実験的倉庫
睦月文香
嗜虐性の先にあるモノ
幼いころから蟻をいじめるのはあまり好きじゃなかった。蟻ではなく、もっと感情が感じられる生き物が好きだった。たとえば、猫。私は猫をいじめるのが好きだった。
勘違いしないでもらいたい。猫を叩いたり蹴ったり、殺したりするのは趣味じゃない。ただ、餌をちらつかせて、それを与えたり、与えなかったりするのが楽しいのだ。時には、一番お気に入りの猫に意地悪するために、他の猫にたくさん餌をあげて、その猫にだけ冷たく接したりする。とても楽しい。
私は、自分が愛しているものを傷つけるのが好きだ。それも、傷つけることでもっと愛させるように仕向けるのが好きだ。それは何か歪んだ過去が原因なのか、と疑われることが多いけれど、思い当たることはない。昔からずっとそうであったように思うし、だれしもそういう感覚は多かれ少なかれあるものだと、私は思っている。
サディズムとは微妙に違う。愛する者を傷つけたいという欲求。(余計な解説かもしれないが、サディズムは性的興奮が含まれていることが条件であり、私の場合は性的欲求とは一切結びついていない)
よく年頃の娘は、父親を嫌うという。実際私の友人が、その父親のことを悪く言っているのを何度も見てきた。「あぁこれが『一般的』というやつか」と私は感心したものだ。
私は幼いころからニ十歳になった今に至るまで、父がずっと好きだった。一度も気持ち悪いと思ったことはないし、嫌いだと思ったこともない。嫌な部分のひとつやふたつはあるけれど、そんなの友達の中にもあるものだし、お母さんの中にもある。だから、それが決定的な嫌悪感を産んだりはしない。私は、父が大好きだ。
「お父さんって、キモいよね」
中学生の時、試しにそう言ってみた。父は、とても傷ついた顔をした。私は、思わず顔がほころんでしまい、慌てて背を向けた。
「……なぁ咲喜。俺のどこがキモい? 身なりには気を付けてるけど……」
「お父さんがお父さんだからキモい」
私の嗜虐性は留まるところを知らない。父が傷つけば傷つくほど、愉快な気持ちが増えていく。罪悪感? それもいいスパイスだ!
そのあとさりげなく父の方を見ると、少し泣いていた。私は嬉しくて、可愛くて、飛びあがりそうだった。このあとどうしてやろうかと迷ったあげく、後ろから抱きしめて「ごめんねー」とさらっと耳元で囁いた。
自分の行動の愚かしさと恥ずかしさで、顔が真っ赤になった。実の父親にこんなことするなんて!
……しかし、楽しかった。傷つけて、傷つけて、最後にはほんの少し優しくしてあげる。私はそういうのが、大好きだったのだ。愛される過程も、傷つける過程も、最後に慰める過程も、全部楽しかった。
「悪気はあったのか?」だって? そもそも悪気って何? 悪意って何? 私はただ、自分が楽しいからそうやってるだけ。食事をとったり、睡眠をとったりすることに、何の悪意があるの? 動物のお肉を食べることに悪意はある?
悪意なんて全部ただの被害妄想。結局は「そうしたい」の結果に過ぎないんだから!
まぁそんなことを言ってみても、やっぱり悪意っていうものは存在するんだと思う。私は容姿に優れているし、そのうえ勉強もできて交友関係も広く、異性にモテるので、色んな人から嫉妬される。同級生からは言うまでもなく、教師からも「優秀さ」という点で嫉妬される。そして「私を破滅させてやろう」という意志もたくさん感じてきた。意地悪なことをしてくる人は、たくさんいた。
不思議なことに私には復讐心というものがなかった。蚊に刺されても、私は刺してきて蚊を憎んだりはしない。うっとおしいなとは思うし、飛んでたらもちろん叩く。殺したら、ゲームをクリアしたときのように、無邪気に喜ぶ。
結局人間に対しても、同じだ。復讐はしない。する必要もない。ただ、うっとおしいなと思ったら、片手間で叩き潰す。それで叩き潰れたら、無邪気に喜ぶ。
実際、人を破滅させようと目論んだりする人間は、弱い。なぜなら自分がどこに立っているかすぐに忘れるからだ。そして、気づいたら、その人自身が破滅しかけている。破滅していく。道ずれにすらできず。だってその時には、自分を守ることで精いっぱいになっていて、復讐のことなどすっかり忘れているのだから。かわいそうに。
私は強い人間だった。集団でひとりをイジメるなんていうのは趣味に反していたし、私はどちらかというと、誰からもイジメられないタイプの人間にたくさん意地悪して、その人間に愛されるのが好きだった。私のことを親友だと思う人は、男女ともにたくさんいる。でも私が親友だと思うのは、この私自身の欲望だけ。私は愛されるのが好きなのであって、愛するのはそれほど好きじゃないのだ。
あぁ、私だけを頼りにして相談してきた友人を突き放すことは、どうしようもなく楽しい! 目の前で悲しくて、寂しくて、絶望して泣いている人を見るのが、私は大好きだ!
しかし私は、案外優しい性格のようで、人を傷つけた後は必ず手当をする。最初に冷たい対応をしても、なんだかんだ最後まで面倒を見てやる。責任感ではなく……ただそれもまた、楽しいのだ。私は人を傷つけるのが好きだが、人を癒すのも好きなのだ。
人類の歴史はその繰り返しだし、私はその繰り返しを愛している! あぁ豊かな人間! 傷つけ合い、癒し合う。何という素晴らしき輪廻!
「ねぇ咲喜。君さぁ……性格実は悪いよね」
ある時、大学の男友達にそう告げられた。心底嫌そうな顔をしていた。
「ん? かもね」
私は何気なく返事をする。私は当時この人のことが好きでも嫌いでもなかったから。
「でも、性格の悪さってなんだろう?」
「何? 哲学的な話がしたいの? そういうキャラじゃないでしょ」
私は可愛らしく笑った。普通なら、相手もつられて笑う。その男友達も、よく笑う、陽気なキャラクターで人と接していた。しかし、この日は顔をしかめるだけだった。
「キャラの話は置いておいてくれ。君の性格の話がしたい」
「いや」
冷たく拒絶した。
傷つくかな、と思った。どんな悲しい顔をするかな、と想像して、すでにニヤけていた。でもその男は、目を細め、私をじっと睨んでいた。見透かすように、確かめるように。
なぜだろう。胸が高鳴るのを感じた。
「僕は最初君に会った時、素敵な人だと思った。皆がそう思っているように、僕も君の外面に騙されたわけだ。しかし付き合っていくうちに、君は悪魔のような人間だと思うようになった。周りの人間を弄び、くるくる回っているのを傍から見て大笑いする。そんな人間に見えた」
「それで?」
私はワクワクしていた。この人の考察は、結構当たっている。ここまで私のことを言い当てた人は、他にいなかったから。
「しかしそれもきっと勘違いだと、僕の直感は言っている。君は悪魔的な側面を持っているが……しかし悪魔的とは何だ? 映画や漫画で主人公が悩んだり苦しんだりする姿を見て喜ぶのは、誰もが持っている側面だ。それを現実でやらないのは、良識があるからではなく、その力がないだけだ。もしその力があって、倫理観という妄想に囚われていないなら、むしろ君のような人間の君のような行動は、自然なことなのではないか?」
「うんうん。よく考えてるね」
私は満面の笑み。彼は、一瞬だけ笑った。そしてまた、真面目な顔で私を見つめた。
「ひとつ確かなことがある。君には倫理観と同情心がない。憎しみもない。まるで……まるで、古い神のような人間だ」
「古い神? 何それ」
私はその表現のおかしさに笑った。
「たとえば、ヤハウェ。ユダヤ教の神は、己が倫理であるから、人を殺したり、悲惨な目に合わせることに一切の躊躇がなかった。そして同情心も、ほとんど持ち合わせていなかった。憎しみも、なかった。憎しみの代わりに大きな怒りだけがあった」
「ふんふん。そうなんだ。私ユダヤ教知らないから、勉強になるなぁ」
「ギリシャ神話のゼウスもそうだ。倫理観は一切なく、よく笑い、よく怒る。そして他人に一切同情しない」
「神様ってクズばっかりなんだね」
「クズ? クズは人間の方だったはずなんだ。正しさは、かつて君の側にあった」
「変な事言うね」
「あぁ。自分でも何を言っているのかよくわからない。今日のところはもうやめにしよう。また君と話がしたい」
「いいよ。話そう話そう」
そうして、私と彼が二人きりでいる時間が長くなって、自然と交際するようになった。不思議なことに、私は彼を傷つけなかった。いや、「傷つけられなかった?」
何を言っても、軽く流されてしまう。彼にとって私は、不思議な存在であり、何をしても現実として受け入れらえる存在であったようだ。彼は私に一切失望しないし、怒らない。前に別の男と寝たことを事細かに説明してみたが、一瞬だけ不愉快なそぶりを見せただけだった。
私は「君の方がよっぽど人間離れしてるよ!」と言ってやりたかったが、何となくそれはプライドが許さなかった。
確かに私たちは、かつて神々だったのかもしれないと思った。私たちのような人間は、他に見たことがない。あらゆるルールの向こう側にいて、よく笑い、よく泣き、よく怒る。一切の憎しみを持たず、人を傷つけることも人を愛することも喜ぶ。
私に傷つけられた人間は、私のことを愛しておきながら、小さな復讐心を抱き続ける。
「あいつ、いつかひどい目にあう」
「彼氏に振られてしまえばいいのに」
私を親友だと語る友人の陰口を、偶然聞いてしまったことも何度かあるが、何とも思わない。虫けらが、虫けら同士で本音を語り合っている。神が自分の悪口を言う人間をわざわざ罰する必要があるだろうか? そんなことしなくたって、勝手に人間は破滅していくのに。
「僕らはいつか、復讐されると思うよ。古い神々と同じように、醜い虫けらたちに、その身体を貪られ、息絶える」
「あはは。それならそれで構わないかな。まぁ、できれば、いつか彼らが、私たちみたいに大きく美しくなればいい」
ベッドの上で、私たちにしか分からない比喩を語り合う。まるで神々のように。
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