【第6章・ご主人様のおしおき百番勝負ツアー】『オシャレSM』
最後に海を見たのは、もう二年前だろうか。タクシーの客を海沿いの街まで送り、あの有名な虹の橋を渡ったときだ。なぜだが目の前が涙でいっぱいになって、賑やかな黄色の光が、ぼやけて滲んでいた。
きっと寝不足で目が疲れているのだろうと思ったが、きっと大きな光に感動していたのだ。蛾のように、光に導かれ羽ばたく。
ただ、注意しなくてはいけない。
美しく見える光だが、触れると羽根が焼け焦げて堕ちてしまう。
「ごがー」
社長の車の中。
喜瀬川が美しい記憶を踏みにじるように、大きないびきをかく。外はパラパラと雨が降っていた。雫が窓を斜めに濡らした。後部座席に座った喜瀬川は、高速に入る前からずっと眠っていた。助手席には座ろうとしなかった。理由は、「あんたの助手なんか、死んでも嫌」だ、そうだ。まったく、徹底しているね。
彼女が身体をびくっと跳ねさせ、目覚める。もごもごと、「あとどれくらいあるのかしら。あと五分くらい? ねぇ、五分くらいよね?」と、呻くように言った。
「まだ半分も来てないな」
「あと五分で着かなかったら……あんたを殺す」
「ムチャクチャ言うなよ、あと二時間はあるぞ。何だよ、寝てたのに酔ったのか?」
「あんたと一緒の車に乗っているのを忘れようと……寝てたのに……起きちゃった……。夢なら……早く醒めて……」
生憎、こっちが現実だ。
おれたちは、千葉県にあるリゾートホテルに向かっていた。リゾートとは縁遠いクリスマスシーズンではあるが、まぁそこはご勘弁。金のない会社が故。
と、いうのも、そこは社長の持っているホテルで、ツアーの金がかからない。部屋もかなり空いていると言う。もちろん、これはおれと喜瀬川二人きりの旅行なんかではない。
おれは、片手でポケットに突っ込んだチラシを広げる。
『ご主人様のおしおき百番勝負ツアー~あなたと木更津心中~二泊三日で貴方もブタ野郎』
カラフルでポップな字体と、内容のおつむの緩さに笑いすらこみあげてくる。
ま、立案者はおれなのだけれど。
このツアーを喜瀬川に知らせたのは、つい昨日の話だ。ダメもとで企画したものだったが、応募者が十五人集まったため、まさかの決行へと運びが決まった。
喜瀬川の信者、すなわち「ブタ」を増やす。特に、熱狂的なやつを。ことがうまく運べば、おれにボーナスが入ってくるって寸法だ。
『ホテル・レミング』でこのことを伝えると、喜瀬川は冷めた調子で言う。
「馬鹿言わないでよ。あたしは、あの一回だけのつもりだったもの。なにが百番勝負よ。エロビデオの企画じゃないんだから」
「見たことあるのか?」
「馬鹿にしないで。あるわ」
彼女はむきになって語気を強めた。真意は解らないが、とりあえずのツアーへの回答は「拒否」だった。
あれから、みるくは一切姿を見せなくなっていた。喜瀬川はそのことを気にしているようで、自分だけ楽しく女王さまごっことはいかないと言いたいのだろう。
「いいじゃねーか、ファンとの親睦会みたいなもんだろ」
雄太が電卓をのそのそと打ちながら、笑いかけた。
「やっぱり、あたしがステージに上がるのはおかしいわ。あれは、アクシデントよ」
「もう、人数集まっちまってるんだ。ここでドタキャンじゃ、会社の信用の問題になる」
おれは言いながらチラシの一枚を折り、紙飛行機を作る。
「なにが信用よ。あんたがやってること自体が詐欺みたいなもんじゃない。ハメたわね」
「はめた?」
「あたしに秘密で一人で話進めて、断ったら信用を失う? 冗談言わないで」
「おれ一人じゃない。雄太も一緒に事を進めたんだ」
そんなこと、免罪符になりもしないことはわかっているが。ヒリついた空気を察したのか、雄太が電卓を置き、フォローに入る。
「そうそう、むしろそそのかしたのは俺なんだって」
雄太は、柔和な笑みを浮かべる。
「何も、悪いことをしようってんじゃないんだ。あぁいうサブカルわかってます気取りの野郎どもは、SMなんかにとんと弱い。性を『オシャレ』に結び付けたがるのさ。『オシャレ』感覚で、SM旅行ってのは間違いなく喰いつく」
喜瀬川は雄太とおれを交互に見て、「あたしにその気がないのに、ホモ同士えらく盛り上がってんのね」と吐き捨てた。いつにも増して不機嫌そうだった。
「……ま、社長がGOサイン出さないと、どうしようもないけどなぁ」
雄太が付け足すように言い、視線を逸らす。
――そのとき。
ぶーん、ぶぶぶぶぶぶぶぶ。
冷蔵庫が、突如激しく唸りをあげる。おれたちは言葉を飲み込み、冷蔵庫を見つめた。
ぶぅん。
音がおさまると、中から社長が這い出てきた。二度目なので、驚きはしなかった。社長は両腕を突っ張って立ち上がりながら、こう呟いた。「GOですわ」と。
「はい?」
おれが訊きかえすと、社長は珍しく低いトーンでこう言う。
「さっきの話、聞いておったからな。GOですわ、GO」
社長の言葉に、喜瀬川が唾を飛ばして反論する。
「少しは考えてください! あのですね、ジジイ。みるくの立場はどうなるんです」
「みるくなら、もう来んと思いますわ」
「そんな、どうして」
「彼女本人から、やめると言われたでな」
社長がさらりと言うと、喜瀬川は閉口した。それ以上、逆らう言葉がないということらしい。そうだ。無理やりやらせてどうなると言うのだ。
彼女は、自ら逃げたのだ。しかも大切なステージから。みるくの性格上(あぁ、一体おれに彼女の何がわかると言うのだろう?)、ひょうひょうと現れて、「すいやせん、これから心を入れ替えますわ」とはいかないだろう。このまま蒸発せざるを得ないさ。
「……社長。あたしの給料、二倍にしてくれるかしら?」
喜瀬川は言った。切り替えるしかない、と自分に言い聞かせているのだろう。
「ええぞ。二足の草鞋は大変だろうからな」
「いいじゃないの。あんたたちの言う通り、そこで心中してやるわ」
喜瀬川は最早やけくそ気味に言った。
こうしておれたちは、合宿に向かうことになった。
おれはこの旅行の一切を任されていた。旅行の日程、スケジュールなど、全て。社長は後々合流するそうだが、雄太は本社の警備がてら、残ることになった。本人は残念がっていたが、急に舞い込んだ三連休には、満更でもなさそうだった。
喜瀬川は、目を瞑って俯いている。恐らく、タヌキ寝入りだろう。息のリズムが整い過ぎている。もちろん、それを指摘はしない。おれだって、もめ事はごめんだ。
「ふぁぁーあ」
おれは、あくびを一つする。バスの中はただ、まるっきり退屈であった。高速道路の風景など、暇つぶしの一つにもならない。落語で、『あくび指南』という噺があったな。男が、色々なあくびを教えるっつう教室に通う話だ。
ミラー越しに、いつの間にかタヌキ寝入りを諦めた喜瀬川が、ぶすくれてマヨネーズを啜り、窓の外を見ている様子が映った。
アスファルトとにらめっこの方が、おれと話しているよりはマシかね。
今のおれの状況なら、「隣でマヨネーズを啜る美女を後目に退屈を噛みしめあくびを一つ」というシチュエーションだが、この場にふさわしいあくびってのは、どんなもんだろうね。
「ふぁぁぁぁ」
わかりっこねえな。
せめて、もう少し色気のある状況なら、面白いあくびも思いつきそうだがね。
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