 かつてないほどに、胸の鼓動が速くなるのを感じ、鼓動と共に顔が熱を帯びていくのを感じた。

 一目見て、好きだと知って、恋をした。


 彼が、不意にこちらを向く。

 しっかりと、目が合った。


「これから、よろしくね」


 また一つ、彼の好きなところを知った。

 低く、妖艶な声。でも、どこか優しい。

 そんな声が、私の火照った耳を通して伝わってきた。


「あ、えっと、よろしくお願いします」


 普段なら、詰まる筈のない言葉。

 でも、何故か上手く言葉が出ない。


「うん」、と相槌を打って、彼はまた前へ向き直る。


 その時、彼の顔は見えていなかった。

 私が思わず俯いてしまっていた。


 ――変だと、思われただろうか。引いてしまっただろうか。


 不安がよぎっていくのを払拭して、ある勇気を振り絞る。

 ここが正念場だと、自分に言い張るように。


「あっ、あの!」

「?」


 彼がまた、こちらを向く。

 目が合って、また胸の鼓動が速くなる。


「お名前、聞いてもいいですか」


 心臓が破裂しそうなほどに鼓動し、もはや周りの音さえ聞こえない。

 それでも、彼の声だけは、はっきりと聞こえる。


「俺の名前は――」


※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


 昨日の夜に設定していた、アラームのうるさい音が夢から私を覚ます。


「んぁ……」


 枕に顔を埋めながら、宙に浮かぶウィンドウを下にスライドして、アラームを消した。どうにも、アラームの音は昔から嫌いで、起きてから消すまでの速さには自信がある。

 本来であれば二度寝するが、今日に限ってはそうも行かない。

 大切な会議が控えているときに限って、眠気が襲ってくる。


 身体を起こして、仕事に向かう準備をする。

 着替え、朝食の用意、スケジュールの確認、メールの確認、資料の確認……。

 今こそスラスラとこなせるが、20年前の私は手際が悪く、遅刻しかけることが何度もあったくらいだ――ちなみに、しかけただけで遅刻は一回もしていない――。


「昨日、2-2区にて新たにオープンしたカフェ、『南雲喫茶』の――」


 意味も無くテレビをつけるが、朝は大して面白いものもやっていない。

 というよりも、いつも面白い番組など無いようなものだ。


 大昔と違い、ニュースの台本は公平さを保つためにAIが記入しており、その公平さが行き過ぎて、事件などの犯人が一切明かされない。

 コメディも、何番煎じというやつで、昔から同じような番組が溢れていて、何も目に付かない。

 アニメなんかは、テレビでは放送されず、特設サイトからダウンロードして見るのが普通になっている。


 とまあ、こんな感じで。最近のテレビには面白みがない。唯一あるとすれば、毎日4のチャンネルで朝7時にやる占いくらいだろう。あれは馬鹿馬鹿しくて面白い。


 部屋の寂しさを紛らわせるようにつけたテレビだが、結局消してしまうのがオチだ。


 コーヒーを淹れ、昨夜に送られてきた資料を見ながらパンを口に運ぶ。

 だが、別に確認しなくてもいいだろう、という資料ばかりで溜息が出る。


 ウィンドウを閉じて、パンを食べ終わり、コーヒーを飲み干す。


「名前――」


 ふと、今日見た夢を思い出す。

 懐かしい夢、それに、寂しくもある。


 ベッドの横にある窓を開ければ、柔らかく温い風が、花の香りをまとって部屋に入る。


 ――あの時も、こんな日だった。


 薄いピンクの色をした、五枚の花弁がある、小さな花。

 大きな木から伸びる枝に、そんな花がいくつも咲いていた。

 青い空、下を見れば、花弁が散って絨毯のように広がっている。


 花は、無常にも直ぐ散ってしまう。

 そんな、春の季節が、また巡ってきた。


 の光景を、取り戻すために尽くしてきた日々は過ぎ、


 また、を思い出させる日が、戻ってきた。

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