車窓
零
雪景色
寒い。
冷え性なのもあるが、手先足先が冷えている。
ある年の十二月の夜、東欧の山中にて。ポーランド行きの格安長距離バスの窓際で私は震えていた。車内は暖かな空気が満ちているはずだが、いかんせん窓際である。体の右側がひんやりする。
ハンガリーのブダペストを発ってだいぶ時間がたったと思う。そろそろスロバキアとポーランドの国境あたりだろうか?自分がどこにいるのか気になって、先ほどまで弄っていたスマートフォンのマップのアプリを表示させる。が、暗いバスの中、強い光を放つ画面に味気なさを覚えてため息とともに電源を切った。
もう何時間もバスに揺られているが、全く乗り物酔いも閉塞感もない。乗り物に強くて良かった。
強くて良かったのだが―
寝れない。
昔からだが、ありとあらゆる交通機関で寝ることが出来ない。目を閉じても寝られない。
修学旅行やら合宿やら家族旅行やら、一人起きているので大体寂しい思いをするし、皆が元気な時に異常に疲れている。もう慣れてしまったが。
まあバスはいい。車窓から風景が見られるから。地獄なのは飛行機である。周囲に配慮してモニターに電気をつけるのは憚られるし、夜になると外はあまり見えない。国内線はまあ退屈、という程度だが、国際線だと十時間以上じっとしているだけのこともある。文庫本など数時間で読み終わるし、旅行に移動用のための娯楽を大量に持っていくわけにもいかない。単純に荷物になる。荷物が重いのも嫌いだ。この旅にもリュック一つとサコッシュ一つで来たため、もちろん娯楽はスマホくらいだ。
とにかく寝られる人がうらやましい。
腰を浮かせてちらっと周囲を伺うと、座席の周りの乗客はほとんど皆寝ていた。日本人は交通機関で寝る、危機意識がないだの耳にすることがあるが、欧州の人々も夜行バスではしっかり寝るらしい。
こういう時は風景を見ているのだが、それにも飽きて今までずーっとスマホを弄っていた。8時間以上の長距離移動のため、それにも飽きてしまったのだが。
仕方ない。私は再びバスの外へ目を向けて、
目を見開いた。
『雪原』が、目に飛び込んできた。
薄暗い灰色の空、その下でもよくわかる、空の色を写した雪。それが一面に広がり、斜面の上へ広がっていた。
雪の上にはぽつぽつと木が、家があるのみで、生物の気配や温かさのない、退廃的な、されど驚くほどに美しい景色が、そこにはあった。
東欧の山は雪が積もるのだ。初めて知った。
冷気が濃くなり、高度が上がったのはなんとなくわかっていたし、スロバキアで途中下車した際には雪がちらついていた。だが、雪のめったに降らない地域で育った私は、この殺伐とした雪原を目にするとは全く思わなかったのである。
見たことのない景色を、私は夢中で目に焼き付けた。
車窓から雪景色を眺めていると、木々の乱立する狭い道に差し掛かった。
その光景に、心が寒さを覚える。
木々には分厚く雪が積もり、それをバスのタイヤ付近のライトが下から不気味に照らしているのである。
まるでシーツを被ったお化けのように。
白装束の幽霊みたいに。
様々な感情が私の胸に満ちた。
イエティ、雪女、雪の女王、雪ん婆。
昔話、小説等に登場した妖しいいきものたち。
小さなころから親しんだ、美しいいきものたち。
彼らが、そこにいる気がした。雪の積もった枝の影から、木々の奥から、彼らが出てくるのではないか。このあまりに生命を感じさせない冷たい空間から。人の手の及ばぬ、白い雪に縁どられた、鮮やかな暗闇から。
先人たちが形作ってきた自然への畏怖に触れられた気がして、私はしばし、バスの柔らかい光が照らす雪の世界を楽しんだ。
私は旅行するとき、交通情報などの必要最低限の情報しか調べない。この旅行にあたり、行く場所の気候は調べなかった。そしてなにより、苦痛でしかないこの退屈な時間、それがもたらした驚きと喜び。こんなことがもたらす富もあるのだ。
そして気づいた。
東欧、雪積もるくらい寒いの?
ミスった。
穴の開いたスニーカー履いてきた。
車窓 零 @22koa8hako
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