【第6章・ご主人様のお仕置き百番勝負ツアー】『行き先不安なご主人様』

 それからバスは予定通り走り、二時間後にリゾートホテルに到着した。雨脚は強まっていて、空はどんよりと厚い雲が覆っていた。建物は一五階建ての、外の曇天が嘘のような、空みたいな水色のファンタジーでメルヘンな色だった。まるで、喜瀬川の瞳の色のようだ。

 なかなかに立派な建物だ。この金使いからするにあのジジイ、結構な悪人と見たね。

「きぼちわる……」

 車の中であれだけ大量にマヨネーズすすってりゃ、そりゃあ気持ち悪くもなるさ。

 行き先不安な女王様だな、まったく。

 彼女は虚ろな表情のまま、建物へと入っていく。おれも後に続きエントランスをくぐり、フロントに入る。建物に入ると正面はガラス張りで、その向こうには人気のない寂しいプールと、冬の荒れた海が広がっていた。フロントの中も水色で、カウンター、呼び出しベル、ソファ、あらゆるものが水色だ。空が落ちてきているみたいだった。

 ま、そんなのまさしく杞憂ってやつだろうが。

 喜瀬川は、他に目もくれずビロードのソファに仰向けに寝転がり、長い脚を持て余すように折り曲げていた。しばらくは動けないだろう。

 従業員が怪訝に思う前に、どれ、助け舟。

「あ、すいません。彼女、少し車に酔ってしまったみたいで」

 おれが声をかけた従業員は背の高い女で、艶のある紅の引かれた豊かな唇と、墨を擦ったような深い漆黒の髪が特徴的だった。年のころはおれと同じ年か、少し上くらいか。

 こちらを見つめる瞳は切れ長で大きく、落ち着いた雰囲気を備えた、浮世離れした女に見えた。白いYシャツを、腕まくりしているのが、せめてもの現実感だろうか。

 豪奢な着物に煙管でも片手にして、賽を振ってるのが似合いそうな女だ。

「坊やがトラヴィスかい?」

 女は蓮っ葉な、いかにも気の強そうな口調で尋ねる。色っぽい、纏わりつくような声質。

 妙なく方ではあるが言葉のリズムは良く、耳にすうっと馴染んでいくようだった。

「へぇ、さいで」

 彼女の言葉に釣られてか、おれも少し江戸の町民気分。

「坊や、随分と顔が青白いじゃないか。車に酔ったのはお前なんじゃないのかい?」

 彼女の下がった眉が動くたび、夜の情事を想像せざるを得なかった。

「いえ、生まれつきです」

 女はおれの顔をまじまじ見て、甘い息を漏らす。ふわりと誘うような百合の香りがする。

「身体も随分とひょろっこいね。ダメじゃないか、男はもっと逞しくないとねぇ」

「逞しいっていうと」

「男が逞しいと言えばあそこしかないだろう、坊や?」

 彼女はにんまりと、それはそれは嬉しそうにほくそ笑み、「うふふ。そうだねぇ、うふふふふ……」と、笑いが止まらないようだった。

 顎に当てた指先には、黒いマニキュアが塗られていた。てらてらと、妖しく光る。

「あのですね、とりあえずあいつグロッキーなんで、そこで休ませてやってもいいですか」

 振りかえり、喜瀬川を見る。低い声で呻いている。

「私は構わないがねぇ、ご主人様があれじゃ、お客さんが肩を落としてしまうんじゃないかい?」

 どうやらこの女、事情は把握しているようだ。

 そう、喜瀬川が『ご主人様』で、おれはただの犬っころさ。

 女は後ろを振り向き、奥を少し確認する。

「部屋に空きがかなりあるから、そこに寝かせてやろうじゃないかい」

「は、それはいいですね」

「おい、起きな。ご主人様がそれじゃだめじゃないか」

 女が喜瀬川に声をかける。女の声は聞こえていないようで、ピクリとも動かない。女はフロントから出て、喜瀬川に近づく。足音は絨毯に吸われ、まったくしなかった。

「喜瀬川! 起きないかい!」

 喜瀬川は声をかけられるとハッと身体を起こし、フロントの女を見て目を丸くする。酔いも醒めたと言わんばかりに、素早い動きで立ちあがる。

「え、美佐子さん? え? なんで?」

 女はどうやら、美佐子という名前のようだ。喜瀬川がここまで驚き、素っ頓狂な声をあげているのは見たことがない。

「なんでもへちまもあるもんかい。ここは、私の城だよ」

「いや、でも……」

 喜瀬川は言いづらそうに、視線を迷わせた。

「でも、なんだい?」

「美佐子さんは」

 喜瀬川は、声を嗄らして言った。誰にでも勝手な口をきく喜瀬川が、こんなに大人しいのはちょっと新鮮だ。

「去年、死んだはずじゃ」

 ん?

 おい、冬に怪談話じゃあ、ちと寒さが過ぎるだろうよ。

「ん?」

 美佐子さんが、わざとらしく微笑む。

 ……うわぁ、おばけじゃん。

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