第76話 妹は無邪気になついている
星河総合病院。
どこかで聞いた覚えがあると思ったら。
「君が翠璃さんの――いや、はじめまして。僕は翠璃さんのイトコに当たる」
「母の……」
前に聞いた、春太の生みの母が入院していたという病院だ。
それも、母の親族が経営している病院らしい。
春太があらかじめ断りを入れて病院を訪ねると。
受付のところで待っていたのが、目の前にいる中年の男性医師だ。
彼は春太ににこやかに挨拶し、自分が春太の母のイトコだと明かしてくれた。
春太は、その医師に連れられてエレベーターで四階に上がり、廊下を歩いている。
「翠璃さんは、小さい頃から綺麗な子でね。憧れたもんだよ。僕なんか、相手にされなかったけど」
「……失礼な母ですみません」
「はは、そういうところもよかったんだよ。ちなみに、君が生まれたのもこの病院だよ」
「えっ?」
「知らなかったか……まあ、だいたいは自分が生まれた病院なんて知らないよね」
医師は苦笑いし、ぴたりと足を止めた。
「ここだよ。君ともっと話したいところだけど、今日は遠慮しておこう」
「すみません」
「多少、ウチの一族……一族なんて大げさで嫌なんだけど、翠璃さんの親戚のことは知ってるみたいだね?」
「いえ、ほとんど知りません」
母は親族の意向で、春太の父と離婚したあと、息子から引き離されたという程度だ。
母方の親族は医者や弁護士、政治家までいる名門らしいが――
正直言って、いい印象はないが、話に聞いただけなので恨むことも難しい。
「そうか。知らないほうがいいかも。僕は翠璃さんのためにも、君にはできることをやってあげたいと思う。うん、君は翠璃さんに似てるよ。放っておけっていうのが無理なくらいだ」
「はい、ありがとうございます」
春太にとって、母は育ててくれた母親だけだ。
今さら、母の親戚に頼るつもりはまったくない。
だが、この医師は親切で言っているのだから、素っ気ない態度を取るのは失礼だろう。
「ああ、余計な話だったかな。それじゃ、僕はこれで」
「ありがとうございました」
春太が一礼すると、医師は廊下を去って行った。
春太は病室の前ですうっと息を吸い込み、ノックをしてから中に入る。
「ああ、いらっしゃい、春太くん」
「……こんにちは、秋葉さん」
そこはベッドが一つだけの個室だった。
ベッドの上には、入院着姿の秋葉が座っていた。
艶のある長い黒髪を結んで、前に垂らしている。
地味な装いでも、顔が美人すぎるせいか華があるのが不思議なほどだ。
「まさか、君がお見舞いに来てくれるなんてね。秋葉さん、感動だわ」
「そりゃ……来ますよ」
「カノジョの母親だものね。これはポイント稼げたわよ?」
「ええ、親を攻略するのは重要ですね」
春太は軽口を返しつつも、少しほっとしていた。
意外に顔色は悪くないし、特に痩せている様子もない。
昨夜――
クリスマスパーティの帰路で、晶穂から「母が入院してる」と聞かされたときは、自分でも意外なほどに動揺してしまった。
会ったのはほんの三回、高い寿司をおごってもらったとはいえ。
別に親しくもない、むしろ親しくしてはならない人のはずだ。
それでも、入院したという話は衝撃だった――
「……急に倒れたって晶穂から聞きました」
「幸か不幸か、職場で倒れたからね。すぐに病院に運ばれて処置してもらえたから、そんなたいしたことないのよ」
秋葉は心臓を押さえつつ、くすくすと笑っている。
まるで他人事のような口ぶりだ。
こういうクールなところは、晶穂に顔だけでなく仕草までそっくりだ。
「そうだわ、ウチのちっこくて可愛いのは?」
「晶穂なら中庭で、ご老人方の慰問をしてくるとか」
星河総合病院には、もちろん晶穂と一緒に来た。
しかし、その晶穂は病院に入ることすらなく、中庭へと向かってしまったのだ。
「俺に先に病室行っとけって。ギター担いでるから変だと思ったんですが。病院でギターなんて弾いていいんですかね?」
「音楽療法なんてのもあるし、いいんじゃない?」
「ロックで癒されますかねー……」
世界平和をロックで歌うのだから、ありえないとは言えないが。
「ま、君と二人で私に会うのが嫌なんでしょうけど」
「……秋葉さん。その……」
「別に今すぐ死ぬわけじゃないから、そんなあらたまらなくていいわよ」
「…………」
あっけらかんと言われると、春太としても反応に困る。
晶穂の話を聞く限り、命の危険があるというわけではなさそうだが――
かといって、軽く見ていい状況ではないようだ。
「えっと……個室なんですね」
「見てのとおり、仕事もしたいから。大部屋だとやりづらいでしょ?」
「仕事なんて休まないといけないのでは……。
秋葉はベッドに置いたテーブルに、ノートPCを載せている。
春太は病院には無縁だが、病室にもWi-Fiが普通に来ているらしい。
「退院は年明けになるのよね。今のうちに年内の仕事を片付けておかないと、むしろ年明けに仕事の洪水で死ぬわ」
「……秋葉さんの会社、退院したばかりの人も労働させるほどブラックなんですか?」
「そうよ」
ズバリ言い切られても、それも困る。
「ああ、そうだ。ちょうどノートがあるし。春太くん、いいもの見せてあげる。こっちおいで」
「え?」
手招きされ、春太はベッドのすぐ横に移動する。
秋葉はノートPCを少しズラして、春太に見やすいようにしてくれた。
「えーと……これね」
秋葉はノートPCのタッチパッドを操作して、メディアプレイヤーが立ち上がった。
「動画ですか? いったいなんの――って、あっ!」
思わず、春太は声を上げてしまった。
音量は絞ってあるが、個室なのでそのまま流している。
『にーちゃ、にーちゃっ♡』
「こ、これ……」
映っているのは小さな子供だ。
赤ん坊とはいえないが、幼稚園児でもない。
おそらく、2、3歳の子供が映っている動画だった。
ピンクの可愛い服を着た女の子が「にーちゃ、にーちゃ」と嬉しそうに言いながら。
もう一人の子供――白い服の男の子にじゃれついている。
甘ったれた舌っ足らずな声で「にーちゃ」を連呼している。
おそらく、「お兄ちゃん」を上手く発音できないのだろう。
『ふゆちゃん、おもいー』
『にーちゃー♡』
もう一人の子供も、同じくらいの年齢だろう。
身体の大きさも大差ないが、女の子が男の子の背中に乗っかり、ぺしぺしと頭を叩いている。
「うーん、私は“にーたん”のほうが可愛いと思うんだけど」
「……秋葉さんの好みなんて知らないでしょう、この幼女も」
春太はツッコミを入れつつも、画面から目を離せない。
そういえば、春太と雪季の両親が再婚したのは、春太が3歳、雪季が2歳の頃だったという。
見た感じ、おそらく再婚した直後くらい――
「まあ、わかってると思うけれど、春太くんとその妹さんよ」
「……こんな動画、初めて観ました」
「君のお父さんが撮って、翠璃先輩に送ったものよ」
「父さんが……」
父と実の母は離婚したあとも、データのやり取りくらいはできたらしい。
「ちなみに、こんなのもあるわ」
秋葉は途中で再生を止め、別の動画ファイルを再生した。
今度は――
どうやらどこかの公園――いや、桜羽家の近くにある児童公園だった。
四、五歳くらいの小さな女の子が走っている。
『おにいちゃーん、ふゆちゃんもあそぶー』
『わ、ふゆちゃん、はしったらだめだって!』
公園の入り口から走って行く女の子。
ブランコのところにいた男の子が立ち上がる。
男の子が心配したとおり――
女の子は、ぽてんと転んでしまう。
『あははー、ふゆちゃん、こけちゃったー』
『ああ、ふゆちゃん、だいじょうぶ……?』
『だいじょぶー♡』
慌てて駆け寄った男の子が、女の子を助け起こした。
幸い、女の子にケガはなかったようだ。
女の子は、男の子の手を握って、にこにこと笑っている。
「なに、このほのぼのホームビデオ。冷静に観るとイラつくわね」
「人ん家のホームビデオなんてそんなものでしょう……」
正直、春太も観ていて恥ずかしい。
いや、映っている本人だからこそ恥ずかしい。
雪季は死ぬほど可愛く、自分が映っていなければ最高だったのに。
「というか、なんで秋葉さんがこんな映像持ってるんですか」
「ショタハルタ・メモリーズ・ディレクターズカット版よ」
「……どこで配信してるんですか、それ」
「まあ、私が翠璃先輩に頼んでもらったのよ。君のことには興味あったしね」
春太の映像というより、メインは雪季のほうだろう。
おそらく、春太が映っていたところを切り出して母に送ったのではないか。
「翠璃先輩はね、もちろん君のことをずっと思ってた。ずっと、君を連れ出したいと思ってた」
「でも、俺の母は……」
「そう、入退院を繰り返す身だったけどね」
「……ですよね」
「春太くんが生まれた直後に離婚して、そのあと何年かは身体を壊して君に会いたくても会えなかったのよ」
「そこまで悪かったんですか……」
生みの母の情報は断片的にしか聞いていない。
父もそうだが、この秋葉にとっても伝えにくいような話が多いのではないか。
「でも、母親だからね。春太くんのことが可愛くて可愛くて、会いたくて仕方なかったのよ」
「でも……」
「春太くんが幼い頃にも、コッソリ君のところへ行こうって――実際に行動に移そうとしたことすらあったのよ」
「……動画だけじゃ我慢できなかったんですか」
「いえ、動画を観て――あきらめたのよ」
「どうしてですか?」
秋葉は春太のほうを見て、かすかに笑い――
「春太くんと、雪季ちゃんの姿を見てしまったから。君に子犬みたいに懐いて、離れようとしない雪季ちゃんを見てしまったから」
まだ続いている動画では、幼い雪季がブランコに座り、春太が後ろから押して漕いでやっている。
雪季は後ろを向いて、兄の顔をにこにこと嬉しそうに見ている。
「翠璃先輩は、春太くんを連れ出して自分で育てたかった。だけど、雪季ちゃんから春太くんを離せないって気づいて。あきらめたのよ」
「…………」
「春太くんのところに行ったら、君を連れ出さずにはいられなくなる。翠璃先輩はそれがわかっていたから、行かなかったのよ」
あるいは、春太が実の母と暮らす未来もあったのかもしれない。
だが、それを妨げたのは――雪季だった。
幼い雪季の無邪気な愛情が、春太と母を引き離していた。
母は、雪季のせいで実の息子から引き離されたまま――死んだというのか。
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